1/運河と天化の町1
小生は犬である。
名前は、もうない。
小生はかつて軍犬だった。
身体の中身を半機械化し、パートナーの指示に従って戦場を駆ける戦闘犬である。
その当時はちゃんとご主人もいたし、名前もあった。当時のご主人は軍犬隊のチーフトレーナーで、戦闘では小生のパートナーとして活躍した。ご主人は、小生のことを「黒疾風」という名で呼んだ。
けれど、ご主人の顔を見たのはざっと十数年も昔の話になる。戦争も終局間近というところで戦死したのだ。ご主人が死に、その戦争も終わると、小生の名を呼ぶものはいなくなった。
黒疾風という勇ましい名は、小生が野良犬と成り果てて意味をなくした。
でも、寂しはなかった。
小生は旅が好きだ。
戦争が終わり、平和になった世界で旅をする。船に乗って、町から町へと移動しては名所を巡り、名物を食べたりするのが小生の趣味であった。
ちなみに、今いる町はノーヴェの町という。
人口は約五十二万人で、高低差の激しい地形と石造りの建築物が美しく調和する町である。住人たちの生活を支えているのは、町の至るところを走る運河だ。彼らの多くは運河に沿った土地に店を構え、運河を渡って物資を運搬する。
その運河の水面に、黒い犬の顔が揺れてねじれて映っている。
恥ずかしながら、小生の顔である。
小生は新たな町を訪れるたび、決まって人間に道を尋ねる。しかも、その町を知り尽くした者を選んで尋ねる。地図や名所巡りのパンフレットを見るという手もあるが、小生の前足でそれは困難な作業だった。
それに、現地の人間から生の声を聞いた方が、旅をしているという感じをより濃く得られる気がした。
今回は大運河のノーヴェの町だ。
ゆえに、運河の舟を漕ぐものはゼクストの地理に精通している、と小生は推測した。
道端から運河へと顔を突き出し、ついっ、と辺りを見渡してみる。深緑色の水面、時間をかけて波に蝕まれていく石造りの運河、木造の水道橋、その向こうに小さな船着き。
船着きに繋留させた船の上で船頭がひとり昼寝をしているのが見える。道から生えた枝のようになっている桟橋まで歩いていき、声をかけてみた。
「旦那、この町の名所を教えてくれんかね」
客かと思ったらしい。船頭は飛び起きた。
「あっと、すまんね。いい陽気だもん、寝ちまっ」
船頭の言葉はそこで止まる。
小生に目を向けるや否や、目を丸くして固まってしまった。その呪縛を解くのに、船頭は五秒もかかった。指差して、
「しゃべる、犬かい?」
眉間にしわ。小生の目を覗き込み、「信じがたい」という表情でかぶりを振ると、再び小生の目を覗き込んできた。驚愕のため息が、その口から長々と漏れた。
「珍しいか?」
「珍しいともさ。しゃべる犬っつーと、軍犬だろ? 軍犬はただでさえ数が少ないうえ、大概は自分の町から出ようとしないような犬だ。わんこ、お前さんは、この町に住んでんのかい?」
「いいや、小生は旅が趣味なだけだ。世界中の町を渡り歩き、その町の名所を巡っている」
ほぅ、と船頭は笑う。
「そいつぁ粋な人生だ。──いや、犬なんだから犬生か? まあいいや、それより、名所と言ったな。この町の名所ったら、世界的に有名な場所があるぞ」
「どんな?」
「まあ、あんま楽しいとこではねぇな。この辺鄙なゼクストの町が世界中に知れ渡ることんなった場所なんだが、わんこは知らないのかい?」
小生は首を横に振る。
旅での感動をより高めるために、名所に関する情報は極力仕入れないのが小生流である。
「珍しいの上塗りだな。まあ着いてのお楽しみでいいか。名前ぐらい聞いたことはあるだろうし──っと、」
船頭は腰を上げ、船着き場の先、運河に沿って真っ直ぐ伸びている道の先を指差した。
「この道を真っ直ぐ行って、二つ目の交差点で右に曲がりな。そっからまた二つ目の交差点で左に行け」
あとは登りの一本道だ、と船頭は言った。
小生は船着き場から離れて、長く続く道を見通した。人もまばらな石畳の道は、最果てまで伸びていそうなほどに長い。その道から少し目線を上げてみる。石造りの第九都市、ベージュの町並みの背景には、深い緑に覆われた山がうっそりとそびえている。
「ひたすら上り坂だから、ちと疲れるかもしれん。金を持ってるならバスもいいが、あそこは名所の割に人が殆どいなくてな。うんこらしょっと、」
船頭は懐から懐中時計を取り出し、
「この時間だと、次のバスは日暮れになる」
「では、歩いた方が早いな」
「だな」
懐中時計をしまうと、船頭は尻を掻いて大きなあくびをした。
昼寝を邪魔されたせいだろう、どうやらまだ寝足りないらしい。たっぷり十人は乗れそうな舟の上にどっかと腰を落として、頭をばりばり掻き毟りはじめた。
「疲れない程度に急げ。この町の日暮れは少し早い」
そしてまたあくび。
そんな船頭を見遣り、小生は自慢げに言ってみせる。
「心配には及ばない、小生は歩くのが得意だ。旦那の昼寝と同じくらいにな」
船頭が、牛も呑みそうなあくびを思わず途中でとめた。
そして、いきなり豪快に笑い出した。
「言うねえ! 軍犬ってのは、もっとカタイ連中だと思ったとったわ!」
犬だって冗談くらい言う、というのはつくづく犬の見解である。
戦友から「影岩」と呼ばれていた時代を思い出した。影のように暗く、岩のようにつまらないやつ。それが戦時中の小生だったのだ。
しかしこの船頭にしてみれば、真っ黒なオオカミ大の犬の口から飛び出す冗談は、一流のエンターテインメントであるらしい。
船頭はひとしきり笑った。やがて、少年のような顔で、軽く手を振った。
「ま、そんならあっという間だ」
小生は、わん、と吠えて答える。
なんとなく気分を良くしながら、爪を鳴らして石畳の上を歩き出した。