四月三十日(金)「鈴川白という女の子」
本当は、もっと早く行こうと思っていたんだけど、いざ行動しようとすると中々足を向ける事が出来なかった。一年生の教室へ行くというのは、かなり緊張する。
チャンスは沢山あった。沢山あったのに、どうしようか悩んでいる内に四回あった休み時間も過ぎてしまって、五時限目の授業がもうすぐ終わろうとしていた。この後は部活があるだけ。白ちゃんは、多分今日も部活には来ないと思う。部室で待っていたら駄目だ。授業が終わったら、心を決めて行かなければ。
授業の終わりを告げるチャイムが響いた。同時に生徒達が動き出し、教室内が騒がしくなる。私もそれに遅れないよう、鞄に教科書を入れて席を立つ。
「美胡、どこ行くの?」
教室を出ようとした所で、愛華ちゃんに呼び止められた。
「あ、うん。ちょっと用事があって……。先に部室に行ってて」
「そっか。オッケー」
まだ、生徒がまばらな廊下を進む。今日は入部届けの締切日。会ったら何と言おうか。『入部しようよ』『入部して欲しいんだけど、どうかな?』『怒鳴っちゃってごめんね』ああ、どうしよう。言葉がまとまらないよ。
一階へ下りる階段に差し掛かる。あ、そういえば、白ちゃんはどこのクラスなんだろう? そうか、そんな事も知らなかったのか、私……。
一階に降りると、目の前には一年A組の教室。そこから右に、F組までの六クラスが並んでいる。私が一年生の時と変わらない位置に教室はあって、ほんの一ヶ月前まではD組で授業を受けていた。それなのに、今はもう“他学年の教室”という、全く別の空間が広がっていた。他学年の教室なんて、これまで一度も足を踏み入れた事はない。何かこう、行ってはいけない場所という気がしていたから。廊下には、教室から出てきたばかりの一年生が見られる。青いリボンの中で、一人だけ赤いリボンの私。それは、何か異物が混じったような、自分が異質な存在のように思えて、足を前に出すのを躊躇わせた。
でも、進めなければならない。時間はない。今日、もし白ちゃんに会えなかったら、もうずっと絵が描けないかも知れないという思いが、私の背中を押した。
ここで一つの問題がある。A組とF組、どちらから行くかという事だ。帰ってしまう前に会わなければならないから、白ちゃんのクラスに近い方から行きたい。ところが私は、どうしてか二択のうちのどちらかを選ぶ時、大抵ハズレの方を選んでしまう。当たる確立は二分の一なのに。この前愛華ちゃんが、飴を片方の手に握って私に選ばせた時も、十回連続で手に何も入っていない方を選んでしまった。『これって、ある意味クジ運良くない?』と、その飴をくれた事があった。
このままA組から回ろうか。それは単純すぎかな? よし、敢えて一番遠いF組からにしよう。と、その足を止めた。いや、ここで私がF組にしようと思ったという事は、それはハズレを選んだのかも知れない。だから、その反対のA組から行く方が正解のはずだ。
ぎこちない足の運びで、A組のドアの脇に立つ。うわぁ、緊張する……。“人”という字を手の平に書いて飲み込んだ。見たところ、白ちゃんは確認できない。誰かに声を掛けなきゃ。どうしよう、誰に声を掛けたらいいのかな?
「あの……。誰かに用事ですか?」
一人の生徒が声を掛けてきた。彼女にはきっと、挙動不審の怪しい上級生に見えた事だろう。だけど、そのお陰で次の言葉を発する事ができた。
「あ、あの、白ちゃ……、鈴川白さんは、このクラスですか?」
下級生に敬語を使っていた。
「ちょっと待ってて下さい」
「ねえ、ウチのクラスに鈴川って人いたっけ?」クラスメイトに確認している。数人の生徒に聞いた後、こちらに戻ってくる。
「ウチのクラスにはいないですけど……」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
お辞儀をしてB組に向かう。ドアに一番近い机で、帰り支度をしている生徒がいた。
「あの、すみません。このクラスに鈴川白さんっていますか?」
緊張しながらも、聞く事ができた。
「えーっと、このクラスにはいないですね」
「あ、そうですか。ありがとうございました」
その隣のC組にもいなかった。あと三クラス。もしかしたら、F組から回った方が早かったのかも知れない。またハズレを引いちゃったのかな。どうしよう、今からF組に行こうか。だけど、D組かも知れない。そう考えると、やっぱりこのまま回るしかなかった。白ちゃん、まだ帰らないでいて。そう願いながら、D組に向かった。
私は、やっぱりクジ運が悪いみたい。一年F組と書かれた札を見上げてそう思った。あのままF組を選んでいればすぐに会えたのに。もう、どうしてA組から行っちゃったんだろう。
最後のクラス、一年F組。このクラスは美術部の新入部員、三石さんと立花さんのクラスだ。白ちゃんは、二人と同じクラスだったのか。その事について、白ちゃんは何も言ってなかったな……。
教室内を覗いてみる。まだ、結構な数の生徒が残っていた。良かった、まだいるかも知れない。その時、三石さんと目が合った。彼女は少し驚いた表情を浮かべた。それは当然だろう。部室にいれば会えるのにわざわざ教室に来るという事は、余程の急用なのか他の部員には言えない内容なのか。そんな思いだったのかも知れない。
「如月先輩、どうしたんですか?」
「ごめんね、三石さん。あの、鈴川白さんを呼んで欲しいんだけど」
「すずかわ……しろ、さんですか? ちょっと待っててもらえますか?」
「うん、ごめんね」
頭の中で、言う事を復習する。『あの時は怒鳴っちゃってごめんね』『入部届け今日までだよ。美術部に入って、一緒に絵を描こうよ』うん、これでいこう。胸に手をあてると、その手を跳ね返すかのような強い鼓動を感じた。そのまま深呼吸をして、懸命に落ち着かせる。
三石さんが戻ってきた。三石さんが来るという事は、もしかしたら白ちゃんは帰ってしまったのかも知れない。不安が過ぎる。
「すいません、先輩。その人は、ウチのクラスじゃないですね」
「……え?」
三石さんは何を言っているんだろう? 私をからかっているのだろうか……?
「うそでしょ? 本当にF組じゃないの? 帰ったとかじゃなくて?」
三石さんに詰め寄る。
「え? はい……私、まだみんなの名前を覚えられてないから、クラス名簿を見たんですけど……、いなかったですよ?」
「ど、どうして……?」
「どうしてと言われても……。他のクラスじゃないんですか?」
他のクラスであるはずがない。他の五つのクラスでは、鈴川白という生徒は“このクラスの一員ではない”という答えが出ているのだから。その上でF組の一員でもないという事は、一年生ではないという事? いや、それはない。彼女の制服のリボンは青。その時点で二年生でも三年生でもなく、一年生だという事を明確に示している。では一体どういう事なのか。元々この学校の生徒ではない彼女が、制服を着て美術室に来ていたという事なのだろうか。
「そ、そう……」
おぼつかない足取りで、ドアから二歩、三歩と離れる。
「先輩? 大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。どうもありがとう……」
混乱したまま独り言のように言った。
そうだ、他の部員達にも聞いてみよう。白ちゃんは、いつも美術室に来ていたんだから。生徒達の間を縫うようにして、美術室に向かう。
部室では部長と愛華ちゃん、他に数人の部員が歓談していた。
「おー、美胡」
愛華ちゃんが手を上げる。部活が始まるまであと十五分。鞄を肩に掛けたまま、歓談の輪の中へ入る。
「部長、鈴川白さんって、いつも美術室に来ていましたよね?」
「誰だい? それは」
「誰って、部活中にいつも私の隣に座ってた一年生ですよ!」
思わず声を荒げる。
「いや、美胡っちはずっと一人だったぞ?」
「……え?」
何を言っているの? 部長も私をからかっているの?
「だって、初めて部活見学に来た時、私が『見学したい一年生がいる』って美術室に来たのを見ていますよね? それで部長は『見学者はどうしたんだ?』って……」
「部活見学? ……ああ、あの時は見学者が来なかったからな」
「う、うそ……」
どうして? わけが分からない。お願いだから、誰か白ちゃんの存在を認めてよ。そうだ、愛華ちゃんもあの時……。
「愛華ちゃん。私が公園にいた時、後から来てくれたよね? あの時、隣に白ちゃんが座っていたでしょ?」
「美胡が叫んだ日の事? ベンチには美胡だけだったけど。一人で凄く悩んでたみたいだったから、これはスランプかもって」
「じゃ、じゃあ、その日私が描いた絵の他に、もう一枚絵があったよね?」
それは、白ちゃんが描いた絵の事だ。
「あの時は、たしか美胡の絵しかなかったよ? 他には、何も描かれてない水彩紙が何枚かあったけど」
「それじゃあ……、私と白ちゃんが話しをしていた事は?」
それについては、部長が口を開いた。
「話しを? あれは独り言じゃないか。まあ、制作中の独り言なんて私もするしな。私も制作に集中していたから、美胡っちが具体的に何と言っていたのかは覚えていないし、さほど気にも留めなかったな。ああ、そういえば随分独り言が多いな、とは思ったが」
ことごとく白ちゃんの存在を否定されていく。他の部員に聞いてもその答えは二人と同じで、そんな女の子はいなかったという。そんな……、どうして? 何故? もう、その思いしかなかった。いつも白ちゃんは美術室に来ていて、私の隣に座っていて、私と沢山話しをして、部長や愛華ちゃんも白ちゃんと話しを……。いや……、していない。会話をしていない。私以外の部員は、白ちゃんとは一切言葉を交わしていない。白ちゃんが部室内を歩き回った時も、私が怒鳴った時も、白ちゃんに何か言った人はいなかった。それは、そういう事だったのか。私がそう思っていただけなのか……。
みんなには、白ちゃんが見えていなかった。誰一人として、白ちゃんの存在を認識していなかった。確かに白ちゃんはここにいたのに。私の隣にいたのに。私の絵を描いてくれたし、無邪気な笑顔を見せてくれていたのに。それなのに、部員からも、同級生からも存在を知られないなんて、あまりにも可哀想だよ。
もしそれが真実なら……、おそらく真実なんだろう。それなら、いつも私の隣にいた“鈴川白”という女の子は一体誰なの? 今どこにいるの? どうして私の前に現れたの? どうして私と友達になりたいと言ったの? お願いだから、誰か教えてよ。私に教えてよ!
思考は無秩序に入り乱れ、錯乱する。足は細かく震え力が抜けていく。
「美胡! 大丈夫!?」
崩れかけた両肩を支えられた感覚が、渇を入れられたような圧覚に感じられ、遠退いた意識が戻ってくる。まだ虚ろな目をしながらも、はっきりとその意思を口にした。
「探さなきゃ……」
「美胡?」
「白ちゃんを探さなきゃ」
きっとどこかで淋しそうにしている。きっと私を待っている。たった一人で泣いている。誰にも見つけてもらえない女の子。私が探してあげないといけない!
部長に向き直る。
「すみません、今日は休みます」
「あ、ああ、分かった。次の部活はゴールデンウィーク明けだから、それまでゆっくり休むんだぞ」
「それならあたしも……」
「ううん、愛華ちゃん。答えは私が出さなきゃいけないから」
その言葉を遮る。これ以上の心配をかけないように、穏やかな口調と笑顔で。それ以上、愛華ちゃんは何も言わなかった。
美術室を出ようとした時、丁度入ってきた三石さんと立花さんにぶつかりそうになった。
「あ、ごめん」
そのまま横を通り過ぎる。
「先輩。鈴川さんはいましたか?」
三石さんの言葉で振り返る。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
何一つ大丈夫ではなかったけど、そう言った。
校内を探す。帰ったとか帰らないとか、入部するとかしないとかは、もう関係なかった。白ちゃんに会わなければいけないという強い意志のみが、私の足を動かしていた。白ちゃんと会ったのは、美術室と廊下だけだったし、私の前に現れなくなった今となっては、学校内にいるのかさえ分からない。すれ違う生徒達の顔はどれも白ちゃんではなかった。廊下、トイレ、特別教室、テニスコート、園庭……、他にも探せる場所には足を運んだけれど、白ちゃんは見付からなかった。
「もう、学校にはいないのかな……」
廊下の窓から校庭を眺める。白ちゃんは、どこで何をしているんだろう。他にどこを探せばいいんだろう。
「あった……」
この学校以外で、会えるかも知れない場所が一つだけあった。昇降口に走り出す。駅へと向かう生徒を追い抜きながら、その場所を目指した。彼女と最後に会った場所へ。
まつみや公園の花壇には、今日も色とりどりの花が咲いている。小さい子供が二人、遊具で遊んでいるのが見える。二脚並んだベンチには、誰かが一人座っていた。それは、肩口までの茶色い髪だった。
(白ちゃん!)
息も切れ切れに、ベンチへ駆け寄ろうと公園に入った時、期待が現実と入れ替わった。
「ほら、気をつけなさい」
そこにいたのは、子供に注意する三十歳前後と思しき母親だった。
「あの、何か御用?」
ベンチのすぐ隣に立ちすくんでいた私に、そう問いかけてきた。
「あ、い、いえ。すみません……」
俯きながら答える。背格好は全く違うのに、同じ色の髪と同じ位置に座っているというだけで、勝手に白ちゃんだと思い込んでしまっていた。
「誰かと見間違えたの?」
その人は、穏やかに微笑んだ。
「……はい。この前、ここに座っていたものですから……」
「そう。会いたい人に会えないのは、とても辛い事よね。でも、その人があなたと会うべき人なら、きっとまた会えると思うわ。そう信じていればきっと、ね」
私がひどく淋しそうな顔をしていたのを見て、慰めてくれたんだと思う。だけど、たとえそれが根拠のない慰めであっても、今の私にとって、救いの手を差し伸べてくれたような、優しくてあたたかい希望の言葉だった。
「ありがとうございます……」
深くお辞儀をして、公園を出る。白ちゃんにもう一度会いたい、きっと会える。そう胸に強く思いながら、また茶色い髪と白いカチューシャの少女を探し始めた。