四月二十九日(木・祝)「描けない理由」
玄関の姿見でチェックをする。グレーのハイネックTシャツに、胸と裾にフリルが付いたピンクのチュニック。ネックレス。黒タイツ。ハート柄キルティングのトートバッグ。
「……よし」
黒縁の眼鏡を掛け直して、ショートブーツに足を通す。
「じゃあ、行ってきます」
「気を付けてね」
お母さんに見送られてマンションを出る。明け方から降り始めたという雨は、昼を過ぎても止まずに一定の冷めた音を立てている。眼前に広がる空と、濡れた建物や家々が一様に灰色に染まっている。仕方なく傘を差し、雨の中を駅へと歩く。
私が住んでいるマンションは、市街地から少し離れた郊外にあって、所々に森や山が見られる。それらは雨に濡れて、緑の濃い匂いを運んでくる。アスファルトの雨の波紋が、途切れなく側溝へと流れている。
元々、雨の日は好きじゃない。気分が暗くなるから。特に今は、雨になって欲しくなかった。それは、まだ絵を描けずにいたから。心に何もなかったから。白ちゃんが昨日の部活にも来なかったから。白ちゃんに怒鳴ってしまったあの日から、何も変わっていなかったから……。
駅のホームに下りると、丁度上り電車が滑り込んできた。祝日にも関わらず乗客は少なく、余裕を持って座る事ができた。今日がゴールデンウィークの初日である事と、雨だから少ないのだろうか。目的地の、通学で使っている松宮駅までの十五分の間、ただ窓に打ち付けられる雫の跡と、流れていく家たちと、遠くに霞む山々を眺めていた。
徐々に現れ始めたビルが山を視界から遮っていき、この街で一番大きな松宮駅に着いた。電車を降りて改札口へと向かう。この駅は三つの路線が乗り入れていて、都会の方へも行きやすい。私の家の方は少し田舎だけど、交通の便は良いと思う。大きな駅ビルも併設されていて、大抵のものはここで手に入る。
毎日の使い慣れた改札口を抜ける。旅行や帰省で人は少ないかと思っていたけど、普段の休日と変わらない賑わいをみせていた。正面に見える時計塔の下に立つと、愛華ちゃんにメールを打つ。
『今、待ち合わせ場所に着いたよ』
返事は直ぐに来た。
『あたしも駅に着いたから、ちょっと待ってて』
昨日の夜、愛華ちゃんから電話があって、気分転換にショッピングに行こうと誘われた。二人で出掛けるのはよくある事だけど、今回は私の事を気遣っての誘いなんだと“気分転換に”という言葉で理解できた。
「お待たせー!」
愛華ちゃんが視界に入る。白いプリントTシャツと、その大きく開いた襟から覗く黒いタンクトップ。ショートパンツにボーダー柄のニーハイソックス。スニーカーと黒いショルダーバッグ。いつも元気な愛華ちゃんらしいコーディネートだった。
「おお! そのピンクのチュニック可愛いじゃん。美胡はフリルが似合うよねー」
「そんな事ないよ。愛華ちゃんこそ、そのバッグが大人っぽくて凄く良いよ」
「マジで? この間、地元で見つけたんだよね。まあ、安物だけどさ」
その時、時計塔からオルゴール調のメロディーが流れた。雑踏のために小さく聴こえる音色と、文字盤の周りで動く小人の形をしたギミックが、午後二時を告げていた。
「さて、どこに行きたい? 服を見に行く? 雑貨がいい? カラオケでも良いし……って、それだと歌うのはあたしだけになっちゃうか」
愛華ちゃんは捲し立てるように話す。私を楽しませようとしてくれているのが解った。
「じゃあ、丁度絵の具を切らしそうだから、駅ビルの画材店でもいい?」
絵から離そうとしてくれていたのに、そんな事を言ってしまった。でも、愛華ちゃんはそれを快く受け入れてくれた。
「うん、いいよ。あそこの画材屋は品揃え豊富だし、あたしも見ていて飽きないしさ」
その大手画材店は、駅ビルの七階にある。同じ階には本屋と雑貨屋、それとカフェ。その階の三分の一を占めようかという広い画材店に入った。目の前に広がる額やキャンバス、筆や絵の具。他にも沢山の画材を前にして、気持ちが少し高まるのを感じた。まだ絵を嫌いになっていないのが分かって、少し安心した。
この駅ビルが出来たのは、高校に入学してすぐの頃だった。中学までは、地元の小さい文房具店で買った十八色の絵の具セットを使っていたから、心の色を出すのに苦労していた。だけど、ここではそれが見付けられるから嬉しい。一通り回った後、目的の透明水彩絵の具を探す。広い店内だけど、何度も来ているからその場所はすぐに見付けられた。そして、一つの絵の具を手に取る。
ランプブラック――。あの時、白ちゃんが使った色。その新品の絵の具を見つめながら、これを使う日は来るんだろうか、と思った。
「何か良いのあった?」
「あ、うん。愛華ちゃんは?」
「あたしは、新しい筆と油絵の具を買っちゃった」
手に持った紙袋を、顔の横で揺らす。
「あ、私も買ってくるから待ってて」
「急がなくて良いよ。ゆっくり見ててよ」
「ううん、今日はこれが目的だったから大丈夫」
会計を済ませてお店を出る。
「次はどうする? いつもの所?」
「うん、そうだね」
トートバッグに、店名のシールが貼られた絵の具を仕舞う。
いつもの所というのは、同じ階にあるお気に入りのカフェの事。画材店の後、カフェに入る。それがお決まりの流れだった。画材店で何も買わなくてもカフェには入る。うーん、それってカフェに入りたくて画材店に行っているという事? いやいや、そんな事はない。だって、一応女の子だし、スイーツは好きだし、ケーキが凄く美味しいから仕方がないよ、うん。
中に入ると、一番奥の席に案内された。カウンターもテーブルも椅子も、自然な木の風合いで落ち着ける。ただ、ここはオープンカフェだから、通路を歩くお客さんから見えてしまう。食べる姿を見られるのは恥ずかしいんだけど、ケーキの美味しさと愛華ちゃんが一緒だから入れる。
「“今週のケーキ”は何ですか?」
「南瓜のミルフィーユになります」
「じゃあ、それとカフェラテで。美胡は?」
「あ、えーっと……。モンブランとカプチーノをお願いします」
店員が復唱して去っていった。
「この後はどうする?」
「私は特にないから、愛華ちゃんの行きたい所でいいよ」
「じゃあ、CDショップと洋服見てもいい? って、美胡の好きな所に連れて行こうとしてるのに、ダメじゃんあたし!」
「そんな事ないよ。良い気分転換になるよ」
「お待たせ致しました」
店員がモンブランとカプチーノを置いてくれた。ここのコーヒーカップは凄く可愛くて、真っ白な陶器に花が描かれている。柄の種類も沢山あって、来る度に楽しめる。今日は、青い薔薇がカップの側面とソーサーに描かれていて、凄く素敵。
ケーキを食べた後、半分残っているカプチーノを一口飲む。少し心を落ち着かせてから、やっぱりこの話題を切り出した。
「愛華ちゃん、あのね……」
「なに?」
「愛華ちゃんは……、描けない時どうしてるの?」
一瞬、愛華ちゃんが持つコーヒーカップが止まったのが見えた。今日は、そういう日じゃなかったのは分かっていたから、愛華ちゃんの気持ちを台無しにしてしまった事に、少し後悔した。だけど愛華ちゃんは、そのまま残ったカフェラテを飲み干すと、いつもと変わらない笑顔で答えてくれた。
「あたし? そうだなー。あたしの場合は、描いて描いて描きまくるか、全く描かないか。そのどっちかで脱出出来るかなー」
「描けないのに描くの?」
「もちろん、納得いくものは描けないよ。何度も何度も失敗する中で、自分の描き方を思い出していく感じ。“下手な鉄砲も数打ちゃ当たる”精神で攻めるか、“描きたい!”って感覚が来るまで描かないで待つか、って所かな。美胡は?」
「私は今まで、描けない時でもそれがスランプだと感じた事はなかった」
「ん? どういう事?」
カップを置いた手が止まる。
「えっと……。私は描きたいものは心の中に浮かんでくるんだけど、心に浮かんでいない時は描きたいものがないという事で、“描きたいのに描けない”という感じじゃなかったから……」
「なるほどねー。で、今は逆に“描きたいのに心に浮かんでこない”状態に陥っている、と」
「うん……」
「それはキツイなあ」と、椅子の背もたれにもたれ掛かって腕組みをする。愛華ちゃんは、天井の方を見たりクシャクシャと髪を掻いたり、また腕組みをしたりしながら、突破口を見付けようとしてくれている。私は、愛華ちゃんとカップの青い薔薇を交互に見つめ、次の言葉を待っていた。
「んー、何が違うんだろうね」
「え?」
「いやね。描けていた時と今では、何が違うんだろうなーって。もしそれが見つかったら、描ける切欠になるかなーって」
「違う事……」
何だか重い気持ちがフッと消えていくような、私自身が少し軽くなったような感覚が体の中を流れた。ただ不安しかなかった心に、小さな明かりが灯った気がした。何が違うのかなんて分からないけれど、今の私にはそれで充分だった。
「うん、ありがとう。今までにない感覚だったから、自分ではどうする事もできなくて。少し前に進めそうな気がするよ」
雨の一日の中で、最初の笑顔だったような気がした。
家に戻って、絵の具を通学用の鞄に入れる。あれから洋服とCDを見に行ったけど、二人とも何も買わなかった。でも、私の収穫は大きかった。
部屋着に着替えてベッドに座る。顔を横に向けると、枕元に置いてある犬のぬいぐるみと目が合った。もうずっと昔に、母にせがんで買ってもらったものだ。本当は白いんだけど、もう随分と黒ずんでしまっている。また洗ってあげなきゃ。少し黒色の剥げた鼻をツンとつつく。胸に抱いて頭を撫でながら、愛華ちゃんの言葉を思い出していた。
『描けていた時と今では、何が違うんだろうね』
何が違うんだろう。筆が踊るように描けていた頃と、全く描けない今。白ちゃんに絵を駄目にされて怒鳴ってしまったし、確かに気持ちが違う。だから描けなくなったんだ。それは理解できている。ただ、あの時気持ちが軽くなったのは、他の何かを感じたからなんじゃないのかなあ? 他の理由を……。
あの絵を描いていた時は、白ちゃんに悩まされながらも描けていたんだよね。流れるように筆が動いて、今までにない位に心を表現できていて……。そして白ちゃんが来なくなって……。
「あ……」
白ちゃんがいないんだ。それが答えなのかは分からないけど、描けない今、白ちゃんは隣にいない。白ちゃんが隣にいたから、あんなにも素敵な絵が描けていたのかも知れない。白ちゃんが隣にいたから、あんなにも素直に心を映せていたのかも知れない。
はっとして、壁に貼られたカレンダーに目を向ける。今日は二十九日。良かった、まだ間に合う。明日は入部届けの締切日。明日を逃せない。白ちゃんに入部を誘ってみよう。もちろん答えは彼女が出すべきだ。私は白ちゃんに怒鳴ってしまったし、白ちゃんは私に申し訳ない気持ちから入部しないかも知れない。でも、とにかく会ってみよう。ちゃんと謝ろう。そして、もし入部してくれたなら、良い先輩になろう。
「白ちゃん、入部してくれるかな?」
ぬいぐるみに話し掛ける。その小さく丸い目で、真っ直ぐ私を見つめてくれていた。