4/贋作ジグソー・パズル4
雨が上がっている。
空気は澄み、ひんやりとしていて、一面には水と草の匂いが浮いている。
首をもたげれば空は黒く、星は慎ましく、月は満ちて大きく白い。
美しい雨上がり、天化の丘に下りた夜。
大木の袂に倒れているのだと気付き、小生は鉛の塊でも引きずるような動きで起き上がる。
一瞬前、小生の意識は確かにディスの目の前にあったはずだ。しかし、あの瞬間にいったい何が起きたのか、体内時計はあれから八時間以上が経っていることを告げていた。
八時間。
それは、馬鹿でも分かる絶望の数字だった。
耳も垂れれば尻尾も萎れる。
闇夜に目が慣れていくのと同じように、現実はじわりと心に染み込んでいく。
「早いものなんだな」
小生は木の下から離れ、時間をかけながらアクロの墓まで歩いた。
青々と茂った深い草の海と、その中心にある墓石。
意味のなくなった墓に訪れる者などいるはずもない。もはや路傍の石と変わらない。ディスはもういないし、ディスがここに来ないのなら、小生がここにいる理由もない。
この町でのことが、もう何もかも終わってしまったような気分だった。
最後の夜をここで過ごしたらこの町を出ようと思う。適当な船に忍び込んで、何時間も海の上を行き、この町を思い出すことが出来ないくらい遠くにある町に行こう。そこがどんな場所かは分からないけれど、小生は旅が好きだから、きっと楽しくなるはずである。
そうだ、それがいい。なんなら今すぐ港まで行ってしまうのもいい。思い立った日が吉日なのだ。ノーヴェの町には大きな港もあるし、もしかしたらこれから出向する船だってあるかもしれない。
小生は歩き出そうとして、ふと、何かが前足に当たった。
「ん?」
ちいさな黒い球体だった。
雨と風にさらされ、表面には無数の傷があり、泥にまみれている。
その汚れた球体が何であるか、小生は一目で分かった。半ば無意識に鼻を近づけ、匂いを嗅いでみる。懐かしい時間の匂いがした。
けれど、それに混じって濃密な死の匂いも嗅ぎ取れた。
「そうか。蛍星も、生き物だったな」
この墓から掘り出した、小さなプラネタリウム。
あの夜、ディスがアクロの墓石の傍に埋めたはずだった。しかしあの手で大した深さが掘れるはずもなく、ここ数日の風雨によって再び地上に出てきてしまったのだろう。
ディスと星空を見た夜の記憶が、波一つなかった意識の水上に浮き上がる。
透明な水面には記憶から結んだ絵が映り、さざめき始めた波は感情の起伏とリンクしているかのように鼓動と同じリズムを刻む。音もなく色もない、ゆったりとした記憶の再生が始まる。
綺麗な夜だったはずだ。
星は幾重にも重なってきらめき、身体は重力を感じたまま、まるで宇宙空間に投げ出されたような感覚を覚えていた。外で見るプラネタリウムは、ただ星を見上げるものとは違い、屋内で見るプラネタリウムとも違った。
もう一度見たい、と小生は思った。
泥のついた蛍星を口にくわえて、小生は魔力を込めた。
蛍星はうんともすんとも言わず、小生の口から落ちて再び泥にまみれた。
それは分かりきった結果のはずだ。最初に死の匂いを嗅ぎ取ったのだから、この蛍星はもう飛び立つことが出来ないのだ。死んだ動物は肉を喰いちぎっても反応しないし、ましてや立って歩けという命令を聞くことなどありえなかった。
それでも小生は、もう一度プラネタリウムが見たかった。
何度試みても蛍星は毛ほどの反応さえ見せない。失敗して口から落とすたびに泥味の死骸をくわえ直し、いつまでも沈黙し続ける蛍星に魔法の力を込め続けた。
ディスは、流れ星に願い事をするとそれが叶う、と言った。
ディスの願いは、おそらく叶ったのだろう。
小生の願いは叶わなかったけれど、蛍星がまた飛べば、空に描く星たちの中に流れ星を描いてくれるかもしれない。だから小生は蛍星に魔力を込め続ける。こうして力を注ぎ続けていれば、いつか生き返らせることだって叶うかもしれない。
何度も何度も繰り返し続けると、いつしか蛍星は薄い光を帯びて、かすかに動き始めて、おしりが点滅し出すのはもう少し先の話で、そうなれば空を飛ぶときも近くて、ずっと願い続ければ、きっと。
きっと、叶わないだろう。
小生には、自分の命を捨てようという考えがないのだから。
一寸先の闇さえ照らせぬまま、蛍星は地面に転がった。小生に蛍星をくわえる力は、もうなかった。
小生はこうべを垂れて、蛍星の死骸をひと舐めした。殺すことを日常としてきた戦争の日々よりも、ずっとずっと死を近くに感じた気がした。
死は喪失だ。死んでしまえば生前の輝きはすべて失われてしまうし、地球にある様々な"素晴らしいもの"に出会うことだって出来なくなってしまう。蓄積も可能性も消えて、あとは沈黙する虚無しか残らない。
それは、悲しいことではないのか。
「──大丈夫だよ」
どこからともなく、声がした。
聞き間違い──その思考は一瞬で消える。背後に、決して小生の目では捉えることの出来ない背後に、ディスの匂いがしたのだ。
小生はすぐに振り向こうとするが、身体は金縛りのように動かない。声も出せない。けれど、確かに、いる。振り向けないが、振り向かなくてもそれが分かる。
「言ったでしょ、わたしはずっとそばにいるって」
心の中で返す、
『だがディスは死んだ。死者と生者は相容れないんだ』
死者が生者に触れられぬように、生者も死者の鎮魂を祈ることしか出来ない。魂は安らかにあれと願いながら、ゆっくりと忘れていくだけだ。
生は流動で、死は停止だ。
「わたしは違う」
はっきりとした言葉だった。
背後にあったディスの気配がするりと移動した。小生は焦って周囲を見渡そうとしたがやはり身体は動かず、そうこうしているうちに気配は小生の真正面へと現れる。
息を呑んだ。
闇夜の宙に、まさに幽霊といった半透明の様で、ディスの姿が浮いている。
「わたしの魂は死なない。わたしの魂、アクロの魂だから」
その瞳に、迷執はまったくない。
「身体を代償に身体を作るなら、魂を作る代償は魂。わたしの身体も魂も、アクロのそれに溶け込んで生きるの。だから姿は見えなくても、わたしはシュシュとアクロのそばに居るし、アクロはきっとシュシュのそばに居るよ」
ディスは微笑み、
「だってね、わたしはシュシュが大好きだから」
最後の声だった。
滲むように、闇に溶けるように、幻のように、ディスの姿が消える。
気配も匂いも、跡形もなく雲散霧消する。
月夜の下、人のいない草原には海鳴りと風の音だけが聞こえていた。虫さえも黙りこくった風の夜、嵐の過ぎた天化の丘。かつてこれほど静かな夜を、小生は過ごしたことがない
空を見上げた。
身体をそらし、口を天に向け、眩しいほどの白月を背負い、巨大なこの海の果てまで響きそうなほど大きく高い声で、強く強く遠吠えをした。
幻影だったかのような一時。だが、最後に見せたディスの笑顔だけは、いつまでもこの瞳から離れなかった。
4/贋作ジグソー・パズル




