1/運河と天化の町2
しばらく歩いて、ふと思う。
──不思議な道だ。
大きな弧を描きながら建物の隙間を流れる運河と、それに平行して伸びる細い道。道ゆく人の数は小生の肉球の数よりも少なく、したがって音もない。それと対照的な大通りの遠い喧騒は、この道に寂しげな印象を持たせた。
建物がおしくらまんじゅうをしているような町並みにおいて、その静寂は非常にあやうい。狭い路地がまるで迷宮の入り口に見え、歩けど歩けどあの遠い喧騒には永遠に届かないのでは、と錯覚する。
迷子になった人間の子供の心境とはこんな感じだろうか、と小生は思う。
そんな不安を遠い喧騒にすがることで押し殺し、小生は狭く影の差す静かな運河沿いの道を歩き続けた。
路地裏的な小運河沿いの道を抜けて大通りに出たのは、運河がいくつも別のルートへと枝分かれること三回、たまらなくなって後ろを振り返ること十七回、おそろしくなって尿意に襲われること二回の末である。
やっと救われた、と小生、ため息。
さて、大通りである。
太陽の光をいっぱいに浴びて黄金色に光る大通りは、辿ってきた路地裏の狭さや暗さとは、まるで対照的なさまだった。
大勢の人の声がうねり、響き、空気を轟かせながら這うように広がる。さらに、大通り沿いの建物をはさんだ向こう側には大運河があり、そこからの喧騒が上乗せされて、まるで見えない膜に全身を叩かれるような感覚。
遠く感じた大通りの喧騒は、それほどまでに激かった。
様々な人の群れが道を埋め尽くし、無数の店舗が並び、町の中央からは時計搭の鐘の音が午後二時を告げる。石像に扮した大道芸人がおり、昼間からへべれけになったオヤジがベンチで大いびきをかき、オープン・カフェからは痴話喧嘩と世間話のブレンドが届いてくる。
小生は両耳をたたんで、溢れる人混みを縫うようにして歩いた。
平日だと言うのに、すさまじい賑わいぶりだった。
とにかく人が多い。
第十都市以下は緊急避難条例が出ているため、自家用車の使用が禁じられているせいもあろう。二階建てのバスや公共タクシーなどもあるにはあるが、それらだけで許容しきれる数ではないようだった。
緊急避難条例というのは、「戦争時の残骸」が引き起こす様々な天災による被害を出来るだけ抑え、避難の際の混乱を減らすのを目的とした条例である。これによって、現在第十都市以下の町では自家用車を持つことを制限されている。交通網の麻痺による避難の遅れや、それによる緊急車両の通過の妨げなどなど、理由はいろいろとある。
というわけで、現在はバスで移動するのが普通だ。
うれしいことに、動物お断りのバスも緊急避難条例のお陰で絶滅寸前となった。これからの時代、人も犬も猫もネズミもゴキブリも、みんな仲良くバスで移動というわけなのだ。
わけなのだけれど。
「……乗れないではないか」
目的地行きのバスでなくとも、ある程度近い辺りまではバスで行こう、という考えからやってきたバス停。
甘かった。
まさにすし詰め状態。
とはいえ小生は犬だから、辛うじて入る余地はあろう。きょろきょろ見回すと、オバサンのダイコンみたいな足と老人の枯れ木みたいな足の間に隙間を発見。身体を潜り込ませることにした。なんとか乗れそうだ、とバスのステップを踏んだ瞬間だった。
「あら、あなたはだめよ。服に毛がつくじゃないの」
ダイコン足のオバサンだった。
口の端を引きつらせ、時価数千万はありそうな装飾品だらけの左手で「しっしっ」と手を振りやがっている。小生は思う、宝石も可哀想に、と。きっとリングの内側は脂まみれに違いない。
自家用車の入手が著しく困難となった結果、このような金持ちも一般人に混じってバスに乗ることがある。そう言った人種専用のバスもあるにはあるが、この歩く身代金はどうやらそっちのバスに乗り損ねたらしい。
まるまる太ったダイコン足は、窮屈そうに三人分のスペースを占領してなお尊大だった。
「ほら、あっちへ行きなさい」
しかし小生はこんなことで怒ったりしない。
小生が無理に乗車したとして、そのせいでこのダイコン足が騒いだりしたら、周りの乗客に迷惑がかかってしまうからだ。ダイコン足に向かって盛大に唸り、吼えまくってやりたい衝動を抑え、渋々バスから離れることにした。
小生、大人である。走り去るバスに、ダイコン足よ腐れ、と呪いを送っておくにとどめたのである。
そんなわけで、バスには乗れなかった。
しかたなく喧騒の波を歩いた。二つ目の交差点で右に折れ、それからまた二つ目の交差点にたどり着いたのは、一時間半ほど経ってからだった。
ここまで来ると喧騒は殆ど聞こえなくなっていた。
いや、小生の耳ならば、澄ませば大通りどころかあの船頭のいびきすら聞き分けられる自信がある。
だがそれより気になる音が交差点の先から聞こえた。
その音源はまだまだずっと先にあるのだけれど、まるで小生を呼ぶように鼓膜を刺激する。頭の中に、白いあぶくと、果てなく深い青が浮かぶ。
波の音だった。
海が近いのだ。
「潮の匂いだ」
横断歩道を渡り、左右を木々に囲まれた信号機を通り過ぎる。その先に続く長い上り坂を小生は歩き始める。道は真っ直ぐだったり、螺旋を描く勢いで曲がっていたり、ときには捩れるようなカーブの連続もあった。
二車線の道の左右を常に木々が囲み、影が絶えることなく続いている。木漏れ日がアスファルトの上に生み出す斑な模様を眺めながら、なんて平和だ、と小生はつぶやく。
小生は戦争のために生まれた。
生まれたときから戦争は始まっていて、戦争に参加するのを目的として育てられた。視力が宿るよりも身体の半分以上を機械に変えられる方が先だったし、それは当たり前のことなのだと教えられた。
実際、それが当たり前の環境に小生はいた。
戦争は、空の戦争と呼ばれていた。
御伽噺のような戦争だ。空には無数の島が浮かび、その空の大地に都市が建立され、科学は魔法と融合して人々の暮らしを支えていた。空中都市と魔法の繁栄、今となっては、そのどちらもが夢のような出来事。
夢のようで、今思えば地獄のような戦争だった。
破滅の彩りに満ちた空は永劫変わることなどなく、どこの匂いをかいでも鉄血の臭いが鼻腔を犯し、小生の爪と牙は赤黒く、それは即ち世界の色だった。この命が燃え尽きるまで、ただこの色の中を泳いでいくのだと、小生はそう思っていた。
それでも、戦争はなんとか終わった。
空の戦争は、甚大な被害を残して終結した。二十億を超えた死傷者、大国の目に見えるような衰退と崩壊、当時の兵器に残されたバグによる異常気象と陸地の水没、戦争時代の魔法使いたちを襲った肉体が消滅する奇病。
戦いが終結しても、世界はあわただしい。
けれど、こうして陽の下を歩くとき、少なくとも今この瞬間だけは、なんて平和なのだろう、と感じる。長い坂道に吹き降ろす風の涼しさ。木陰の心地よさ。太陽の暖かさ。目に映るものも、映らないものも、すべてがゆっくりと流動している。
そんな穏やかな景色の中、小さな看板が、ぽつんと立っていた。
小生は近づき、書かれている文字を見る。
看板には、こうあった。
『天化の丘まで、あと1.5キロ』
それは、目的地の名だった。