2/ピース5
太陽が沈んだ。
回れ右をすれば月が見える時間帯。海の向こうのオレンジは紺色の空に一つ残らず吸い込まれ、空にはぽつぽつと星が浮かび始めている。丘にはいつのまにやら夜が忍び込んでいた。
草原は音もない闇だ。
知らぬ間に高く上っていた月は触れれば切れそうな三日月で、置き捨てられた人形がごとく無言で鎮座する大岩の上を鋭く照らす。広がる深い草むらの中において、それは一際眩しかった。
暗視でなくともディスの顔がしっかりと分かる。その程度の闇。空を仰げば雲もない。満天に散りばめられた光の粒は、これが宇宙にある星のすべてだと信じかねないほどの数である。
頃合いだ、とでも言うように、ディスはゆっくりとその身を起こした。
ポケットを探っている。
取り出した右手には、蛍星が握られている。
「あのね、蛍星もね、実は魔法の一つ。シュシュと同じで、機械と魔法がくっついた生き物。蛍星がどんなものかっていうと──」
ディスはそこで言い淀み、えーと、という風情で夜空を見上げた。
うん、と一つ頷き、
「説明するより、実際に見たほうが早いかな」
ディスは蛍星を両手で軽く包む。
その光景はまさに魔法と呼ぶに相応しかった。蛍星を乗せた両手が黄緑色に強く発光し出した。と思ったのも一瞬の出来事で、次の瞬間にはその光はディスの手から蛍星へと移っていた。黒くてつやのある滑らかな表面を、緑色の光が幾筋も、まるで稲妻のように走った。
その雷光は、あっという間に蛍星の表面を覆い尽くしていく。
手の隙間から漏れた光がディスの顔を照らしている。月明かりの白とは違う不思議な光。暗闇の中で見るそれは妖しく、しかし柔らかく、今までとはまったく別の印象を抱かせた。
そして、蛍星がおもむろに動き出した。
あまりにもゆったりとしていて、始めは目の錯覚かと思った。
ディスが手を開き、蛍星は生まれて初めて空を見るセミのようにゆっくりともがく。その最中、表面を覆っていた光は徐々に消えていく。取って代わって光り出したのはとある一点で、その部分だけが弱々しく明滅を繰り返していた。
じれったくなるほどの時間を掛け、やがて蛍星は明滅する部分を下に、ディスの手の平の上で垂直に立ち上がった。
──飛ぶ。
小生は心の中でそう漏らした。
ディスの手の平の上。立ち上がった黒の蛍星が、音もなく宙に浮かんだ。
明滅するたびに光の粒を宙に落としながら、空を飛んだ。
「まだちょっと、本調子じゃないのかも」
己の手の平から完全に飛び立った蛍星を見ながら、ディスは言う。
改めて見ればまったくその通りという感じで、蛍星はふらふらと実に危なっかしい飛び方をしている。右へ左へと不安定にぶれているし、急に落下したかと思えば、ブレーキがかかったみたいに空中停止して、慌てて再浮上したりする。
飲酒運転のような蛍星は、それでも何とか役目を果たしているらしい。ディスは安心しきった顔で草むらに座り込んで、ぼんやりと蛍星を眺める。
小生も隣に座って蛍星を見るが、なにがどうすごいのかは、いまだによく分からない。
「これは結局どういうものなんだ?」
と質問してみたが、
「見てれば分かるよ」
としか返ってこなかった。
ならばしかたない。どうすごいのか、小生は黙って見ていることしにた。
はてさて子供のラクガキのような軌道で浮遊していると思われた蛍星は、時間が経つにつれてその動きを確かなものにし始めた。小生は、ディスが蛍星のことを機械と魔法がくっついた“生き物”と言っていたのを思い出す。今までのヘナチョコなマヌーバは、起こされたばかりで眠たかっただけなのかもしれない──そう思い始めた頃にはもう、蛍星の軌道は完全に安定していた。
そして、不意に小生は蛍星に気付いた。
どうすごいのか、分かった。
蛍星はお尻を──球体なのでお尻であるかは怪しいのだが──ホタルのように光らせながら、空中を飛んでいた。お尻の光は時折瞬き、その位置には光の粒が宙に取り残されて浮かんでいた。そうして光の粒をいくつも、いくつもいくつも、蛍星はいくつもばら撒いていた。
そして気付いたときには、小生の目の前に小さな星空が出来上がっていた。
「すごい──」
星と星は薄い光の線で結ばれて、いくつかの星座を形作っている。
蛍星とは、小型のプラネタリウムだったのだ。
真っ黒な海と、真っ暗な空を背景に、いくつもの星座が結ばれる。小生は、こてん、と草むらに寝転がってそれを見上げる。夜空に浮かぶ本物の星空と、目の前に浮かぶ作り物の星空。千年駆け続けても届かない場所にある星と、手を伸ばせば触れられる近さにある星。二つの距離は混ざり合い、小生の感覚を麻痺させる。まるで宇宙空間に投げ出されたかのようだ。
同じように隣で寝転ぶディスも、半ば呆然とその星空を見上げている。
「──びっくりしちゃった」
小生の方へと首を傾け、
「ほんとは部屋の中で飛ばすものなんだけどね、外でやったらこんなに綺麗だなんて、ぜんぜん知らなかった」
そう言ったきり、ディスも星空へと視線を戻した。
また一つ、蛍星が星座を描く。緑色の光る点と線、無数の点が収束する天の川、徐々に高みに登っていく蛍星の光、空にかぶさる宇宙の色、長い旅路を終えてたどり着いた星々の光。
やがて、蛍星の上昇する角度が緩やかになってきた。
九十度だったのが、百二十五度になり、とうとう百八十度になって、ついには落下を始めた。
蛍星は明滅をやめ、残りの力を振り絞るように光り続けた。
ゆっくりと落下していく蛍星が残す光は長い尾を引き、まるで流れ星のように星空を横切っていく。じっと無言でいたディスが、小さく呟く。
「流れ星にお願いをすると、その願いは叶うんだって」
小生はあわてた。
急になんてことを言うんだ、と思った。
もがきながら急いで起き上がり、墜落寸前の蛍星を見詰めながら願う。
これからも楽しい日が続きますように。
そして、電気を消したように星座たちが消えた。
光に満ちていた草原に薄暗闇が戻り、星の美しさに夢中で忘れていた音もまた、そっと戻ってくる。風の音、海鳴りの音、虫たちが思い出したように歌い出す。それらは柄にもなく感慨深くなってしまった小生にさえ、邪魔だと思わせない程度の音だった。
ディスは草むらの中から蛍星を拾い上げ、愛おしそうに表面を撫でる。アクロの墓石の傍にしゃがみ、素手で砂を掻き分けて小さな穴を掘ると、そこに蛍星を埋めた。
「また埋めてしまうのか?」
「うん。蛍星はまた死んでしまったから。やっぱり、生き物はダメみたい」
せっせと土を被せるディス。少しの沈黙。ふと思い至り、小生はディスの背中に問う。
「ディスは、何を願ったんだ?」
手についた砂を払いながら、ディスは答えた。
「願いを叶えてくれてありがとう、って」
願い? 小生がそれに問いを返そうか迷っていると、ディスは小生の身体に身を預けてきた。程なくして寝息が聞え始める。小生は鼻から長く息を吐き、頭を垂らして身体を丸める。目を閉じながら、
「おやすみ、ディス」




