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 ──時間の流れが穏やかだな。

 アクロは、本のページをめくりながらふとそう思った。

 最近、一日二十四時間の経過をゆるやかに感じる。だが決してそれが不快というわけではない。むしろありがたいと思った。いつの間にか嫌な夢も見なくなったし、心のうちが常に湖面のような静けさに満ちている。

 例えば今、こうして本の世界に集中していながらも、周りの出来事をそれとなく感じていられた。窓から吹き込む風がカーテンを揺らしてアクロの髪をなびかせ、向かい合わせの窓へと抜けていく様子も、実に自然な風情で受け入れることができる。

 自分の呼気が違和感なくこの部屋の空気に溶けていくのが分かる。まるで世界と一体化するような、不思議で心地のいい時間だった。

 それは十三年前だったら考えられなかったことだ。以前の自分なら、本を読んでいる間は、外の世界など存在しないかのように集中していた。

 それはまさしく、傍から見れば病的なほどに。

「周りを見たくなかったのかもしれないな」

 白い壁と、白い椅子と、白いカーテンと、白い窓枠。その外側に見える青空と、水平線の上にかかる薄雲、それにひっそりと懺悔するような呟き。

 ため息と共に、

「ここは、まるで別の次元にある世界のようだ」

 アクロは軽く身体を起こしてから、机の上に置かれた、これまた白いティーカップを手に取る。口をつけようとしたところで、そこに入っていたはずの紅茶がすっかり飲み干されていることに気付いた。

 肩をすくめ、床に寝転がって絵本に読み耽っている我が子に声を投げる。

「ディス」

 ディスと呼ばれた少女は、素直に絵本を閉じて顔を上げた。

 面倒くさそうな顔をするでもなく、天真爛漫というべき子供の明るさでもない、極めて透明な表情でアクロの方を見る。

 少女は部屋と同化してしまいそうな白い服を着ている。肩より少し上で切り揃えられた母親譲りのブロンドは、昼の陽に当たって輝いていた。

「紅茶が切れてしまったよ。悪いけどいれてきてくれないか」

 ディスは無言で頷き、台所の奥に消えた。

 言葉数の少なさも、感情表現の不器用さも、金色の髪と同じように母親譲りのものだ。そういう人間とばかり長く付き合っているせいであろうか、アクロは、微かな情意の表れを的確に読み取るのが得意だった。

 ディスの無言の頷き中に隠れたぬくもりの温度を、アクロはよく知っている。

「でも、不器用なところは父親譲りかな」

 のろけと自嘲が合体したような台詞を呟きである。

 紅茶が入るまで、アクロは何気なしに窓の外を眺めて待った。

 眼下に石造りの町があり、その先は遥か彼方まで青い海、青い空、決まり文句の、そして白い雲。自室から見下ろすノーヴェの町は、微風にそよぐカーテンのように平和だった。

 時間が止まったような風景。

 ぼんやりと眺めていると、不意に、かつての自分へ問いかけたくなる衝動が湧いた。

 ──信じられるか? 前の未来にはこんな穏やかな世界があるぞ。

 十三年前、空の戦争の最中、唯一の私物だった一冊の本を数え切れないほど読み返しながら過ごした月日、空気の匂いは血とほこりの匂いで、空気の味は鉄と砂の味だった頃の自分。今の部屋とは正反対の、暗く黒い無機質な世界を歩いていた頃の自分。

 そんな自分から、「YES」はおそらく聞けなかっただろう。

 あの頃は、ずっと死ぬことばかり考えていた。

 生きていても良いことなど何一つなかった。

 そのくせ、戦いを生き抜くたびに繰り返し思った。絶対に死にたくないと。

 自分が手にかけてきた者が苦しみもがくその様が、ずっと目に焼き付いて離れなかった。敵や味方の死相を見るたび、こんな姿になりたくないと強く願った。

 そしてとうとう戦争を生き延びて、世界が一応は平和になって、十三年が過ぎた。

 あの頃の自分は、こんなゆったりとした時間を忘れていた。

 戦争が終わって、故郷に戻り、結婚して、子供を授かった。数年前に妻は亡くしたけれど、その妻が残した子供を育てながら日々を過ごし、アクロは久しく実感するようになった。

 生きていて、よかった。

 こんな幸せを感じながら年老いていき、やがて眠るように死ねたらどれだけ幸せなことだろう。神様がもしいるならば、そんな小さな願いをどうか聞き届けてほしい、アクロは胸のうちでそう思う。

 戦時中はいくらも信じなかった神様も、今なら信じることが出来る。

 まるでその神様に祈るように、アクロは目蓋を閉じた。午後の陽射しの暖かさに当てられて、どうやら眠気が一気に膨れ上がってきたらしい。幸せな夢を見られそうな顔をして、間もなく寝息が聞こえ始める。

 アクロの願いは、半分だけ叶った。

 年老いていくことはなかった。

 その代わり、幸せな気持ちで、眠るように、という部分は望み通りになった。

「アクロ、どこ?」

 少し経ち、ディスが二人分の紅茶とケーキを乗せたトレーを手に戻ってきたとき、アクロの姿はどこにもなかった。

 跡形もなく消えていた。

 ディスは、すぐに察した。

 空の戦争時代に魔法を行使した者への代償。

「術返り……」

 ディスが呟いたそれは、魔法使いだった者が霧散する現象の名だった。



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