五月五日(水)「告白」
あれから五日が経った。相変わらず絵は描けていない。心に何もないから描けないのは当然なのだけれど、描けないというより、描こうとしていない。筆を握ろうとしていない。絵を描く事以外何の取り得もないのに、その絵すらやめてしまうのだろうか……。
ゴールデンウィークも最終日となって、毎日のようにTVを賑わせていた行楽地の中継も、ニュースでの交通渋滞情報も、電車の混雑情報も、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
私のゴールデンウィークといえば、家族と予定していた旅行も行きたくないとキャンセルしてしまったし、愛華ちゃんからの気分転換の誘いも断ってしまった。それは、どこかで一人ぼっちで泣いているかも知れないのに、私だけ出掛けるのが申し訳ない気持ちだったのと、どこに行ってもきっと楽しくないと思っていたから。
私はこの五日間、旅行や遊びの代わりに同じ行動を取っていた。それは、学校(活動を行っている部もあるから、校内には入れる)とまつみや公園。その二つの場所に行って、探して、待って、一日が過ぎていった。街の人々が湛えている笑顔が、すれ違うごとに空っぽの心をえぐっていった。
そして今日も同じように、会えないまま過ぎようとしていた。自分の影が右に長く伸び、夕日に目を逸らす。沈み始めた太陽が、そのタイムリミットを宣告しているようだった。
(もう、会えないのかも知れない……)
どこを歩いてきたかも覚えていない。いつの間にかそこを歩いていた。左手に、私が通っていた小学校の校門があった。私はこんな所を歩いていたのか。マンションから出て、駅とは反対方向に歩くと小学校に着く。中学からは駅への道を使っていたから、この道を歩くのは随分と久しぶりだった。
小学校を通り過ぎる。運動をあまりしない足は、すっかり棒のようになって脳に休みたい、帰りたいと訴えている。もう帰ってしまおうか。帰りたいという気持ちと、このまま帰ったら本当に会えなくなるという気持ちが、私の中でせめぎ合っていた。
帰る気持ちが勝ってしまいそうになった時、右手にある鳥居が目に留まった。昔は、もっと鮮やかな朱色だったような気がしたけど、その色は剥がれ落ち、殆ど面影がなかった。その鳥居に手を当てる。木が割れて削れた感触が、ガリガリと私を責め立ててくるようだった。お前はそうやって諦めてしまうのか、と。
そんな事言ったって、仕方ないじゃない。こんなに探しても、こんなに待っても会えないんだもん。もう、白ちゃんは美術部には入れない。だから、会えたとしても何を言ったらいいのか、言葉が見つからないんだもん。
足元には、所々に苔が生えた石段が上へと続いている。気付くと左足を一段目に掛けていた。足が重くて痛いのに、帰ろうと思っていたのに、周りの木々たちが作る薄暗いトンネルに入っていった。
石段を上がるにつれて呼吸も荒くなり、足も思うように動かなくなってくる。私はこんな所で何をしているんだろう、白ちゃんを探さなきゃいけないのに。もしかしたら今、公園のベンチに座っているかも知れない。学校の廊下を走っているかも知れない。それなのに、私はどうして石段を上がっているんだろう。自分で自分の行動の意味が解らなかった。
鬱蒼としたトンネルが段々と途切れていき、夕日が足元まで届いてくる。そして、七十段目を上がり切った所にもう一つの鳥居があった。その朱色も僅かしか残っていなかった。
(もう駄目……、もう歩けない)
悲鳴をあげる両膝に手をつく。荒い息づかいと一緒に、身体の上気と、額に汗がじんわりと滲んでいるのを感じた。
顔を上げると、鳥居の向こうには家一軒、いや二軒分くらいの開けた剥き出しの土。中央には神社が佇んでいた。小学生の頃までは初詣に来ていたけれど、中学に上がってからは別の神社に行くようになったから、ここに来るのは、ええと……四年振り位になるのか。
(この神社、こんなに小さかったっけ……?)
約五メートル四方の建造物。周りの壁には角材が細かい格子状に組まれていて、正面には観音扉。萱葺き屋根の下には『日笠神社』とうっすら読める板が掲げられている。きらびやかな装飾は一切なくて、くすんだ木の色が全体を覆っていた。そして、観音扉から五、六十センチほど下の地面へと伸びる、三段の踏み段。その一段目に腰を下ろしている少女がいた。両手で、うずくまるように膝を抱えていた。
顔は見えなかったけど、茶色い髪と白いカチューシャ。そして僅かに見える青いリボンは、ずっと探していた、ずっと会いたかった、あの少女だった。
「白ちゃん!」
私は叫んだ。それと同時に上げられた顔は、素肌に白いカーテンを纏っているかと見紛うほどに青白かった。腕や脚も同じで、ボレロの深紅が際立って見えた。私の顔が視界に入ると、白ちゃんはゆっくりと立ち上がって、口を開けて驚いているような、瞳を潤ませて泣いているような、どちらとも取れる表情をしていた。
「お、おねえちゃん……」
二人の間は五メートルほど。棒になった足で駆け出し、その距離を縮める。会ったら何て言うかなんて全く頭にはなかったから、この言葉を言おうと決めていたわけじゃない。だけど、私があの絵で描いていた、春の風が横を通り過ぎるように、落ちた桜の花びらがフワッと舞い上がるように、不意に、だけど自然に、とても素直に言葉として紡がれていた。
「白ちゃんは、私の友達だよ」
白ちゃんを抱きしめた。身体が少し冷たかった。それを温めるように、どこかに行って仕舞わないように、ずっと一緒にいられるように、願いを込めて抱きしめた。
「ほんと?」
身体が離れる。私の首の高さにある、クリンとした大きな瞳が上目遣いに聞いてきた。
「うん、友達だよ」
初めて部活見学に来た日。私の顔を見つけた時の、ぱあっと明るい笑顔をまた見せてくれた。先輩だから、後輩だから友達になれないだなんて、凄く小さい事だったんだ。
けれど、学校から随分と離れた場所なのに、どうしてこんな所にいたんだろう? 私がどこに住んでいるかなんて知らないはずなのに……。
「どうして、ここにいたの?」
すると白ちゃんは、曇った表情に変わった。
「白、もう、ここから動けないの。だから、おねえちゃんが来てくれて嬉しかった」
この神社から動けない? それはどういう事だろう。白ちゃんの身体が冷たい事と、何か関係があるのだろうか。
「どこか具合が悪いなら、私と病院に……」
言いかけた言葉を飲み込んだ。そうだ、白ちゃんは誰からも見えないんだ……。そう気付いたら、ある事を聞きたいという気持ちに駆られた。初めて会った時も同じ質問をしたけれど、今度のは意味合いが違う。聞いてしまったら、何か核心に触れてしまいそうで怖かった。だけど、聞かなければいけないような気がした。
「し、白ちゃん。あなたは一体……、だれ?」
白ちゃんが俯く。何かを躊躇うように、そのまましばらくの時間が過ぎた。その表情を見ていると、聞いてはいけない事だったのかも知れないと思った。
「やっぱり、言わなくていい。今の私にとっては、もう知らなくていい事なんだと思う」
「それじゃダメなの」
白ちゃんが首を振った。無造作に揺れた茶色い髪に、私の言葉は振り払われた。
「言わなきゃいけない事なの。もう、時間がないの。もうすぐ力がなくなっちゃうの。そうすると、ずっと会えなくなっちゃうから……」
そう顔を上げた白ちゃんは、悲しそうに微笑んでいた。
(力がなくなる? 会えなくなる?)
私は、その後の言葉を聞きたくなかった。白ちゃんは一度目を伏せた後、また私に視線を戻す。私を見据える瞳には、強い意志が宿っているように見えた。初めて見た真剣な顔に圧倒され、言葉を遮る事も、耳を塞ぐ事も出来なくなっていた。
白ちゃんは、自分で自分の言葉を確認するように、ゆっくりと話し始めた。
「白は、おねえちゃんを知ってる。おねえちゃんも、白の事を知ってる」
学校の廊下で、初めて会った時に言われた言葉だった。
「白ちゃんと私は、会ったことがあるの?」
「うん、会った事あるよ。でも、今の白を見ても、おねえちゃんはきっと思い出せない」
悲しそうな微笑みはそのままだったけれど、強い意志はより増した気がした。
「白は、おねえちゃんの事をずっと見てたの。遠い所からだけど……」
(遠い所……?)
「白は、おねえちゃんに恩返しをしたくて、ここまで会いに来たの」
白ちゃんは俯いて、沈黙が支配した。恩返しをするためと言うけど、私はこれまで人から恩返しをされるような事をした記憶がない。困っている人を見ても、声を掛ける事が出来ないような人間なのに。そんな私に、恩返しをする理由がどこにあるというの?
また私に目を合わせる。そこには、何かを心に決めたかのような、清々しい顔をした白ちゃんがいた。
おもむろに、白ちゃんは自分の首の後ろに両手をあてた。たどたどしく動いた後、その手が首から離れ、私の前に差し出された。そこにはチョーカーが握られていた。いや、チョーカーだと思っていたものは、よく見ると随分違っていた。よく雑貨屋とかで売っている、プレゼントにかけるような緑のリボンに、これも雑貨屋ですぐ手に入れられそうな鈴。その天辺にある穴にリボンが通されているだけの、単純な作りだった。錆び付いた鈴だけではなく、リボンの色も白っぽく擦れていて、端は繊維が解けてボロボロになっていた。
「これは、おねえちゃんに返すね」
「か、返す……?」
その意味を理解出来ないまま、白ちゃんの顔とリボンに付いた鈴を交互に見る。部室で見せていた無邪気な笑顔とは違って、優しくて、温かく包み込むような微笑みを浮かべている。私が手の平を差し出すと、チリンとくすんだ音と一緒に私の手に乗せられた。
その直後、鈴が僅かに光った。その光は、あっという間に何本もの柱となって、四方に発散していく。私の手も、白ちゃんの顔も、夏の太陽の下にいるかのように、黄色に照らされている。すると今度は、光が白く大きくなって、白ちゃんも、周りの景色も一気に飲み込んでいった。急に大量の光を吸い込んで、私の目が眩む。まばゆい光に目が慣れてくると、私の周りには真っ白な空間が広がっていた。
そこは、壁や天井があるわけでもないし、地平線や地面が見えるわけでもない。ただ白いだけ。白、純白、雪色、ホワイト……、それらの単語がどれも陳腐に思えてしまうほど、真っ白な世界に私一人だけだった。それに、自分の足には立っているという感覚がなかった。立っているはずなのに、浮いているかのようだった。自分自身さえ視界に入らず、手を目の前にかざしてみても、足元を見ても、そこにあるのは白い世界だけだった。
(な、なに? これ……)
私は怖くなって叫んだ……はずだった。確かに『白ちゃん!』と叫んだのに、自分の声が聞こえなかった。
私が“ここに居る”という意識しか、ここにはなかった。
すると、濃いミカンの色のような、オレンジ色の世界へと変わった。そこに緑色が混ざってくる。続いて赤が現れ始める。そして茶色、黄色、他にも様々な色がマーブリングのように、幻想的に絡み合っていった。一定の速度で、絶えず混ざり合うマーブル模様は、次第に速度を落としていく。そして、少しずつ、少しずつその色たちは、ある風景を形作っていった。
そこは、さっきまでいた神社だった。だけど、幾つか違っている部分がある。まず、私の視点が違う。境内を俯瞰するように、鳥居と神社を見下ろしている。鳥居の朱色は鮮やかで、神秘的な色を主張している。周りの木々は黄色や赤に色付いていて、紅葉の奇麗な顔を覗かせていた。
そして、白ちゃんがいない。その代わりに、踏み段の脇に座り込んでいる一人の少女が、神社の床と地面との空間に、顔をうずめる様にして何かを見ていた。背中を覆ってしまうかのように大きな赤いランドセルが、少女が動く度に右に左に揺れている。
顔は見えない。誰だろう? すると、私の事が見えたのか、何かを感じたのか、ふと少女がこちらに顔を向けた。
(あ、あれは……、私!? そうだ、小学生の頃の私だ……)
この頃の私は、時々学校帰りに神社に遊びに行っていた。多分、一、二年生の時だったと思うけど、いつからか行かなくなってしまった。
小学生の私は、私の事は見えていないようだった。しばらくこちらに目を向けた後、小首を傾げてまた視線を戻した。