表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

四月二十三日(金)「消えた想い」

 今日も隣には白ちゃんがいる。部活に顔を出すようになってから十日が経って、今日でもう六回目の見学。二回、多くても三回も来れば、大体その後は入部するか来なくなるかなのに、入部する気配もなくて見学だけ。入部するかは分からないと言っていたけど、届けの締め切りまではあと一週間。三十日を過ぎてしまったら、部活中の部室には入れなくなるんだよ? 出来れば入部して欲しいなと思うけど、強制は出来ないし……。こんなに楽しそうにしているのにな。

 その楽しげな本人は色を塗っている。私を描いたというあの絵だ。筆やパレットは部の備品を貸してあげた。絵の具は私のを。ランプブラックをこれでもかという位に出しちゃって、もう殆どなくなっちゃった。筆にドロリと付いたその色を私の髪に彩色しようとした所で、ハシッ! とその手を取った。

「ほらほら、そんなに絵の具を付けたら乾かなくなっちゃうよ。こうして水で溶いて……、はいこれ位で十分だよ」

「おねえちゃん、ありがとう」

 それはそれは上手じゃない絵だけど、本当に楽しそうに塗っている。そんな白ちゃんを見ていると、私の手に握られた筆も滑らかに色を躍らせていく。自分の心を、素直に映し出せているのを感じていた。

「ねえ、おねえちゃん」

「ん? なに?」

 水入れで筆を洗いながら答える。

「『白ちゃん』って言って」

 カタン。

 手がぶつかって水入れが揺れた。危なかったあ、危うく水を零しそうになっちゃった。

「ど、どうして? 呼ぶ時はそう呼んでるのに」

「え~、今言ってよお~」

「もう……」

 一つ咳払いをする。体を白ちゃんの方に向けて膝に手をあてて、妙にかしこまってしまう。

「し、白ちゃん」

 あ、なんか声が裏返っちゃった。

「なあに? おねえちゃん。エヘ」

 少しはにかみながら小首を傾げて、上目遣いに見つめてくる。

(な、なんか可愛い……って、何なのよ! この付き合い始めのカップルみたいなやり取りは! もちろん、今までそんなやり取りした事ないけど……)

「白ちゃん、白ちゃん」

 名前を呼ばれるのがよっぽど嬉しいのか、『白ちゃん』を繰り返しながら、何の踊りなのか、筆とパレットを持ったまま両手を左右に揺らしている。

「あ、ほらちょっと、じっとしててよ」

「白ちゃん、白ちゃん」

「ほら、分かったから絵を描こうよ。ね?」

「なに? おねえちゃ……」

 ガタン! パシャァァァアアアアア……。

 それは、ほんの一瞬の出来事だった。時間にして一秒にも満たない、たったそれだけの短い時間。

 完成間近だった。深くつややかな青い髪と、咲き誇った桜の花びらたちが春の風に舞い、散った花びらが青い髪に重なり薄化粧を施す。髪を押さえた白く繊細な指と、微かに潤んだ瞳。ほんのりと桜色を帯びた唇は僅かに開き、その年齢よりも大人しやかな雰囲気を纏わせている。汚れのない真っ白なワンピースは陽光に透けて、太ももから腰への滑らかな曲線を浮かべ、裾がはためく柔らかなラインからは風さえも見て取れる。

 それは、私の想いをありのままに映し出していた。映し続ける筈だった。

 今、目の前にある桜と青い髪の少女に、大量の水が覆っている。紺碧の海のような深く青い髪が、その髪を軽やかに舞わせている淡い桜が、瞳が……、唇が……、溶けて、流れて、混ざり合っていった。私の想いを全て消し去っていった……。

 その水が、倒れた水入れの水だと気付くのに、それから数秒の時間が必要だった。振り向いた白ちゃんの腕が当たって、水入れが倒れたのだ。

「あ……、あぁ、あ……ご、ごめんなさい……」

 消え入りそうな声に、私の身体がピクッと反応する。それまで、混ざり合うブルーとピンクに抑えられて止まっていた私の時間が、一気に流れ出す。その猛烈な流れは、身体の動きも、顔の動きも、目の動きも、そして、口から発する言葉も、私の意思では制御仕切れないまま、私の外へと噴き出した。

「いい加減にして!!」

 瞬刻の後、私の意識が時間の流れと重なった。な、なに? 今、私は怒鳴ったの……? 白ちゃんに怒鳴った。感情に任せて……。自分が何と言い放ったのか、その言葉を覚えていなかった。目の前にある濡れた水彩紙と、その声に立ちすくむ白ちゃんの足だけを、私の視界が捉えていた。

「どうした!? 美胡っち!」

「美胡!?」

 二つの声。その声に引き上げられるようにゆっくりと顔を上げる。あ、部長と愛華ちゃん……。他の部員も私の方を見ている。何か言っているみたいだけど、良く聞き取れない。私は椅子から立ち上がる事も出来ず、何色を塗ったのか、それがどこに塗られた色なのか、全く分からなくなってしまった、ただの汚れた水彩紙にまた目を落とす。あ、制服のスカートも濡れていたんだ。

「どうした……って、これは……」

「うわ……。これはもうダメか……美胡、大丈夫?」

「ご……、ごめん……なさい」

 それまで、私の視界の隅に捉えられていた白ちゃんの足が、よろよろと下がって消えた。それから少しの後、上履きの音が駆け出して、美術室から出て行ったのが分かった。

 追うつもりはなかった。追ったところでどうしたらいい? 叱責でもすれば気が晴れるの? そんな事をしても何の意味もない。だってこの絵は、私の想いは、もう元に戻らないのだから……。

「取り合えず、掃除をしよう。まな、手伝ってやってくれないか?」

「あ、はい」

 色水が撒き散らされたテーブルと床を掃除していく。愛華ちゃんが手伝ってくれたけど、その間、会話らしい会話はなかった。「大丈夫?」「うん……」「描き直せそう?」「……」掃除をしていた間に交わした言葉はそれだけだった。

「……ありがとう」

「あ、うん。いいよ、気にしなくて」

 白ちゃんが描いていた絵はなかった。愛華ちゃんが片付けてくれたのか、白ちゃん自身が持ち去ったのか……。分からないけど、楽しそうに笑っている私は、もういなくなっていた。

 何かに引っ張られるような、それとも押されるような、おぼつかない足取りで部長の元にたどり着く。

「今日は……早退しても、いいですか?」

 もう、とても筆なんて握れない。

「ああ、無理はするなよ。来週は休んでもいいから。そういう時もあるんだから」

「すみません……。失礼します……」



 学校から少し離れた場所。駅へ向かう途中にある、街の幹線道路へと続く一本の路地。私は、力の入っていない足で歩いていた。左右には戸建て住宅たちの、クリーム色の外観をした同じ顔が行儀良く並んでいる。前から来る散歩中の犬が、家の門柱に鼻を寄せている。学校から駅まで歩いて十分、駅から電車で十五分。そこから家まで歩いて十五分。通学時間四十分。一年間通って見慣れたはずの風景なのに、それらはとても淋しくて、少し小さく感じた。私の心が、私にそう映し出しているのだろう。

 その住宅の並びに、一箇所だけぽっかりと空間がある。愛華ちゃんが、モチーフ探しに行ったまま帰って来なかった、まつみや公園だ。戸建て三軒分の小さな公園には、入り口を挟んで右側に、ブランコと滑り台と二つ並んだベンチ。左側には花壇が広がっている。前を通る度に、花たちが心を和ませてくれていたのに、今はそう感じられなかった。

 ふと、ベンチに座っている人影が、私の目を留めた。向こうを向いて座っているから顔は見えないし、夕日でオレンジに染まっていて本来の色とは少し違っていたけど、それが茶色い髪と白いカチューシャだと分かった。少し躊躇した後、公園に足を向ける。声をかける事もせず、ただ隣に座った。

「お……、おねえちゃん……」

 その声に、私の目は伏せたままだった。だけど、右隣の不安そうな雰囲気は感じ取っていた。揃えた膝に乗せられている手が、僅かに震えたのが分かった。そのか細い指が、随分と白く見えた。

「あ、あの……。ご、ごめんなさい」

 しばらくの時間が流れた後、

「……さっきは、怒鳴ったりしてごめん」

「おねえちゃんは悪くない……。悪いのは白だよ……だから、ごめんなさい……」

「ああなっちゃったのは仕方がないよ。だから、もう謝らなくていいよ。だけど……」

 私は、後を続けた。努めて冷静に。

「もう、あの絵は描けない。同じものは二度と描けないの。もう一度描こうとしても、同じものにはならないの……」

 それは、私の絵が自分の心を映すから。こんな気持ちじゃ、同じ絵にはならない。

「もう、あんな事はしないで。制作者の思いを壊す事だけはやめて」

 ひどく意地悪な事を言っている気がした。白ちゃんを責めている。

「ごめんなさい……」

 白ちゃんはそう言うと、もう口を開かなくなった。

 どの位の時間が経ったのか……。多分、ほんの一、二分。もっと短い時間だったかも知れない。それが随分と長く感じ始めた頃、後ろから聞き覚えのある声がした。

「美胡、やっぱり心配でさ。あの後あたしも早退してきた。……こんな所で何やってんの?」

 愛華ちゃんは私の左側に立っていて、背もたれに手を掛けているようだった。

「見ての通りよ」

 ぶっきらぼうな言い方だった。愛華ちゃんに当たっている自分が嫌になる。

「見ての通りと言われても……。今日はどうしたの? らしくなかったよ。急に怒鳴ったりして……」

 この場にいるのが辛かった。二人に対して、もっと嫌な人間になっていく気がして。

「もういいの。同じものはもう描けないから。……もう帰る、ごめんね」

 だから、ここから逃げる事にした。最低だ。

「あ……」

 白ちゃんが何か声を掛けようとしたけれど、それに触れたくないかのように、そのまま出口に向かう。立ち止まりたい気持ちはあったけど、止まらない足がそれを打ち消した。

「一人で大丈夫? 家まで送ろうか?」

「ううん、大丈夫。また来週学校で」

 一生懸命に作り笑いを見せた。笑顔に見えていたか不安だった。今の精一杯の笑顔を見せたつもりだった。多分、笑った顔には見えていたと思う。

「……うん、分かった。必要なら何でも言いなよ。あたしは美胡の傍にいるんだから」

「うん……、ありがとう……」

 白ちゃんとは、結局目を合わせる事はなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ