2/ピース6
陽が昇って沈んでも、相も変わらぬ穴掘り一行。
草の上で寝起きし、土の上で仕事をする日々を繰り返して、小生の鼻には土の匂いが、身体には草の匂いがたっぷりと染み込んでいた。そろそろ水と太陽の光で成長するようになるかもしれない。
一日のノルマは五つである。
気温の低くなり始めた風を感じながら、本日最後ということで鼻を利かせる。
感度抜群の鼻はすばやく怪しげな物体エックスを発見した。丸くて平べったい緑色のプラスチック製品だが、全体を見ても小生では用途がいまいち分からない類のブツである。括約するならば、
「──なぞの円盤」
イメージを共有したディスが横から顔を出してきて、
「あ、フリスビーだね」
ぽすん、とディスは「ふりすびぃ」なるものを抽出する。
結構な大きさの円盤である。
直径はディスの顔より一回りも二回りも大きい。
イメージした時にはまったく想像もつかなかったが、こうして実物を見るとその使い道も考えられなくはない。小生が推測するに、この円盤は裏返しにして、その上に物を乗せて運ぶための板ではないだろうか。
「そう、盆というやつだな?」
「犬のおもちゃだよ」
犬のおもちゃだ。
しょっぱい顔をする小生をよそに、ディスはなにやら企み顔でこちらを見下ろしてきた。
かと思えばいきなり回れ右をして、ふりすびぃを右手に持ち構え、大きく振りかぶるわけでもなく、まるで隠し芸のトランプ投げみたいなフォームで、
「それっ、シュシュ走って!」
いきなり、ふりすびぃを投げ捨てた。
「──あ、う、えっ?」
びっくりでどっきりである。
急に言われちゃ軍犬も困る。走ろうかとも思ったけれど足は動かず、小生は呆然とふりすびぃを見ているしかなかった。ふりすびぃは身軽なその身に揚力を得てたっぷり20メートル以上の距離を飛翔し、すぐに減速して、草むらに墜落した。
ディスの突然の奇行に小生は言葉も出ない。草むらにうずまる緑色の円盤、そこはかとなくシュールなその光景。あまりにも意味が分からない。
が、このまま沈黙が流れると嫌なので、率直な感想を次のように述べた。
「すごいな。遠くまで飛んだな」
ディスは不満げな顔で小生を見下ろし、ふりすびぃが飛んでいった方を指差して、
「シュシュ、取りに行きなさい」
「え、なんで!?」
ディスは、「何言ってんだこいつ」という顔する。
「だって、飼い主がフリスビーを投げたら犬が取りに行くものだもん。空の時代から続く飼い主と飼い犬の不文律だもん」
「そう、なのか?」
「──あ。もしかして、シュシュってほんとにフリスビーのこと知らない?」
「ぜんぜん」
「犬なのに?」
「犬といっても、小生は軍犬だからなあ。そこいらの犬とは育ちも経験値の種類も違うし、当然遊びの道具だって違うさ。小生たちの間では、遊びといえば“かみつき”だったな。岩とか鉄柱とかに噛み付きまくるんだ」
「な、なにそれ。楽しいの?」
「そりゃ、楽しくなかったらやらないだろう。かみつきは仲間同士での序列も兼ねていたから、みんなこぞって参加したものだ。噛み砕いたものが硬くて大きいほど偉いやつで、小生の牙は仲間の中で一番だったんだぞ」
小生はにやりと笑って牙をむき出してみせた。顔を寄せてきたディスの目がまんまるに見開かれて驚いている。いちばん大きな牙を触る自分の指がその牙よりも細い、という事実がにわかには信じられないといった顔だ。
そんな顔を上げ、小生の目を覗き込んできて、
「でも、今のシュシュは犬だよね? おっきいけど、戦わないなら普通の犬だよね?」
小首を傾げる小生の顔を、ディスは両手でぐしぐし撫でる。
「──うん?」
ふと視線を上げれば、いつもは可愛げのない表情ばかりしているディスが、見て分かる程度に笑っていた。その笑顔が照れくさそうにこんなことを言う。
「──じゃあさ、普通の犬の経験値、今から一緒に集めよっか」
ディスの説明はこうだ。
──今からやるのは、飼い主がフリスビーを遠くに投げて、それを犬が走って滞空中にキャッチする遊び。スポーツとして大会もあるんだよ。出来るだけ遠くでキャッチする方が偉いの。だから、わたしは遠くに投げるし、シュシュはたくさん走ってね。
「シュシュは、走るのは好き?」
先ほど拾ってきた緑色の円盤を手に、ディスが聞いてきた。特に好きというわけではないが、速いぞ、と小生は答える。自慢じゃないが走るのはかなり得意だった。本気で走れば、一秒間で500メートルは走破する自信がある。
「それじゃ、行くよ?」
ディスが構える。
小生は、わん、と吠えてこれに答えた。これから行うのは、人間の言葉を喋れない犬の体験である。
「それっ、走って!」
ディスは肘を曲げ、腕の力よりも手首のスナップを使って投げた。
それを小生が追う。見る見る高度を増し、距離を伸ばしていくふりすびぃの影を見て、草原をえっちらおっちら駆け抜ける。
ふりすびぃは二秒ほどで減速を始め、高度も下降に入った。あとはタイミングだった。少しずつ大きくなるふりすびぃの影に目を凝らす。背中にディスの視線を感じる。出来るだけ遠く、とディスは言った。小生は狙い、滑るように跳んだ。
ふりすびぃと地面ぎりぎりの地点。
地上6センチの超低空で、ふりすびぃは小生のあぎとに捉えられた。
小生は跳び込んだ勢いのままごろごろと草原を転がる。勢いが死んだと思った瞬間に跳ね起きて、ふりすびぃを咥えたままディスに向かって叫んだ。
「ふぉったど──────────────────────────っ!!」
やばい、楽しい。
ふりすびぃを咥えたまま戻ると、ディスに身体中を撫でられまくった。
「うまいうまい」
そんなに褒められたら照れる。
得意満面で二投目に挑戦する。あらよ、てなもんである。軍犬の運動神経は伊達ではない。普通の犬と軍犬では瀕死の老人と現役アスリートくらいの差があるし、それ相応の反射神経も動体視力も持ち合わせている。
ぎりぎりまで引きつけたら、あとは自分の能力を信じて飛び出せばいいだけだった。
三投目、四投目も軽々こなしていく。
実にちょろいもんであるが、なぜだろう、一投を終えるたびに気分が高揚した。
うまくやればディスが褒めてくれるから、ではないと思う。そりゃあディスに褒められるのは嬉しい。しかし、褒められるからうまくやるのかと問われれば、断じて違うと言い切れた。
これは、小生が犬だからだろうか。
普通の犬も、楽しいからやるのだろうか。
──あの円盤を見るとどうしても追いかけたくなる。追いかけるのが楽しくてたまらない。
今のこの気持ちは、こうした遊びに興じるほかの犬たちと、果たして同様のものなのだろうか。
それは、何投目かの挑戦だった。
ディスの投げたフリスビーが見事なほどに曲がって、傍らに茂っている林の方へと飛んでいってしまった。あれでは木に引っかかるコースだ。「あ、やっちゃった」、とディスが残念そうな声を上げる。
普通の犬ならば、取れるはずがない。
──見くびるな。
小生が動き出したのは、ふりすびぃが最高高度に達するより一瞬早かった。
アクロの墓がある岩の上から林の手前の草むらまで一足で跳び、着地と同時に再び跳躍する。一秒の半分もない時間でこれをこなすが、小生にとってはまだまだ余力を残しての速度。
二度目の跳躍で林の中へと飛び込む。小生が足を乗せるに足る枝を瞬時に見極め、すぐ左の木の幹を蹴ってその枝に飛び移る。その枝が三度目の跳躍にへし折られて悲痛な音を立てた。音を背に、小生の身体が林の上へと躍り出る。
25メートルの背後に、呆然とするディスの顔。
ミスなどするはずもなく、小生は空中でふりすびぃをキャッチした。
華麗なる着地。得意げな足取り。ふりすびぃを咥えたまま岩の上に凱旋しても、ディスはまだぽかんと口を開けて驚いていた。小生がふりすぃをディスの足元に置くと、ディスは機械のように動いてそれを手に取る。
ふりすびぃと小生を交互に見て、まさに心底からという感じで、
「すごい。すごいよシュシュ!」
ふりすびぃを胸に抱いてディスは興奮しまくる。あまりにも驚きすぎて、「すごい」しか言えないような状況である。小生はそんなディスを特になだめもせず、かといってそれ以上のパフォーマンスを見せたりもしない。オトナの余裕である。
ただ一言、自慢じゃないが、と前置き、
「軍犬だからな。小生の昔の仲間たちだって、みんなこれくらいは楽勝だぞ」
「みんな出来るの!?」
小生は誇らしく笑い、
「当然だ。あれくらいが出来なくては軍犬の“ぐ”の字も名乗れない。なんせ、軍犬は戦争をするための存在だからな」
「……へ?」
ディスは急にはしゃぐのをやめて、きょとんとした顔でこちらを見た。
「シュシュ、いま、なんて言った?」
空気が一変している。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「軍犬は戦うための生き物だと言った」
息を呑む気配が空気を伝わる。
ディスは頬を張り飛ばされて夢から覚めたような顔をしていた。握っていたふりすびぃが手から滑り落ちて土の上を転がる。負の驚きに塗り尽くされた表情で、ディスは小生の頬を撫でた。
いきなりどうしたのだろうか。小生は当惑する。見上げたらディスと目が合った。その視線をそらさずに、10センチもない距離からディスが呟いた。
「シュシュは、人を、」
静かに息を整え、
「シュシュは、人を殺したことは、あるの?」
即答した。
「無論だ」
何を今更、と小生は思う。
軍犬というのは戦争時に生みだされた兵隊だ。ならば、その用途が殺人以外であるはずがない。あの時代の軍犬は見張りや索敵から白兵戦までが仕事だったし、それはつまり殺してナンボの生涯だったということである。
「小生は軍犬だ。軍犬が何をするかくらい、ディスなら分かるだろう?」
小生を撫でる手が止まる。
「──後悔は、ある?」
小生は沈黙する。
返答に困った。質問の意図が理解できなかった。小生の生涯は殺す生涯だったが、それに後悔はあるのか、と聞いているのだろうか。だとしたら、なぜそんなことを聞くのだろう。小生は、ただ自分の意味に沿って生きただけに過ぎないのに。
小生の長考を、ディスは言葉一つも発さずに待っていた。
小生は口を開きかけ、一瞬だけ逡巡する。心のどこかに不安があったのかもしれない。ディスに嫌われたらどうしよう、という不安が。そのせいだろうか、小生の口から出た言葉は、ひどく曖昧だった。
「生きているものなら、いつかは死ぬものだ」
ディスは、表情を変えなかった。
ディスの手が再び小生の頭を撫でた。その手にこめられた力が少しずつ強くなるのを小生は感じる。どんどん強くなって、最後には、小生はディスに抱きすくめられていた。
その顔は、哀しくて、悔しくて、怒っていた。何が哀しいのか、何が悔しいのか、何が怒れるのか、小生にはまったく分からない。あるいは小生の感性がヘボで、実際のところディスは何も思っていないのかもしれない。
ディスは無言で、何も分からない小生もまた、無言だった。
ディスの肩越しに、沈んでいく夕陽が見えていた。──日没。ディスといる時こそがもっとも楽しい時間である小生にとって、それは一日の終わりの時間だ。近くのスピーカーが、ぶつ、とノイズを漏らし、アナウンスが流れる。
『英雄の黄昏』が鳴り響く。
空と海原が、天化の丘が、草原が、小生が、小生を抱きすくめるディスが、緑色のふりすびぃが、すべて世界の終わりのような色に染まっている。その幻想めいた風景の中で、ディスはそっと小生をほどき、立ち上がった。
「バスの時間だから」
踵を返し、今日発掘したものを入れたナップザックを背負って、ディスは岩の階段を下る。草原に下り、淡々と歩いていくディスの背中を、小生は見えなくなるまで見続ける。
小生は思う。
小生が軍犬ではなく普通の犬だったら、今のディスの気持ちも分かってやれたのだろうか、と。
2/ピース




