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3/彼方を想う3

 

 目覚めた瞬間に確認した時刻を、小生は信じようとしなかった。

 機械というのはいつか壊れるものであって、小生の体内時計は少しばかり寿命が早かった、それだけのことだ。そう思い込もうとした。

 けれど、嫌でも目に映ってしまう空の色は、そんな小生の思考を止めるのに十分すぎた。

 空が朱色に焼けていた。

 とうとうこんな時間になり、ついにディスは姿を見せなかったのだろうか。

 おんぼろスピーカーがぶつりとノイズを吐き、『英雄の黄昏』が流れ始める。えも言われぬ不安が身体を這いずり、小生は草原の先まで走って沈み行く太陽を見ようとした。だが捉えられたのは日没のほんの最後で、程なくして太陽は海の彼方に溶けていった。夕暮れさえ過ぎている。宵の口の海を眺めたまま、小生は言葉もなかった。

 日没は、この丘から人が絶えた印であったから。

 ディスは毎日ここに来ていたけれど、夕方には帰らなくてはならなかった。太陽が沈む頃、この丘からは誰も彼もが帰ってしまう。だから小生はすごく暇で、結局何もせずに寝てしまうのだ。

 よって、陽が沈んでしまった今、天化の丘には誰もいないはずだった。

 波の匂いを背に、小生は鼻を利かせる。

 丘全体をくまなく探る。

 ──ディスの気配はどこにもない。つまり、今日はこの丘に来ていない。

 分かりきったことを何度も自分に言い聞かせる。

 それでも焦り続ける心を、理性で抑えようとした。確かに今まで雨でもないのにディスがこの丘を訪れなかった日は一日もなかったが、今日だけディスがいなかったからって、それが何だというのだ。

 今日は来たくなかっただけかもしれない。あるいは、ものすごく面白い本を見つけて、時間を忘れて読み耽っているだけかもしれない。友人と遊ぶ約束をしていて、出掛けているという可能性だってある。

 なのに、

 なのに、気付けば小生は、天化の丘を走り回り、ディスを探していた。

 目に付く至るところを探った。墓の裏、木の影、叢草の中。どこにもディスの気配はない。

 墓参りの人間どころか職員も残っていないということは、今日の閉園を報せるアナウンスも過ぎたということだ。あれは最終のバスを告げる放送だから、アナウンスが終わったのなら、もう天化には誰もいるはずがない。もちろん、ディスも。

 そんなこと、最初に鼻を利かせた時点で分かっているはずだった。しかし、探さずにはいられなかった。

 誰かがいてほしかった。誰でもいい、誰かがまだこの丘に残っていれば、それはもしかしたらディスもまだ残っているかもしれない可能性を生み出す気がした。

 人影を探して、小生はずっと走った。熱も音も動きも電波も感知しないことにした。何かをこの目で見るまでは、決して諦めないつもりで大地を蹴った。

 十数の区画を走り回り、木と木の間を駆け抜けながら人影の幻をいくつも見て、時間だけが意味も無く過ぎていった。身体の疲れはちっともだったけれど、自分でも混乱するほどに息が乱れた。べろをだらしなく垂れて、それでも走って、探し続けて──

 結局、どうあがいても事実は覆らなかった。

 気付けば、間もなく日付も変わろうとする時分。小生は第十二区画の木陰で足を止めた。海鳴りだけがあった。

 かつてないほど、この丘を静かだと思った。

「明日は、来るよな?」

 諦めの言葉をだった。

 ざざ、と木の葉が音を立て、白く光る三日月を雲が隠し、あたりは黒に包まれる。その闇の中を小生はとぼとぼ歩く。お腹の底をぴりぴりと苛む例えようのない寂しさは、うそ哀しい既視感ともいうべき暗闇だった。

 そして、その日の夜、小生はまた同じ夢を見た。



 血の匂いがした。

 戦争の夢を見た直後というせいもあろう、小生は電気ショックを喰らったみたいに跳ね起きて、牙と牙の間から「ぐるるるるるるるるるる」と唸り声を漏らした。

 敵はどこだ、という思考が頭の中を巡り、同時に「うわっ」と驚きの悲鳴が聞こえた。

 ディスが、腰を抜かしてそこにいた。

「──お、おはよう、シュシュ」

 なんとも変わらない平和な挨拶である。

 小生はまるで狐につままれた心持ちだった。幻か何かを見ている気がするが、驚きの尾を引いた苦笑いみたいな表情をディスはしていて、それは、昨日など大した日ではなかったというような顔。

 ふっ、と力が抜けた。

「おはよう、ディス」

 あれほど心配した昨日が自分でも信じられなく思えた。

 ディスだって毎日ここに来れるわけがないのだ。犬には犬の事情があるように、人間には人間の事情があるのだから。

 前日に「明日は来れないよ」と伝えてくれなかったことだって、急な用事が入った場合は仕方がないわけだし、急な用事などいくらでも有り得る話だった。今となって思い返せば、昨日の取り乱しようは我が事ながら赤面ものである。

 良いことだ。すべては杞憂だったのだ。

 ぷか、と小生は安堵の息をつきながら尻尾を右に振り、ディスは立ち上ってからお尻についた砂を払った。

 ──あれ?

 なんだ、今の。

 今、何かおかしなことが起きた。

 起きた気がする。

 ぞくっとするような違和感があった。恐怖にも似ていた。薄ら寒い違和感は光の速さで恐怖に化けて小生の精神に入り込み、時間の感覚をぴたりと止めてしまった。

 その無限の沈黙の中で、小生はたった今この目に映っていた映像を動画で再生した。

 軍犬が得た視覚情報と音声情報は常に記録されていて、百六十八時間ごとに上書きされるようになっている。その映像の中で、腰を抜かしたディスが立ち上がる映像が、何度も繰り返し再生された。

 違和感の怪物は、すぐそこにいた。

 ディスの右腕が

「シュシュ、どうしたの?」

 その一言で止まっていた時間が解けた。

 ディスが、心配そうな目で小生を覗きこんでいる。

 その顔は、小生が覚えた違和感を抱えている表情にはとても見えなかった。まったくもっていつも通りのディスで、さっきのは寝起きのぼけ頭が作り出した妄想ではないかと思い込みそうになった。

 そして、その思い込みは正しいのではないのか、という気になってきた。

 今見る限り、ディスの動きにおかしな部分は特にない。

 そのうえ、さっきの違和感はほんの一瞬のことだった。

 事実、ディスはいつも通りのディスだし、これが小生の思い過ごしであるならそれに越したことはない。が、聞いておくだけ聞いておこうと思った。

「ディスさ、どこかおかしなところはないか? 右腕とか」

 ディスは首を傾げ、? と答えた。

 すべて杞憂なのだ、と心の底に住まうもうひとりの小生が呟く。

「いや、ないならいい。寝ぼけてたんだよ、きっと」

 ディスはなお首を傾げるが、小生はそれを無視した。

 事も無いならそれでいいのだ。小生がほしいのは疑惑でも危惧の念でもない、ディスと過ごす日常があればそれでいい。余計なことは知らなくていい。小生は飼い犬なのだから。

「じゃあ、今日も墓荒らしといくか」

 尻尾を振り振り、小生は一声吠える。ディスは「あ、そうだったそうだった」と持ってきたナップザックを地面に降ろした。天気は今日も晴れだ。ずっと晴れであればいいと思う。空が曇れば気持ちも沈むし、雨が降ればディスだってここに来れないから。

「もう少しで全部だからね、がんばって」

 いつものようにディスは笑い、まかせとけ、と小生は尻尾を振る。

 鼻で探るアクロの墓は、最初の頃を思えば驚くほどすかすかになっていた。お陰で随分と形を特定しやすい。一つ見つけるたびに休憩を挟んでも、ノルマの五つは十分にこなせそうだった。

「みっけ」

 ディスが顔を寄せてくる。

 見つけたのはまたしても小生が知らない代物。そこで小生は思案する。また「こんなものも知らないのか」と言われたら悔しい。そう言われないために出来うる努力をするべきだ。共有する前に小生なりの答えを言ってやろう。もしかしたら当たるかもしれない。

 小生がイメージしたそれは、細くて長くて、変わった装飾が施された木製の筒だった。

 括約するならば、

「──こん棒だ」

 イメージを共有したディスは、ばっさりとこう告げた。

「こけしだよ」



 それから朝食を取って、小生たちは二つの遺品を抽出した。

 そのうちのひとつはツメキリという名のマッドなブツで、小生はこれに大変怯えた。なぜって、ツメキリとは鋭い二枚の刃で爪をはさみ、ばっつんと切断するための器具だという。これが恐ろしくないわけがない。

 お願いだからディスはあれで小生の爪を切ろうとしないでほしい。それはどう見ても真皮まで切断する位置だ。やめてほしい。二度としないでほしい。

 昼食を取り、休憩を挟んで、小生たちはさらに二つの遺品を抽出した。

 この時点で今日のノルマは無事に達成である。しかし、ツメキリだのこけしだの、随分と控え目なサイズのものばかりを抽出していたから、ナップザックの容量にはまだ随分と余裕があるようだった。

 ということで、今日は六つ目まで掘った。

 その時のことだ。

「あ、」

 何かに気付いたような声を漏らし、ディスは六つ目を抽出した。緑色の光が放射状にきらめき、視界が白く染まり、次の瞬間には今の今まで土の下にあったものが目の前に現れている。

 木製の椅子がひとつ。

 肘掛のついた、おとなしそうなデザインの椅子。だいぶ使い込まれている雰囲気を受けるが、作りが丈夫なのか素材がいいのか、ガタがきている様子はまったくない。所々に感じる使用感も、どこか古めかしいその印象を洗練させている。

「立派な椅子だな」

 小生は、心からそう思った。

 ディスは少し嬉しそうにはにかみ、

「これね、アクロが使ってた椅子なの。いつも必ず窓際においてあって、この椅子に座って紅茶とか飲みながらね、本を読んでたの」

 当時のアクロを物真似するように、ディスは椅子に腰掛け、頁をめくる手振りをする。

 左手で宙に四角を描いて、ここら辺が窓、とつぶやく。その先には海があって、空があって、雲があったのだという。

 アクロは海が好きだったらしい。

「この時代じゃ海なんて嫌われ者だけどね、津波や高潮が簡単に町を飲み込んじゃうし。だけど、アクロは海が好きだった。恐ろしいものでも、綺麗なものは綺麗だって言ってた。そうやって、海を見るか本を見るかばっかりだった」

「ディスは?」

 一考の間。

「わたしも、似たようなものだったかも」

 ディスは苦笑しながら本を閉じる。

 椅子から降り、抽出の応用で椅子を分解して、ばらばらのパーツをナップザックに詰めながら話し続ける。

「とにかく景色を眺めたり、本を読んだりするのが好きな父親だった。わたしが本好きなのも、きっとアクロの影響。外で遊んだり、親子で出掛けたりすることはあんまりなかった。変わった父親だったと思う」

 ディスの背中を見詰め、小生は相槌を打つ。しかし小生は"普通の父親"がどういう存在なのか分からず、よって"変わった父親"というものにもピンと来ない。

 記憶のはじまりは同じような軍犬だらけの施設で、父どころか母の顔すらも知らないのが当たり前だ。ともすれば一般的な家族のあり方、ましてや別の種族のことを小生が理解出来るはずもない。

 けれど、そんなことは承知の上で話しているように見えた。

 椅子を詰め終わり、満腹のふとっちょになったナップザックを置くと、ディスは立ち上がった。石で出来た階段を下り、アクロの墓から草原へと降り立っていく。「来い」と言われたわけではないが、小生はなんとなくその背中を追った。

 草原の端まで歩いた。

 ディスの視線は彼方に向けられていた。

 蒼い草原と、青い海原と、碧い大空を越えた遥か向こうを眺めているような目。

「シュシュってさ、ずっと旅をしてたんだよね?」

 うなずき、

「ああ。戦争が終わってからは、ずっと」

「外の世界って、──いろんな町に行くのって、楽しい?」

 少し考える。

 三秒の間、小生は十数年の記憶を振り返る。

「すべての町がそれぞれ違う。どこに行っても新しい発見がある。それは楽しいさ。だが楽かどうかと聞かれれば、それは断じてNOだ。自然が厳しい町もあるし、人間が厳しい町もある。しかし、旅をしていることに対する後悔は、ない」

 青を背に、ディスは振り向いた。

 何も言わずに歩み寄り、何も言わずに小生の頭を撫でた。

 いつまでもこうしていられる気がした。

 やがてその手は離れる。

 す、と手を引くディスが後ろ歩きで数歩下がり、海の方へと向き直る。その先は断崖、あと一歩で空。ノーヴェの町はそこで終わり、そこからは外の世界。

「よいしょ、っと」

 そんな場にディスは腰を下ろす。

 ノーヴェの町の終わり。ディスはその先を指差す。笑っていた。

「ねえ、あっちの方には、なんていう町があるの?」

 小生は隣に座り、ちいさな指が示す方角に目を向ける。

 頭の中に世界地図を作り出して、細い線と交わる町を探した。

「その方角なら、ドゥーズの町がある」

「シュシュは行ったことある? どんなところ?」

「医療都市ビオを中枢に持つ大都市だ。小生は、だいぶ前に一度だけ行ったことがある。他の町と比べれば驚くほどにビルが多くて、そのせいか町並みは白く、自然はあまりないが、賑やかでいいところだったぞ」

 ドゥーズの町がある方を、ディスはじっと見つめる。

 まるで海を越え、その先にある町並みを、人々の暮らしを、見通せているかのように。

 少し間を置き、ディスはまた別の方角を指す。

「あっちは?」

「シムツアチの町。真っ白な雪の国。瓢箪みたいな形の町で、万年深雪に埋もれた極寒の都市だ。ここのブリザードはすごいぞ。目玉を真っ白に塗りたくられたみたいに何にも見えなくなる。とても厳しい環境の町だ。でも、そんな場所にも人間は住んでる」

 ディスは、再び水平線の向こうにある町を眺める。

 何度も何度も、海の果てにある町のことを訊ねられた。

「あっちは?」

「アハトの町。大きな港があるけど、それしかない田舎町。華やかさはないが、代わりに自然がたくさんあって、空気も綺麗なところだ。昔はくるくるバスっていうのが名物だったらしいけど、緊急避難のアレで今はない。町の端っこには丘があって、そこからの景色は格別だな」

「あっちは?」

「ジュオの町。二つの島を大橋で繋いだ町なんだが……、実はまだ行ったことがないんだ、そこは」

「あっちは?」

「フウの町。古代建築と桜の町。ワという文化に基づいた建築様式や、服飾が特徴の都市だ。桜の木が数え切れないほど植えてあって、春になると一斉に咲き乱れるらしい。残念ながら、小生が行ったころは秋だったんだけどな」

「あっちは?」

 指を差した瞬間、ディスの手が強張った。

 その指の先を視線で追った小生もまた、おそらくディスと同様の感情を抱いた。

 日没だった。

 一気に現実に引き戻された気がした。

 天化の至る場所に設置されたスピーカーが一斉に歌い出し、ディスは左手を地面について、思い出したように立ち上がる。が、歩き出そうとはしなかった。

 小生が見上げても、視線は海へ向けられたまま動かない。

「いつか──」

 ちいさな声で、

「いつか、一緒に行きたいね、世界中の、いろんな町に」

「ああ、行きたいな、いつか」

 ディスに倣い、小生も海を眺めた。落陽色に染まった海は燃えているかのような色彩。ディスがそうしたように、小生は水平線の先にある町のことを思った。かつて歩いた町や接した人々、そしてまだ見ぬ地平を描いた。

 ディスと歩きたい土地は、前足と後ろ足の指を合わせてもたりそうになかった。

「行けるよ」

 ディスは、最後に微笑した。

「きっと行けるよ。だって、わたしたちは、ずっと一緒だもの」

 その言葉を最後に、ディスが天化の丘に来ることは二度となかった。




 3/彼方を想う



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