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5/青空

 


 そうして、雨と風のない朝がやってきた。

 小生はいつもとまったく同じ時間に目を覚ました。もうディスが起こしに来ることはなく、ディスを待つこともない。そんな朝の空は、深呼吸をしたくなるほどの快晴だ。

 抜けるような青空から降る陽射しは、ひんやりとした早朝の空気の中でほんのとりと暖かく、とても心地いい。

 相も変わらず静寂であり続ける天化の丘。

 未練はない。

 小生はおもむろに起き上がって歩き出す。草原を横切り、小道を通り、林をひとつ抜けて、案内板がある正面玄関まで歩いた。別れを告げるように振り返り、そこで少し驚いた。

 改めて眺めるノーヴェの丘に、暮らしてきた日々とはまったく別の印象を覚えたからだ。

 ──冷たい風が吹き、人の気配はなく、閑散とした地。

 それもそのはず、ここは墓地なのだから。

 そして、小生は天化の丘を後にした。

 丘の出口は木立に囲まれた未舗装の小道。そこを抜ければ雑草たちに侵食された天化の丘前バス停、そしてアスファルトの道。野花と雑草、空と海、丘を巻くように伸びている長い長い下り坂。

 昨日とは比べ物にならないほどゆったりと、小生は坂道を降りていく。

 時刻は八時三十分頃、下りきった坂道の前で一度足を止めた。見上げれば信号機があり、道は十字に分かれて、それぞれの道がずうっと伸びている。

 小生は、左の道を進む。

 朗らかな天気は、まるで世界中の時間が止まってしまったのではないかと思うほどだ。

 並木道の日陰を歩き続け、真っ直ぐ続く道の背景に野山を見ながら、やがて道はなだからな下り坂になっていく。長く、半径の大きいそのカーブを越えれば、二車線だった車道はいつしか一車線になっている。この頃には時刻も十一時を回り、気温もだいぶ上がっていた。熱画像で小生を見れば、真っ黒な身体が白と赤にペイントされていたに違いない。

 さて、そこから先の詳細な道程は、小生自身もよく覚えていない。

 一車線の道はさらに狭くなり、いつしか歩道もなくなって、代わりに民家が増えていく。さすがに昨日よりも人が多く、狼のような体躯をした軍犬には好奇の視線が注がれた。

 それらの人目から逃れ、民家の屋根へと飛び移ったのは何時ごろだったであろうか。フウの町に伝わるニンジャのように、小生は屋根から屋根へと飛び移りながら進んだ。

 そうして臨海公園前バス停へと着いたのは、陽射しもはりきる午後十二時過ぎだ。

 水溜りを避けながら、今度は路地へと入る。

 迷路のような路地には潮風が吹き抜けていく。その匂いに誘われるように、小生は迷いなく歩く。目的地は路地の果て、どこよりも潮風が濃い場所にある、なんの変哲もない二階建ての家だ。

 ウミネコの鳴き声を聞きながら、小生はその家の前にたどり着いた。

 たとえ寝泊りしたことがなくとも、主人の家がここである限り、戻る場所はここだったのだ。

 玄関をくぐると、懐かしい匂いが小生を満たした。

 馴染みないはずなのに、感じる念は郷愁に似ていた。まるで長年住んだ住処を歩くような足取りで光の差す階段を上っていく。

 行く部屋はひとつしかない。二階にある東の部屋、窓から海が見渡せるあの部屋。

「おはよう、シュシュ」

 窓際に置かれた椅子に、白いシャツを着た男がひとり座っていた。

 数時間前まで死人だったくせして、男は、アクロは穏やかな表情をしている。

 小生が部屋に入ると、アクロは読んでいた本にしおりを挟んで机の上に置く。その本の隣にあるカップからは紅茶の薫りがした。

「どうして小生の名前を知っている?」

 アクロは机に置かれた紙を取り、

「大体のことはここに書いてあった。ぼくが消えてしまったことも、君のことも、ぼくの代わりにディスが消えてしまったことも。……参ったな、あの子の才能はぼくが思っていた以上に並外れていた」

 少しだけ表情を陰らせ、アクロは紅茶を一口飲もうととカップを手に取るが、すっかり空であることに気づいて、「ああもう飲んでしまったんだった」と呟いた。

 再びカップを置き、視線は宙に置き、

「ディスがぼくを大事に思ってくれるのはすごく嬉しい。けれどそれ以上に悲しいよ。誰かの代わりに誰かが犠牲になっても、空席が埋まることは決してないのに」

 小生は、静かに首を振った。

「ディスは言っていた。自分は死ぬのではなく、アクロに混ざり、アクロと共に生き、三人でずっと一緒にいるのだと言っていた」

 アクロは、それでも表情を変えなかった。

 宙にあった視線だけが動き、潮風の入る窓の外へと向けられる。

 アクロは海を眺めたまま、しばらく沈黙した。

 開け放たれた窓から波音は近く、風の音もよく聞こえる。小生もまた口を開かず、海の音に耳を傾け、潮の匂いに鼻を利かせた。

 やがて、アクロは海を眺めたままつぶやいた。

「生き物は何かに影響されながら変わっていく。その影響が大きければ大きいほど、変化する姿にも大きな差が生まれる。ぼくの魂とディスの魂が一つになったのなら、いつか君がぼくの中にディスを感じるかもしれない」

 アクロの中にディスがいるかどうか、小生にはまだ分からなかった。

 でも、今はそれでいいのだろうと思う。目に見えるほどの変化や、聞いて分かるほどの変化だけがすべてではないのだ。

「──なあ、旅にでも行くか」

 アクロは振り返り、

「え?」

「小生はこの世界を旅しているんだ。ディスはアクロと一緒にいろんな世界を歩きたいと言っていた。 そして小生はディスと約束した、いつか三人で旅をしよう、とな」

 数秒の間があり、

「三人で旅──か」

 思案げな目で、アクロは部屋を眺めた。

 その視線がぐるっと一周して戻り、目の前の机に置かれた本の上へと落ちる。そのまま静かに本を見詰めた後、アクロはその本を手に取り、ゆっくりと席を立った。

 本棚はいくつもあるが、まったく迷わずにその本を納め、

「今日は、すごく天気がいい」

 小生は窓の外の空を眺めながら答える。

「降水確率はゼロパーセントだ」

 本当にいい天気だった。この空は二度と曇らないのだと言われれば、そう信じられるほどの快晴。こういう日はどうすればいい? 買い物に行くのもいいし、散歩もいい。スポーツで汗を流すのもいいし、陽射しを浴びるだけでもいい。

 家で読書というのには、なんとももったいない天気であると思うのだが。

 アクロは、穏やかな表情で選択した。

「ぼくはね、こう見えて弁当作りが結構上手いんだ」

 それは、

「外出にはやはりお弁当だと思うんだけれど、持っていくかい?」

 それはディスが願っていた、ささやかな言葉だった。

「ああ。それじゃあカツサンドを頼む」

 アクロは微笑し、「それなら急がないとね。もうお昼だ」と言い残して部屋を出て行く。その瞬間、あの感覚がふっと現れて、小生は引き寄せられるように二、三歩よろめいた。

 ディスとイメージを共有したときの、あの感覚だった。

 潮風が吹きぬける音のない部屋で、小生はひとり立ち尽くした。白い壁も、防音の分厚い扉も、ソファも、本棚の影たちも、小生の目には映らない。ただ、ディスが思い描いている世界が、小生の視界一杯に広がる。


 どこまでも高く突き抜ける、青い空。





 贋作ジグソー・パズル/おわり



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