1/運河と天化の町4
いつか、ご主人が言っていたことを思い出す。
──女を待たせちゃいかん。
痛感する、さすがはご主人だ。小生がこの言葉をしっかり覚えていて、ちゃんと活かせたなら、ビーフジャーキーを無理やり口の中に突っ込まれて「契約成立だ」とか言われずに済んだのかもしれない。
一方的な餌付けに遭遇した小生はまったくもって納得いかないが、ビーフジャーキーは美味しいのでとりあえず噛み噛みする。その小生の顔を、女の子が満足げな顔で覗き込んでいる。
この子はどうあっても小生と会話がしたいらしい。
「あなた、名前はなんていうの?」
ジャーキーをごっくし飲み込み、
「犬に名を尋ねるときは、まず自分からだ」
女の子が目を丸くする。一秒経ってから、「なるほど」と頷き、
「わたしの名前はディス。ディス・メイメリー。あなたは?」
「ない」
間があいた。ディスは首を傾げ、
「ナイ?」
「名無しだ」
怪訝な顔をされてしまった。
そんな顔をされても小生は困る。名前が無いのは小生のせいではないし、無くてもあまり困らない。どうしても名前が必要になることもあるにはあるが、自分で適当に名乗って事足りた。もちろんそれが小生の本当の名前になることはない。その場限りの、名も無き者に与えられた使い捨ての名前だ。
「生まれてから、ずっと名無しなの?」
「そういうわけではない。ディスは小生が軍犬であると一目で看破しただろう? ご名答だ。小生は軍犬なのだ。そして軍犬には一匹残らず名がついているものだ。牙狼とか、嵐刃とか、雷火とか、勇敢な名が」
「……じゃあ、その頃の名前は?」
ディスの言葉を受け、頭の中のスクリーンに遥か昔の記憶が電気の速度でよみがえる。戦時中、塹壕の中の記憶だった。十数人の人間が壁に背を預け、その倍近い数の軍犬が無表情で地面に伏せている。空は分厚い雲に覆われていて暗く、地面と雲の間では無数の光が飛び交っていた。
それは戦争の光で、空は戦争の色で、小生は戦争の犬だった。
どくろを踏み潰し、肉を噛み切り、命を削り、血の川を泳ぎ、戦野を疾走するべくこの身は生を受けた。そんな軍犬につけられた名は、黒疾風といった。疾風のように戦地を駆ける黒、それが小生の価値だった。
それはつまり、戦争の終結が意味するところは──
「その頃の名前は、もう死んだ」
戦争の爪痕も少しずつ癒えてきて、平和になって、大きな事件といえばコソ泥くらいで、そんな時代になって、それでもまだ、小生は生きている。
けれど、それは黒疾風とは違う。
「……つまり、昔は名前があったけれど、今は名無しっていうこと?」
難しそうな顔でディスが訊ねる。
小生は頷いた。
「小生のことを呼ぶのなら、犬。それか軍犬で足りるであろう」
少なくとも、小生はそう思う。
けれど、どうやらディスは納得いかないらしい。どこか感情表現に乏しい顔をよく見れば、眉間に3ミリしわが寄っている。おそらく悩み事、それか考え事をしているときの顔がこれではないか、と小生が思った瞬間、
悩み事か考え事をしているときだと推測された表情が、唐突にぶっ壊れた。
「あ!」という顔。
そして、「あ!」のまま踵を返し、小生に背を向け、とことこ走っていずこへと消えてしまった。あっという間の出来事だった。
呼び止める間もなかった。
「なんだったのだろう……」
疑問は広大な海に呑まれて消える。
小生は回れ右をして、空を眺めた。さっきまで慌しさはどこへやら、快晴の空は遥かまで穏やかで、水平線は見惚れるほどにたおやかである。どの雲も静かにと西へ流れてゆき、まるで海の果てでは雲たちの集会があるのではと思わせた。陽はゆっくりと傾き始め、風は冷たさを増していく。ここから見渡す夕陽の美しさとはどれほどだろう、と小生が思った瞬間、
「あ!」という顔であっという間に消えたディスの大声によって、センチメンタルな雰囲気は唐突にぶっ壊れた。
「シュシュ!!」
驚いて、思わず振り向いた。
もっとも、別に驚くほどの声だったわけではなくて、ディスが大声を発するということが意外に思えて驚いたのだった。会って数分だけれど、ディスは消極的な子なのではないかと小生は感じていたのだ。
声の発せられた場所へと視線をめぐらす。
第六区画の草原の真ん中にある大きな岩が目についた。
高さは三メートル、幅と奥行きは十メートル以上もある大きな岩だ。
もちろんそんな高さでは容易に登ることなど出来ない。だからその近くには一回り、あるいは二回り小さな岩がいくつかあり、それらを梯子することになる。
その大岩の上はどうなっているのかというと、子供なら胸の辺りまで浸かってしまうような草の海だ。
ディスはその岩の上にいた。
草の生えていない岩の端っこに立って、小生を見下ろしている。
手にはビーフジャーキーが五本も握られている。その干し肉の束で小生を指して告げる。
「あなたの名前。わたしが考えた」
ぽかん、と小生はディスを見上げる。
その間抜け面とは逆に、ディスはこれ以上ないくらい真摯な顔をしていた。目をつむって深呼吸し、決意したように目を開け、意外なほどしっかりとした声で、
「わたしが、あなたの新しいご主人になる」
ディスは、そう言った。
その言葉はなぜか、小生の身体の中でぐわんぐわんと反響した。
──こんなことも、あるのだな。
ぷかりと頭に浮かんだ言葉。
フラッシュバックする旅路の記憶。
終戦が十三年前で、旅の決意をしたのも十三年前。当時の世界に残っていた都市は三百二十あって、十三年間で二百十五の都市を巡った。巨大な時計搭がある町や、山ばっかりの町、どこもかしこも高層ビルにあふれた町もあれば、ひたすら田んぼが続く町もある。その中で出会った数え切れない人々を思い返しても、こんなことを言う人間はいなかった。
「やっぱ、いや?」
小生がずっと黙っていたせいであろうか、ディスの声は消え入りそうなほどに小さくなった。そこに何か、怯えのようなものが隠れていることを、小生はなんとなく感じる。
出来るだけ穏やかな声音で、
「そんなことはない。……でも、本当に小生のご主人になるのか?」
真っ直ぐディスの目を見る。
ディスは少しだけ躊躇う素振りを見せたが、はっきりと頷いた。
「今のわたしには、必要なことだから」
岩の上に立つディスと、草原の上に座る小生。西の彼方がほんの少しだけ赤みを帯びている。日暮れへと傾ぐ空、小生の体内にある時計は十七時二十三分四十秒を示していた。その時間を、小生は記憶の一番深いところに大事に保存して、何重にも渡って鍵をかけた。
静かに息を吸った。
「シュシュ──いい名前だ」
三メートルの高さを挟み、小生とディスの視線が交わる。
ディスはほっとしたような顔で、
「……よろしくね」
小生は、「わん」と吠えてそれに答えた。
黄昏時の一歩前、天眼の円丘にある第六区画の午後五時半。各所に取り付けられたスピーカーが、ぶつり、というノイズを漏らし、そろそろ日暮れだから帰りのバスが来るぞ、と告げる。
少し肌寒い丘の夕焼けは、間もなくだった。
1/運河と天化の町