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物集院秋津シリーズ

十峰村の天狗

作者: 秋月恒一
掲載日:2026/08/25

十峰村の天狗



第一章 夏の終わり



八月も終わりに近かった。

 私は予定より二日早く東京へ戻ることを決めた。

 理由は姉である。

「おはようございます、秋月先生」

 朝からそれだった。

「やめてくれ」

「なんで?」

「その呼び方」

「先生は先生やろ」

 姉の千代は平然としている。

 私はため息をついた。

 私、折口恒一は秋月恒一という筆名で

 三月に『羅生村の鬼』を出版して以来、帰省するたびにこうだ。

 しかも困ったことに、姉は私の作品をきちんと読んでいる。

 それどころか誰よりも真面目に読んでいる。

 発売日に買い。

 二晩で読み。

 三日後には感想が届く。

 そして容赦がない。

「読みやすかったわ」

「それはどうも」

「でも中盤説明多ない?」

「やっぱりそう思うか」

「あと秋津先生が変人すぎる」

「実物見たらもっと驚くぞ」

 千代は笑った。

 褒めるところは褒める。

 駄目なところは駄目と言う。

 私にとって一番厳しい読者だった。

「しかし秋月ねえ」

 千代が急に言う。

「なんや」

「やっぱり秋津先生の秋やろ」

 私は味噌汁を吹きそうになった。

「違う」

「絶対そうや」

「違うと言っとる」

「ふーん」

 口元が笑っている。

 図星だと分かっている顔だ。

 もちろん秋津本人には言っていない。

 今後も言うつもりはない。

 そこへ義兄の秦一郎が新聞を畳みながら口を挟んだ。

「千代、その辺にしてやりなさい」

「だって面白いんやもん」

「君も大概だな」

 私は助かったと思った。

 だが義兄は義兄で容赦がない。

「恒一君」

「はい」

「今回の作品は少し説明が多くないかね」

 私は箸を止めた。

「義兄さんまで」

「いや、面白かったよ」

 秦一郎は笑う。

 地方新聞社の編集長だけあって、人の話を和らげるのが上手い。

「ただ序盤の勢いに比べると中盤が少し重かった」

「千代と同じこと言うんですね」

「身内だからではないよ」

「余計にきついな」

「しかし売れたそうじゃないか」

 その言葉には素直な嬉しさがあった。

 秦一郎は昔から私の文章を読んでくれていた。

 だからこそ、いい加減な褒め方をしない。

「ありがとう」

「次も楽しみにしている」

 そして少し間を置いて言った。

「だが君はもう少し締切というものを恐れたまえ」

 編集長の顔になった。

 職業病だ。


 その日の昼過ぎだった。

 秦一郎が何枚かの地方新聞を抱えて戻ってきた。

「そうそう」

「なんです?」

「こんな記事があった」

 机へ新聞を広げる。

 地方版の小さな記事だった。

 私は何気なく目を落とす。

 見出しが目に入った。


山中で行方不明者続く

古くから天狗山と呼ばれる地域


「天狗?」

 私が眉をひそめる。

 東京にいる民俗学者の顔が頭をよぎったのである。

 秦一郎は頷いた。

「失踪事件自体は珍しくない」

「そうですね」

「ただ、この辺りでは昔から天狗隠しと呼ばれているらしい」

「へえ」

「君の民俗学者の先生なら好きそうな話ではないかね」

 私は苦笑した。

「確かに」

 その時はまだ冗談だと思っていた。

 そして数日後、私は東京へ戻った。


一葉館。

神田の外れに建つ古い下宿屋である。

木造二階建ての小さな洋館で、今では私の住まいであり、民俗学者・物集院秋津(もずめいんあきつ)の根城でもあった。

玄関を開けると、磨き上げられた廊下と、どこか懐かしい木の匂いが迎えてくれる。

実家から戻ったばかりだというのに、不思議と肩の力が抜けた。

どうやら私にとっての帰る場所は、折口家だけではないらしい。

だが、その安堵も長くは続かなかった。

私を待っていたのは、

「天狗です」

 と真顔で言う物集院秋津だった。

 机の上には同じ記事。

 同じ地図。

 同じ地名。

 私は天井を見上げた。

 どうやら秦一郎と秋津は、私の平穏な夏休みを終わらせることで意見が一致したらしい。



第二章 天狗



九月最初の朝だった。


東京駅のホームには、まだ夏の名残の熱気が漂っている。

私は旅行鞄を足元へ置きながら欠伸を噛み殺した。

向かいの席では物集院秋津が分厚いノートを広げている。

旅の始まりだというのに、相変わらず浮かれた様子はない。

「本当に行くんですね」

列車が動き始めると、私は窓の外を眺めながら言った。

「何がです」

「天狗ですよ」

秋津は顔も上げずに答える。

「だから行くのです」

「話が繋がっていません」

「そうでしょうか」

そういう問題ではない。

私はため息をついた。

しばらくして秋津はようやく手帳を閉じた。

そして鞄の中から古びた目録の写しを取り出す。

「折口君」

嫌な予感がした。

「なんです」

「十峰村へ向かう理由は天狗だけではありません」

「やっぱり古文書ですか」

「もちろんです」

即答だった。

秋津は紙片を差し出した。

そこには達筆な文字で書かれた書名があった。

『十峰山入峰録』

「じっぽうさんにゅうぶろく」

私が読み上げると、秋津は満足そうに頷いた。

「十峰山で修行した行者たちの記録と考えられています」

「考えられている?」

「現物が確認されていないのです」

私は目を細めた。

嫌な予感は当たっていた。

「所在不明ということですか」

「そうです」

秋津の口調が少しだけ弾む。

こういう時の彼は危険である。

「複数の文書目録に記載がありながら、現物は見つかっていません」

「それで奈良まで行くんですか」

「和歌山にも入ります」

「そこじゃない」

秋津は気にした様子もない。

「失われた修験道資料ですよ」

目が輝いていた。

私は窓の外を見た。

この男は、古文書の名前だけで何百里でも移動できる人種なのである。

「それで、天狗は?」

「きっかけは新聞記事です」

秋津は先日の記事を広げた。

山中で行方不明者続く。

古くから天狗山と呼ばれる地域。

見出しが踊っている。

「十峰村(とみねむら)には大天狗伝承が残っています」

「大天狗」

「ええ」

秋津は頷いた。

「そして失踪事件の舞台でもある」

「つまり」

「修験道の村に大天狗伝承が残り、所在不明の入峰録があり、そのうえ神隠し騒ぎまで起こっている」

私は頭を抱えた。

条件が揃い過ぎている。

秋津が食いつかないはずがない。

「折口君」

「なんでしょう」

「これは面白いと思いませんか」

「私は少しも思いません」

「そうですか」

「ええ」

「私は非常に面白いと思います」

知っている。

見れば分かる。

その顔は珍しい古文書を見つけた時の顔だ。

「ところで折口君」

しばらくして秋津が言った。

「天狗についてどの程度知っていますか」

「鼻が長い」

「はい」

「山に住んでいる」

「はい」

「人を攫う」

「なるほど」

秋津は残念そうに首を振った。

「それは近世以降の天狗です」

「違うんですか」

「もともとの天狗はもっと別の存在でした」

私は窓の外へ逃げることを諦めた。

「天狗という存在は時代によって姿が違うのです」

秋津は言う。

「今でこそ鼻の長い山伏姿ですが、古い時代の天狗は違いました」

「違った?」

「もともとは空を飛ぶ怪火や流星のような災異です」

「へえ」

それは知らなかった。

「平安時代の文献では、天狗は人を惑わす存在として恐れられていました」

「最初から山にはいなかったんですね」

「ええ」

秋津は頷く。

「山伏と結び付くのはもっと後です」

列車は山間部へ入り始めていた。

窓の向こうに青い峰々が見える。

秋津はその景色を眺めながら続けた。

「そして天狗を語る上で欠かせない神がいます」

「猿田彦ですか」

「おや」

秋津が少しだけ驚く。

「ご存じでしたか」

「この前説明されましたから」

「結構」

秋津は満足そうだった。

「猿田彦神は『古事記』や『日本書紀』に登場します」

「天孫降臨ですね」

「ええ」

秋津は指を立てた。

「道の分かれ目に立つ神です」

「道祖神みたいなものですか」

「近いですね」

しばらく考えてから言う。

「境界の神と言った方が正しい」

「境界?」

「人と神」

「里と山」

「こちら側とあちら側」

秋津の声は静かだった。

「そうした境目に立つ存在です」

私は窓の外を見る。

山が見えた。

深い森が見えた。

人の気配を拒むような山々だった。

「天狗もまた境界に現れる存在です」

秋津が言う。

「だから猿田彦との共通点が指摘されることがあります」

「なるほど」

「さらに中世になると修験道と結びつく」

ここから秋津は急に楽しそうになった。

「修験道の行者たちは山へ入りました」

「ええ」

「そして一般の人間が入れない場所を歩く」

「そうですね」

「人々から見れば異界を行き来する者です」

私はだんだん分かってきた。

「だから天狗みたいに見えた?」

「その通りです」

秋津は嬉しそうに頷いた。

「山伏姿の天狗が生まれた背景には修験者の姿があります」

「じゃあ十峰村も」

「そう」

秋津の目が光る。

「そこが重要です」

彼は鞄から一枚の地図を取り出した。

大峰山系。

奈良県と和歌山県の県境。

十峰村。

目的地には赤丸が付いていた。

「この辺りは古くから修験道の本場です」

「本場」

「日本有数と言っていい」

秋津は断言した。

「修験者が山へ入り、峰を巡り、祈りを捧げた土地です」

私は地図を見つめた。

山ばかりだった。

本当に山しかない。

「折口君」

「なんです」

「もしそのような土地に大天狗伝承が残っていたら?」

秋津は静かに笑う。

こういう時の彼は危険である。

「ただの妖怪話ではありません」

「でしょうね」

「修験道の歴史かもしれない」

「はい」

「あるいは何百年か前の事件かもしれない」

「はい」

「古文書が残っている可能性もあります」

私は顔を覆った。

結局そこだった。

天狗でも山でも修験道でもない。

この男が興味を持つ理由は最後に必ず古文書へ行き着く。

「やっぱりそれですか」

「それです」

即答だった。

列車は山へ向かう。

夏の終わりの空はどこまでも高かった。



第三章 十峰村



 大阪へ着いた頃には昼を過ぎていた。

 東京からの長い汽車旅で少し身体が固まっている。

 駅の雑踏を抜けながら、私は隣を歩く秋津を見た。

 本人は疲れた様子もなく、相変わらず鞄の中の資料を覗き込んでいる。

「少しは観光とかしないんですか」

「しません」

「即答ですね」

「目的地は十峰村です」

 そう言って再び目録へ視線を落とす。

 十峰山入峰録(じっぽうざんにゅぶろく)。

 所在不明の修験道資料。

 今のところ、この男の頭の中にはそれしかないらしかった。

 大阪から奈良へ向かう列車へ乗り換える。

 車窓の景色は徐々に変わっていった。

 都会の家並みが途切れ。

 田畑が広がり。

 やがて山が見え始める。

 それは石臼村で見た山々とも違っていた。

 もっと険しい。

 もっと深い。

 幾重にも重なった峰が、遠く空の下に横たわっている。

「大峰山系です」

 いつの間にか窓の外を見ていた秋津が言った。

「もうそんなところまで来たんですか」

「ええ」

 彼の目は少しだけ楽しそうだった。

「この辺りから空気が変わります」

「空気ですか」

「修験道の山ですから」

 そんなものだろうか。

 私にはただ山が多いようにしか見えない。

 だが不思議と圧迫感があった。

 山そのものに見られているような感覚である。


 奈良で一泊した翌朝。

 私たちはさらに汽車と乗合自動車を乗り継いだ。

 道は次第に細くなる。

 舗装されていない山道を揺られながら進むと、谷間を縫うように川が流れていた。

 濃い緑。

 深い谷。

 切り立った崖。

 東京では見ない景色ばかりだった。

「本当にこの先に村があるんですか」

「あります」

 秋津は平然としている。

「昔から宿場町として栄えましたから」

「信じられませんね」

 私がそう言った時だった。

 山道の向こうに屋根が見えた。

 一軒。

 二軒。

 そして十軒。

 気付けば斜面に沿うように家々が並んでいる。

 さらにその奥には、大きな寺の屋根が見えた。

「折口君」

「はい」

「十峰村です」

 私は思わず立ち上がりそうになった。

 思ったより大きい。

 正直、もっと寂れた山村を想像していた。

 だが実際は違った。

 谷間に広がる集落。

 商店。

 郵便局。

 旅館。

 土産物屋らしい店まで見える。

 確かに全盛期は過ぎているのだろう。

 しかし今でも周辺地域の中心集落であることは一目で分かった。

 乗合自動車が停留所へ停まる。

 私たちは荷物を抱えて降り立った。

 山の空気は冷たかった。

 九月だというのに東京より遥かに涼しい。

 見上げると、村の背後に巨大な山影がそびえている。

 まるで村そのものを見下ろしているようだった。

「大きいですね」

 私が呟く。

 秋津は頷いた。

「ええ」

 そして山を見上げたまま言った。

「大天狗が現れるには十分な山です」

「不吉なことを言わないでください」

 私は肩をすくめた。

 その時だった。

 通り過ぎた老人が、ふと私たちの会話を聞いたらしい。

 足を止めてこちらを見る。

「旅のお人さんか」

「そうです」

 私が答える。

 老人は山の方へ目を向けた。

「御山には気をつけなされ」

「御山?」

「大天狗様がおられる」

 そう言って老人は足早に去っていった。

 私は思わず秋津を見る。

 秋津は老人の背中を見送りながら、静かに笑っていた。

 あの笑顔だった。

 古文書を見つけた時と同じ顔である。

「折口君」

「なんです」

「面白くなってきました」

「私はまだ着いたばかりなんですが」

「実に良い村です」

 そう言って秋津は山を見上げる。

 その視線の先には、大峰の峰々が重なっていた。

 雲は低く。

 山は深い。

 どこまで見ても緑だった。

 しかし不思議なことに、その景色はどこか閉ざされて見えた。

 まるで村全体が巨大な境界の内側に取り残されているかのように。

 後になって思えば、その時すでに十峰村の空気は始まっていたのかもしれない。

老人と別れた後、私たちは十峰神社へ向かった。


 十峰村を見下ろす小高い丘の上に、その神社は建っていた。

 石段は古く、両脇の杉は驚くほど高い。

 見上げるだけで首が痛くなりそうだった。

「まずは宮司さんへの挨拶ですか」

「ええ」

 秋津は当然のように答える。

「十峰山入峰録の所在について聞かなければなりませんから」

 やはりそちらが本命らしい。

「本当に今から登るんですね」

「もちろんです」

 秋津はさっさと登り始めた。

 私は慌てて追いかける。

 ようやく登り切ると、小高い丘の上に古い社殿が現れた。

 木造の社は大きく、想像していたより立派だった。

 拝殿の前には誰もいない。

 静かなものだった。

 秋津は躊躇なく社務所へ向かう。

「ちょっと」

「なんです」

「約束は」

「ありません」

「連絡は」

「していません」

「完全な飛び込みじゃないですか」

「その方が話は早いでしょう」

社務所の前に一人の女性が立っていた。

 白い着物に緋袴。

 年は私より少し下だろうか。

 長い黒髪を後ろで束ねている。

 こちらへ気付くと小さく一礼した。

「あの、どちら様でしょうか」

「東京から参りました」

 秋津は一歩前へ出た。

「物集院秋津と申します」

 そして間髪入れずに続けた。

「こちらに十峰山入峰録は残っていますか」

 私は思わず顔を覆った。

 初対面で聞くことではない。

 女性は目を丸くしたまま数秒固まっていた。

 早い。

 着いて一分も経っていない。

「秋津」

「なんでしょう」

「せめて世間話をしてください」

「時間は有限です」

 女性が思わず吹き出した。

 秋津は不思議そうな顔をしている。

「すみません」

 女性は口元を押さえた。

「父から聞いていた通りの方でしたので」

今度は秋津が固まる番だった。

「私をご存じで?」

「はい」

 女性は一礼した。

「神倉美鈴と申します」

 そう言って微笑んだ。

「父は宮司の神倉丈一郎です」

「古文書を見ると他が見えなくなる先生だと」

秋津が珍しく納得した顔になる。

「では先生が」

「以前、父と文通されていた物集院先生ですね」

「ええ」

「十峰山入峰録の件も伺っています」

私は思わず秋津を見る。

「事前に話は通してあったんですか」

「手紙を二、三通ほど」

「先に言ってください」

「必要でしたか」

「必要です」

 美鈴は楽しそうに笑う。

 どこか知的な印象を受ける女性だった。

 派手ではないが、話し方に品がある。

「父がお待ちしています」

 そう言って社務所の方へ案内しながら続けた。

「もっとも、お話の半分は入峰録のことになると思いますが」

「残り半分は大天狗ですか」

 秋津が尋ねる。

 すると美鈴の表情が僅かに曇った。

「そうですね」

 彼女は山の方を見た。

 社殿の後ろ。

 さらにその奥に連なる深い峰々。

「最近は村でもあまり良い話を聞きません」

「失踪事件ですか」

「それもあります」

 美鈴は小さく頷く。

「昔から御山へ入るなと言われて育ちました」

「大天狗のために?」

 私が聞く。

「ええ」

 美鈴は少し困ったように笑った。

「私は信じているわけではありません」

「ですが?」

「村の人たちは本当に恐れています」

 風が吹いた。

 社殿の鈴が小さく鳴る。

 その音を聞きながら、私は背後の山を見上げた。

 晴れているはずなのに、山の上だけ妙に暗く見える。

「折口君」

 隣で秋津が呟く。

「なんです」

「良いですね」

「何がです」

「大天狗伝承が今も生きている」

 目が輝いていた。

 完全に研究者の顔だった。

 私はため息をつく。

 一方、美鈴は少し首を傾げ、

「父も同じような顔をします」

 と言った。

「古い話になるとです」

 私は思わず笑った。

 どうやら十峰村にも似た人種がいるらしい。



第四章 十峰神社



美鈴に案内され、私たちは社務所の奥へ通された。

 古い建物だった。

 磨き込まれた廊下は艶を帯び、障子越しの光が柔らかく座敷へ差し込んでいる。

 部屋へ入ると、一人の老人が立ち上がった。

 六十代半ばほどだろうか。

 背筋は真っ直ぐで、白髪交じりの髪をきちんと撫で付けている。

 穏やかな目をした人物だった。

「ようこそ十峰村へ」

 老人は深く頭を下げた。

「神倉丈一郎です」

「物集院秋津です」

「折口恒一です」

 私たちも挨拶を返す。

 丈一郎は秋津を見るなり微笑んだ。

「お会いするのは初めてですが、不思議とそんな気がしませんな」

「こちらもです」

 秋津も珍しく穏やかな表情をしている。

「神倉さんには長くお世話になっています」

「いえいえ。こちらこそ先生の論文には随分勉強させていただきました」

 どうやら本当に旧知の仲らしい。

 いや、正確には文通仲間か。

 私にはその違いがよく分からない。

 少なくとも二人とも古い資料の話になると止まらない種類の人間であることだけは分かった。

 お茶が運ばれてきた。

 美鈴が静かに席へ加わる。

「さて」

 丈一郎が口を開く。

「先生のお目当ては十峰山入峰録でしょう」

「ええ」

 秋津は即答した。

「やはり残っていませんか」

 私など前置きが欲しいところだが、この二人にそんなものは不要らしい。

 丈一郎は苦笑した。

「残念ながら所在不明です」

 秋津は静かに頷く。

 予想通りだったのだろう。

「ただし」

 丈一郎の表情が少し曇った。

「手掛かりはありました」

「ほう」

「最近になって入峰録を探していた人物がおります」

 秋津の目が細くなる。

「どなたです」

「神倉恒太です」

 美鈴の視線が僅かに伏せられた。

 私はその様子を見て首を傾げる。

「親戚ですか」

「甥になります」

 丈一郎が答えた。

「神社の手伝いもしております」

「修験道にも詳しい男ですよ」

 美鈴が静かに言う。

「村の歴史を調べるのが好きです」

 丈一郎は頷く。

「十峰山入峰録についても熱心に調べておりました」

「そして失踪した」

 秋津が言った。

 その声は静かだった。

「ええ」

 丈一郎は重々しく答える。

「三日前のことです」

 部屋の空気が変わった。

 ここへ来るまで新聞記事の失踪事件はどこか遠い話だった。

 だが今は違う。

 名前がある。

 顔がある。

 家族がいる。

「警察は?」

 私が尋ねる。

「捜索中です」

「ですが」

 美鈴が小さく続けた。

「村では大天狗に攫われたと言う人もいます」

 風が吹いた。

 窓の外で木々が鳴る。

「面白い」

 秋津が呟く。

「物集院先生」

 丈一郎が苦笑する。

「その言い方はご遺族への配慮に欠けますぞ」

「失礼しました」

 秋津は素直に頭を下げた。

 珍しい。

 私は少し驚いた。

 丈一郎は笑う。

「いや、お気持ちは分かります」

「天狗伝承と失踪事件。そして入峰録」

「先生ならそう思われるでしょうな」

 完全に理解し合っている。

 私はお茶を飲みながら二人を見比べた。

 十峰村にも秋津の同類がいた。

 その時だった。

「そういえば」

 丈一郎が言う。

「宿はお決まりですかな」

 私と秋津は顔を見合わせた。

 決まっていない。

 というより秋津が決めているものだと思っていた。

 秋津は平然としていた。

 嫌な予感がする。

「まさか」

 私は訊ねた。

「取ってないんですか」

「まだです」

「まだですじゃありません」

 私が頭を抱えると、美鈴が吹き出した。

「父の言った通りでした」

「何がです」

「物集院先生は旅の計画が雑だと」

「研究には支障ありませんから」

「あります」

 私が即答した。

 丈一郎は笑いながら立ち上がる。

「でしたら心配ありません」

「え?」

「村の宿坊へ話を通してあります」

 秋津が顔を上げた。

「峰岸家ですか」

「ええ」

「峰岸隆玄殿の宿坊です」

 丈一郎は頷く。

「修験者の宿として代々続いております」

「先生方にも都合がよろしいかと」

 秋津の顔が少しだけ明るくなった。

 「修験道関係の資料がありそうですね」

「ございます」

「なるほど」

 完全に餌を与えられた顔だった。

 私は静かにため息をつく。

 どうやらこれからしばらくは、その宿坊が私たちの拠点になるらしい。

 そしてそれは同時に、大天狗伝承と十峰山入峰録、そして神倉恒太失踪事件の中心へ足を踏み入れることを意味していた。



第五章 峰雲院



 十峰神社を辞した頃には、陽はだいぶ西へ傾いていた。

 丈一郎は私たちを見送りながら言った。

「峰雲院(ほううんいん)の峰岸へは伝えてあります」

「助かります」

 私が頭を下げると、丈一郎は笑った。

「十峰村へ来る学者先生方は大抵あちらに泊まりますからな」

「古文書も残っているそうですね」

 秋津が言う。

 丈一郎は苦笑した。

「やはりそこですか」

 どうやら古文書の話になると、この村の人々は似たような反応をするらしい。

 神社を出た私たちは、美鈴に案内されて村の奥へ向かった。

 集落の端を抜けると、道は徐々に山へ近づいていく。

 やがて大きな門が見えた。

 黒く風雨に晒された山門である。

 その向こうには巨大な屋根が幾つも重なっていた。

「ここです」

 美鈴が言った。

「峰雲院です」

 私は思わず立ち止まった。

 宿坊と聞いて質素な寺を想像していた私は、自分の認識を改めることになった。

 目の前にあったのは、ほとんど旅館と呼んで差し支えない大きな建物だったのである。

 黒ずんだ杉板張りの二階建て。

 広い中庭。

 長い渡り廊下。

 重厚な山門。

 門だけでも普通の民家が一軒入りそうな大きさだった。

「本当に宿坊ですか、これ」

「宿坊です」

 秋津は平然としている。

「江戸時代には大峰山へ向かう行者たちで賑わったそうですよ」

 美鈴が説明する。

「最盛期には百人以上が泊まったとか」

「百人」

 私は改めて建物を見上げた。

 なるほど。

 それだけの人数が泊まれそうな規模ではあった。

 門を潜ると、どこからか湯の匂いが漂ってくる。

「温泉ですか」

「はい」

 美鈴が頷いた。

「峰雲院自慢の天狗の湯です」

「天狗の湯?」

「十峰村では有名なんですよ」

 そう言って彼女は山の方を見た。

「昔、大峰へ入った修験者が道に迷ったそうです」

「それで?」

「大天狗が現れて杖で岩を打った」

「へえ」

「すると温泉が湧き出して旅人を救った」

 私は思わず笑った。

「いかにも天狗伝説ですね」

「そうですね」

 美鈴も笑う。

 その表情を見ていると、村人たちが皆、天狗を恐れているという話が少し信じられなくなった。

 しかし背後の山を見れば、その気持ちも分かる。

 十峰山は大きかった。

 ただ高いだけではない。

 人を拒むような深さがある。

 どこか異界に続いているような山だった。

 玄関へ入ると、一人の男が出迎えた。

 五十代半ば。

 日焼けした顔。

 鋭い目。

 そして山伏を思わせる堂々とした体格。

「峰岸隆玄です」

 宿坊の主人だった。

「神倉殿から話は聞いております」

「折口恒一です」

「物集院秋津です」

 挨拶を終えると、隆玄は秋津の顔を見て少し笑った。

「神倉殿が申しておりました」

「なんと」

「十峰山入峰録を探しに来る男だと」

 秋津は素直に頷いた。

「その通りです」

「でしょうな」

 隆玄は大きく笑った。

 どうやらこの村では秋津の目的は最初から筒抜けらしい。

 

 案内された客室は予想以上に立派だった。

 十畳ほどの和室。

 縁側付き。

 窓を開けると十峰山が正面に見える。

 風が冷たく心地良い。

 長旅の疲れが少しだけ軽くなった気がした。

「良い部屋ですね」

「ええ」

 秋津も頷く。

 珍しく風景を眺めている。

 と思ったら違った。

 庭の向こうにある蔵を見ていた。

「折口君」

「なんです」

「あれが文庫蔵でしょうか」

「景色を見てください」

「景色も見ています」

「嘘でしょう」

 この人はどこへ行っても変わらない。


 その晩。

 私は天狗の湯へ向かった。

 露天風呂へ出る。

 途端に声が漏れた。

「これはすごいな……」

 湯船の向こうに十峰山が見える。

 夕暮れの山だった。

 峰々は茜色に染まり。

 谷には薄い霧が流れている。

 聞こえるのは風と虫の声だけ。

 東京では決して味わえない静けさだった。

 湯は柔らかく、旅の疲れをじわりと溶かしていく。

 なるほど。

 もし誰かに奈良の山奥で泊まる場所を勧めるなら、私は峰雲院の名を挙げるだろう。

 古い宿坊。

 修験道の歴史。

 温泉。

 山の景色。

 それだけでも十分魅力的だ。

 もっとも。

 私の場合は違う。

 休暇ではないのだ。

 露天風呂から見える十峰山の暗い稜線を眺めながら、私は思い出していた。

 神倉恒太の失踪。

 大天狗伝承。

 そして所在不明の十峰山入峰録。

 静かな山だった。

 だがその静けさの奥で、何かが私たちを待っている気がしたのである。


第六章 失踪した男


 翌朝。

 朝食を終えた私たちは、峰雲院の離れへ案内されていた。

 神倉丈一郎、峰岸隆玄、峰岸康次、峰岸康造。

 そして村の駐在である木戸修吾が集まっている。

 話題はもちろん神倉恒太だった。

 座敷の空気は思った以上に重い。

 三日前から人が一人消えているのだ。

 当然である。

「まず確認したいのですが」

 秋津が口を開く。

「神倉恒太さんは何を調べていたのですか」

 最初に答えたのは丈一郎だった。

「十峰山の古記録です」

「修験道関係ですか」

「ええ」

 丈一郎は頷く。

「特に入峰録に強い関心を持っていました」

「十峰山入峰録ですね」

「その通りです」

 秋津の目が細くなる。

 完全に研究者の顔だった。

 木戸巡査が腕を組む。

「失踪前も、その話ばかりしていましたよ」

「具体的には?」

「御山へ入ると言っていました」

 私は思わず顔を上げた。

「山へ?」

「はい」

 今度は美鈴が答える。

「恒太兄さんは、入峰録がまだどこかに残っていると考えていました」

「根拠は?」

「分かりません」

 美鈴は首を振る。

「ですが見つけられると言っていました」

 秋津は少し考える。

「何か手掛かりを掴んでいた可能性がありますね」

 その言葉に隆玄が頷いた。

「かもしれません」

 低い声だった。

「失踪の二日前、うちへも来ました」

「峰雲院へ?」

「ええ」

 隆玄は湯呑みを置いた。

「昔の帳面を見せてほしいと」

 秋津の眉が動く。

「見せたのですか」

「一部だけですが」

「何を探していたのでしょう」

「それは分かりません」

 そこで初めて峰岸康次が口を開いた。

 二十代後半。

 日に焼けた精悍な顔立ちだった。

「ただ」

「ただ?」

「最近の恒太さんは少し様子がおかしかった」

 部屋の全員が彼を見る。

「どういう意味ですか」

 秋津が尋ねる。

 康次は少し迷ってから続けた。

「何かに怯えていたんです」

 静かな言葉だった。

「怯えていた?」

「ええ」

 康次は頷く。

「山で誰かを見たと言っていました」

 私は身を乗り出した。

「誰をです」

 そして康次は答えた。

「大天狗です」

 部屋が静まった。

 木戸巡査が深いため息をつく。

「だからそれですよ」

 明らかにうんざりした顔だった。

「私は最初から言っていますが、そんなものはいません」

「巡査殿」

 丈一郎が窘める。

「村の人間は本気で恐れております」

「だから捜索が進まないんです」

 木戸は不満そうだった。

「山には大天狗がいる」

「入れば攫われる」

「そんな話ばかりだ」

 すると康造が穏やかに口を挟んだ。

「しかし村人の気持ちも分かります」

 私は初めてその男をまともに見た。

 四十前後。

 柔らかな物腰。

 優しそうな笑み。

 いかにも人当たりの良い人物だった。

「恒太君が消えた場所は例の御山です」

「昔から天狗隠しの伝承がある」

「不安になるのも仕方ありません」

 確かにもっともらしい話だった。

 木戸も反論できず黙る。

 なるほど。

 この人が調整役なのだろう。

 誰に対しても穏やかで、

 誰とも衝突しない。

 そんな印象を受けた。

「折口君」

 隣で秋津が小さく呟いた。

「なんです」

「面白いですね」

「またですか」

「ええ」

 秋津は机の上に視線を落とした。

「入峰録を探していた男が失踪する」

「その直前まで山へ入っていた」

「しかも大天狗を見たと言っていた」

 私は頭が痛くなってきた。

  こういう時の秋津は、大抵面白がっているからだ。

「先生」

 丈一郎が静かに言った。

「何かお考えですか」

「まだ何も」

 秋津は答える。

「ただ気になることがあります」

「なんでしょう」

「神倉さん」

 秋津は丈一郎を見た。

「恒太さんは何か見つけてしまったのではありませんか」

 丈一郎の表情が僅かに強張った。

「見つけた?」

「入峰録そのものか」

「あるいは二百年前の出来事に関する記録か」

 誰も口を開かなかった。

 部屋に沈黙が落ちる。

 窓の外では風が杉を揺らしていた。

 その音だけが聞こえる。

 やがて康造が穏やかに笑った。

「先生は大袈裟だ」

「そうでしょうか」

「古文書ごときで人は消えませんよ」

 秋津も笑う。

 しかしその目は笑っていなかった。

「そうだと良いのですが」

 私はその横顔を見た。

 近くで付き合っていれば分かる。

 秋津は何かを感じている。

 まだ形になっていないだけで、

 十峰村のどこかに真相へ繋がる糸があると。

 そしてその糸の先には、

 神倉恒太の失踪と、

 十峰山入峰録と、

 大天狗伝承が繋がっている。

 そんな気がしてならなかった。



第七章 村の対立



 その日の午後。

 私たちは木戸巡査の案内で十峰村を見て回ることになった。

 神倉恒太の足取りを追うためでもあるが、秋津に言わせれば、

「まず村を知らなければなりません」

 ということらしい。

 もっとも、この男の場合は事件より民俗調査が本命である。

 私はもう諦めていた。

 役場の前を通った時だった。

 広場に人だかりができている。

 何やら言い争っているらしい。

「また始まったか」

 木戸巡査が顔をしかめた。

「何です?」

「村の会合ですよ」

 巡査はため息をつく。

「最近はずっとこんな調子です」

 広場では初老の男が何かを訴えていた。

 その隣には背広姿の男性が数人立っている。

「久我村長です」

 木戸が言った。

「村の開発を進めています」

 私たちは少し離れた場所から様子を眺めた。

 久我義雄は六十代とは思えないほど声が大きかった。

「このままでは村は先細りです!」

 広場に声が響く。

「道路を整備しなければ人は来ない!」

「観光客を呼ばねば若者も残らん!」

 村人たちが頷く。

 確かに間違ってはいない。

 十峰村は山奥だ。

 便利とは言い難い。

 すると別の声が上がった。

「だからといって何でも壊せばいいという話ではない!」

 振り返る。

 峰岸隆玄だった。

 いつもの穏やかな宿の主人ではない。

 厳しい表情をしている。

「御山は代々守られてきた場所です」

「修験道の道も失われる」

「それでも構わないと?」

 広場の空気が張り詰めた。

 村人たちも二つに割れているらしい。

 頷く者。

 顔をしかめる者。

 互いを見て黙る者。

 木戸巡査が苦笑した。

「これが十峰村です」

「対立しているんですね」

「ええ」

 簡潔な返事だった。

 秋津は興味深そうに眺めている。

 完全に観察者の顔である。

「久我村長は開発派」

 木戸が説明する。

「隆玄さんは伝統維持派」

「ずっと衝突しているんです」

 確かに分かりやすい構図だった。


 その時だった。

「まあまあ」

 穏やかな声が割って入る。

 人垣がわずかに開いた。

 現れたのは峰岸康造だった。

「どちらの言い分も分かります」

 柔らかな口調だった。

「村を残したい気持ちは皆同じです」

 久我を見る。

「村長のおっしゃる通り、生活は大事です」

 次に隆玄を見る。

「ですが伝統も失ってはならない」

 誰も反論しない。

 不思議なことだった。

 あれだけ言い争っていた人々が静かになる。

「もう少し落ち着いて話し合いませんか」

 康造は笑った。

「感情的になっても良い結果は出ません」

 久我が腕を組む。

「ふむ」

 隆玄も息を吐く。

「そうだな」

 いつの間にか場が収まっていた。

 私は感心した。

「すごい人ですね」

 木戸巡査が頷く。

「康造さんは昔からああなんです」

「村の仲裁役ですよ」

 なるほどと思う。

 村長とも話せる。

 宿坊とも話せる。

 神社とも話せる。

 誰からも嫌われていない。

「良い人そうですね」

 私が言うと、

「ええ」

 木戸も即答した。

「村のためによく動いてくれてます」

 その時。

 秋津が小さく呟いた。

「なるほど」

「何です?」

「いえ」

 秋津は康造を見ていた。

「興味深いと思いまして」

「何がです」

「皆が信頼している」

 それだけ言う。

 私は首を傾げた。

 意味が分からない。

 だが秋津はそれ以上何も言わなかった。

 広場では既に会合が終わり始めていた。

 久我も。

 隆玄も。

 村人たちも。

 それぞれ帰っていく。

 その中心で康造だけが最後まで残り、人々に声を掛けていた。

 誰に対しても笑顔だった。

 誰に対しても親切だった。

 私にはその姿が頼もしく見えた。



第八章 推進派



 翌日。

 私たちは木戸巡査の案内で村役場を訪れていた。

 昨日の広場でのやり取りが気になったからである。

 秋津によれば、

「対立しているなら双方の話を聞くべきです」

 とのことだった。

 もっともらしい理屈だ。

 その実、この村の修験道史を調べたいだけだということを私は知っている。

 役場は二階建ての木造建築だった。

 古いが手入れは行き届いている。

 応接室へ通されると、しばらくして久我義雄が姿を現した。

 六十代。

 がっしりした体格。

 いかにも村の長という雰囲気だった。

「ようこそ」

 久我は私たちへ茶を勧めた。

「神倉殿から聞いております」

「突然失礼します」

 秋津が頭を下げる。

「構いませんよ」

 久我は笑った。

「こんな山村まで学者先生が来てくれるのはありがたいことです」

 そして私を見る。

「折口先生も」

「先生はやめてください」

「小説家でしょう」

「駆け出しですよ」

「それでも先生です」

 どうやらこの村でも逃げられそうにない。

 私は諦めて茶を飲んだ。

 しばらく世間話をした後、秋津が本題へ入った。

「久我さん」

「なんでしょう」

「観光開発についてお伺いしたい」

 久我は少し笑った。

「村の対立の話ですな」

「ええ」

 すると村長は窓の外へ目を向けた。

 役場の向こうには十峰山が見える。

 深い緑に覆われた巨大な山だった。

「先生」

 久我は静かに言う。

「この村は年々人が減っています」

「そうでしょうね」

 秋津も頷いた。

「若い者は都会へ出ていく」

「子供も減る」

「仕事も少ない」

 そこに誇張はなかった。

 単なる現実だった。

「私は村を残したいのです」

 久我は続ける。

「このままでは十峰村は消える」

「だから道路を整備し」

「観光客を呼び」

「外から金を入れる」

 確かに理屈は通っている。

 隣で木戸巡査も頷いた。

「村長の言うことも間違いじゃありません」

「巡査もそう思いますか」

「ええ」

 木戸は答えた。

「若い者は皆出ていきますから」

 その時だった。

 障子が開く。

「失礼します」

 入ってきたのは五十代ほどの男だった。

 恰幅が良い。

 商売人らしい顔つきである。

「田辺勝蔵さんです」

 久我が紹介した。

「商工会長をしています」

「どうも」

 田辺は頭を下げる。

「先生方も見られたでしょう」

「山ばかりの村です」

「だからこそ観光が必要なんです」

 熱のこもった口調だった。

「天狗伝説も」

「修験道も」

「温泉もある」

「活かさない手はないでしょう」

 私は少し感心した。

 この人にもこの人なりの理屈がある。

 単純な金儲けではないらしい。

 そこへ久我が言った。

「ただ隆玄殿は反対です」

「御山を守れ、と」

 田辺も苦笑する。

「気持ちは分かるんですがね」

「村が無くなってしまっては伝統も何もありません」

 部屋の空気は重かった。

 どちらの言い分も間違っていない。

 だからこそ厄介なのだろう。

 その時。

「しかし」

 久我がふと表情を和らげた。

「峰岸君がいてくれるのは助かります」

 秋津の目が僅かに動く。

「康造さんですか」

「ええ」

 村長は即答した。

「彼は話が分かる」

「宿坊の人間ですが現実も見ている」

「私と隆玄殿の間を行き来してくれているのです」

 田辺も大きく頷いた。

「康造さんがおらんかったら、会議なんかまとまりませんよ」

「本当に良い人です」

「村のためによく働く」

 その言葉に嘘は感じられなかった。

 むしろ心から信頼しているように見える。

「将来は村を背負う人物でしょうな」

 久我が言う。

「神社とも話せる」

「宿坊とも話せる」

「商工会とも話せる」

「こういう人物は貴重です」

 私は思わず頷いた。

 確かにそうだろう。

 昨日見た限りでも康造は誰からも頼りにされていた。

「神倉恒太さんもそうだったのでは?」

 秋津が尋ねる。

 一瞬だけ。

 久我の表情が曇った。

「ええ」

 小さな声だった。

「あの青年も期待されていました」

「真面目で賢い男でした」

 田辺も続ける。

「開発派とか保守派とか関係なくな」

「みんな好いていた」

「だから残念です」

 部屋が静まる。

 恒太の失踪は村全体の損失だったらしい。

 久我は山の方を見た。

「無事だと良いのですが」

 その声には本心が滲んでいた。

 秋津は何も言わなかった。

 ただ静かに茶を飲む。

 そして私だけが気付いた。

 秋津が考えている。

 いつもの癖だ。


 誰かの言葉。

 誰かの立場。

 誰かへの評価。


 そうしたものを頭の中で並べている。

 特に今、久我が迷いなく康造を信頼していたことを。

 その事実だけは、しっかり記憶しているように見えた。


その時だった。

 役場の廊下から足音が聞こえてきた。

「村長」

 障子が開く。

 現れたのは峰岸康造だった。

「ああ、康造君」

 久我の顔が明るくなる。

「先生方もおられましたか」

 康造は穏やかに頭を下げた。

 相変わらず人当たりの良い男だった。

「先日の件ですが」

 久我が言う。

「あちらは納得しましたか」

 康造は苦笑した。

「簡単にはいきません」

「隆玄さんも頑固ですから」

「まあそうだろうな」

 久我も笑う。

 どうやら何か交渉していたらしい。

 私が首を傾げていると、

「道路計画ですよ」

 田辺が教えてくれた。

「神社裏へ抜ける新道です」

 康造が続ける。

「皆さんそれぞれ思いがありますから」

「急がず話し合うべきだと思っています」

「しかし必要な計画だ」

 久我が言った。

「そうですね」

 康造は頷く。

「将来的には避けて通れないでしょう」

 その返事に久我が満足そうな顔をした。

「君なら分かってくれると思っていた」

 そして私たちへ向き直る。

「実はな」

 久我は笑った。

「わしは康造君へ期待しているんですよ」

「期待?」

「いずれ村をまとめる人間になる」

 田辺も大きく頷いた。

「その通りです」

「神社とも話せる」

「宿坊とも話せる」

「商工会とも話せる」

「村長の次は康造さんだという者もおります」

 康造が困ったように笑う。

「やめてください」

「私はそんな立派な人間ではありません」

「謙遜するな」

 久我が笑った。

「君なら十峰村を変えられる」

 その言葉には本気があった。

 村長は心から康造を信頼しているのである。

 そして康造もまた、

 柔らかな笑顔でそれを受け入れていた。



第九章 伝統派



 その日の夕食は峰雲院の大広間で取ることになった。

 山菜の煮物。

 川魚の塩焼き。

 猪鍋まで並んでいる。

 宿坊と聞いていたから精進料理ばかりかと思っていた私は少し驚いた。

「豪華ですね」

「昔から行者や参詣客を迎えてきましたからな」

 峰岸隆玄が笑う。

「腹が減っていては修行もできません」

 確かにその通りだ。

 向かいには秋津。

 上座には隆玄。

 その隣には息子の康次。

 少し離れた場所には娘の梓も座っていた。

 昼間の役場とはまるで違う空気だった。

 ここは峰岸家の領分なのである。

 食事が一段落すると、秋津が湯呑みを置いた。

「隆玄さん」

「なんでしょう」

「開発計画について聞かせていただけませんか」

 隆玄は少し苦笑した。

「村長にも同じ話を?」

「ええ」

「なるほど」

 そう言って十峰山の方へ目を向ける。

「私は開発そのものに反対しているわけではありません」

「ですが」

「御山は別です」

 声に力が宿った。

「山は観光地ではない」

「修行の場です」

「先祖から受け継いできた場所です」

 康次も頷く。

「今の計画では古い修験道の道が潰されます」

「石碑も動かされる」

「それは違うでしょう」

 青年らしい真っ直ぐな口調だった。

 昨日の広場でも感じたが、康次はかなり熱い性格らしい。

 父親よりも感情が先に出る。

「けれど村長の言い分も分かります」

 意外にもそう言ったのは梓だった。

 二十二歳。

 どこか都会的な雰囲気を持っている。

「仕事は必要ですし」

「若い人だって減っています」

 隆玄は少し眉をひそめる。

 だが反論はしなかった。

「梓さんはどう思うんです」

 私が尋ねると、

「正直ですか?」

と梓が笑う。

「ええ」

「どっちも正しいと思います」

 困ったような答えだった。

「でも誰も譲らないんです」

 その一言に現実が滲んでいた。

 推進派。

 保守派。

 その間に挟まれている人間の言葉だった。

 すると康次が腕を組む。

「村長は急ぎ過ぎなんです」

「何百年も続いたものを簡単に変えられてたまるか」

「兄さんはそういうところがあるから」

「悪いか」

「少しはあります」

 梓がさらりと言う。

 兄妹らしいやり取りだった。

 その時である。

 廊下から足音が聞こえた。

「失礼します」

 障子が開く。

 現れたのは峰岸康造だった。

「ああ、康造さん」

 私より先に隆玄が声を掛ける。

 康造は穏やかに頭を下げた。

「話し込んでおられましたか」

「ちょうど村のことをな」

 隆玄が笑う。

「先生方にも聞いてもらっていた」

「そうでしたか」

 康造は私たちにも会釈した。

 相変わらず物腰が柔らかい。

「康造さんはどう思われます」

 秋津が訊ねる。

「開発についてです」

 康造は少し考えた。

 そして答える。

「難しい問題です」

「村長の言い分にも理があります」

「ですが隆玄さんの言葉にも重みがある」

 実に無難な答えだった。

 誰も傷付けない。

 誰も否定しない。

 しかし不思議と嫌味がない。

「だからこそ」

 康造が続ける。

「私たちが話し合わなければなりません」

「村を残すために」

 隆玄が満足そうに頷いた。

「康造は昔からそうだ」

「若い頃から人の話を聞く」

「誰とでも話せる」

 その口調には信頼が滲んでいた。

「助かっていますよ」

 隆玄は言う。

「村長と話ができるのも康造のおかげです」

 康造は困ったように笑う。

「大したことはしていません」

「いや」

 今度は康次が言った。

「康造兄さんがいなかったら、とっくに喧嘩になっています」

「村長とも神社とも話せる」

「俺は信用しています」

 その言葉は真っ直ぐだった。

 尊敬しているのだろう。

 梓も小さく頷く。

「そうですね」

「康造さんだけは誰とも揉めませんし」

「頼りになります」

 私は思わず感心した。

 村長にも信頼されていた。

 宿坊にも信頼されている。

 神社とも関係が良いらしい。

 確かにこういう人物は珍しい。

 その時だった。

 隆玄が何気なく言う。

「いずれは峰岸家を背負う立場になるかもしれん」

 康造が苦笑する。

「買い被りですよ」

「そんなことはない」

 隆玄は即座に否定した。

「お前なら伝統を守れる」

「峰雲院も」

「御山も」

「神社との関係もな」

 康造は何も答えなかった。

 ただ少しだけ視線を伏せた。

 謙遜しているようにも見えた。

 私はその様子を見ながら思う。

 久我村長は康造を信頼していた。

 今、隆玄も康造を信頼している。

 そして康次や梓までも。

 誰もが彼へ期待していた。

 村の未来を託せる人物として。

 峰岸康造という男は、この対立する十峰村を繋ぎ止めている数少ない人物なのだと。

しばらく歓談が続いた後、秋津がふと口を開いた。

「康造さん」

「はい」

「少しお願いがあるのですが」

 康造は驚いたように目を瞬く。

「私にですか」

「ええ」

 秋津は当然のように頷いた。

「十峰山入峰録について調べております」

「神社だけでなく、旧家や寺院にも記録が残っている可能性がある」

「なるほど」

「ですが私は土地勘がありません」

 すると康造はすぐ理解したようだった。

「案内役が必要ですね」

「お察しが良い」

 秋津は満足そうに言う。

「お手伝いいただけますか」

 康造は少しも嫌な顔をしなかった。

「もちろんです」

 即答だった。

「神倉さんにも顔が利きますし」

「御影家にも知り合いがおります」

「必要なら村長とも話を通しましょう」

「助かります」

 秋津が頭を下げる。

 珍しい光景だった。

 私が見る限り、この人が他人を頼ることはあまりない。

 しかし康造は穏やかに笑った。

「十峰村へ来てくださったのです」

「それくらいはさせてください」



第十章 文庫蔵



 夕食の後だった。

 広間に残っていた私たちへ、峰岸隆玄がふと思い出したように言った。

「そういえば先生」

「なんでしょう」

「十峰山入峰録を探しておられるのでしたな」

 秋津の顔が上がる。

 分かりやすい。

 さっきまで湯飲みを手にしていた男が、一瞬で研究者の顔になった。

「ええ」

「実は峰雲院にも古い文書が残っています」

 秋津が固まった。

 いや、正確には硬直した。

「文書が」

「あります」

「修験道関係ですか」

「かなり」

 隆玄が答える。

 その瞬間だった。

 秋津の目が輝いた。

 危険な光だった。

 私は見たことがある。

 備中国鬼守縁起の話を聞いた時と同じである。

「折口君」

「嫌な予感しかしません」

「文庫蔵です」

「知っています」

「文庫蔵があります」

「二回言わなくていいです」

 隆玄が豪快に笑う。

「今からでも見ますか」

「ぜひ」

 即答だった。

 私が返事をする隙もなかった。

 その時、康造が立ち上がる。

「では私は失礼します」

「もう帰るのですか」

 私が訊ねると、

「明日も朝から仕事がありますので」

 康造は穏やかに笑った。

「先生方の調査がうまくいくことを祈っています」

 相変わらず感じの良い人である。

 そう言い残し、夜の廊下へ消えていった。

 隆玄は息子へ目を向ける。

「康次」

「はい」

「先生方を文庫蔵へ案内してやれ」

「分かりました」

 青年団長は立ち上がった。

 外はすっかり暗くなっていた。

 中庭の向こうに蔵が見える。

 白壁と黒い瓦。

 年月を感じる大きな土蔵だった。

「文庫蔵です」

 康次が錠前を外す。

 重い扉が開く。

 古い紙の匂いが流れ出てきた。

 秋津は一歩中へ入る。

 そして。

 止まった。

「どうしました」

 私が声を掛ける。

 秋津は答えなかった。

 ただ蔵の中を見つめている。


 本棚。


 木箱。


 巻物。


 帳面。


 和綴じ本。


 それらが壁一面に並んでいた。

「折口君」

 秋津が静かに言った。

「なんです」

「素晴らしい」

 それだけだった。

 完全に始まっている。

 私は諦めた。

 今夜は長くなる。

 康次が苦笑する。

「父も子供の頃はあんな顔をしていました」

「似た人種なんですね」

「たぶん」

 秋津は既に聞いていなかった。

 片端から記録を確認し始めている。

 やがて一冊の帳面を開いた。

「山帳です」

「山帳?」

「山へ入った行者の記録ですよ」


 日付。


 名前。


 入山日。


 下山日。


 細かな文字が並んでいる。

 さらに別の箱を開く。


「修験帳」


 今度は修行内容が書かれていた。


 滝行。


 護摩。


 入峰。


 昔の修験道の姿がそのまま残っている。

「すごいな……」

 私も思わず呟いた。

「まだありますよ」

 康次は慣れた様子で棚を指差す。

「あちらは峰雲院の記録です」

「こちらは講中名簿」

「奥はもっと古い文書です」

 奥。

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 秋津が振り返る。

 私には分かった。

 獲物を見つけた顔だった。

 古い木箱を取り出す。

 埃が舞った。

 紐を解く。

 和綴じの冊子が数冊現れた。

 その一冊を開く。

 秋津の眼鏡が光った。

「折口君」

「はい」

「見つけました」

「入峰録ですか」

「違います」

 少し残念そうだった。

 それでも顔は明るい。

「もっと面白い」

 冊子の表紙を覗き込む。

 そこには、


『導師継承覚書』


 と書かれていた。

「導師?」

「峰雲院の前身となる修験集団の記録です」

 秋津は静かに頁をめくる。

 しばらくして手が止まった。

「あった」

 その声は小さかった。

 だがはっきり聞こえた。

「何がです」

 秋津は頁を私へ向ける。

 そこには二つの名前が記されていた。


蓮真


道玄


 私はその名を読んだ。

 初めて見る名前だった。

「誰です」

 康次が首を傾げる。

 だが秋津の表情は変わっていた。

「二百年前の人物です」

 静かな声だった。

「どうやら十峰村では一度、次の導師を巡る争いが起きたらしい」

 私は思わず頁へ目を落とした。

 文字はかすれている。

 だが内容は読み取れた。

 本来の後継者は蓮真。

 しかし途中から記録が乱れる。


 批判。


 告発。


 不正の訴え。


 そして最後に記される。


道玄、導師職を継ぐ。


 部屋が静まり返った。

 外では風が鳴っている。

 秋津は頁を閉じた。

「面白くなってきました」

 またその言葉だった。

「嫌な予感しかしませんよ」

「私もです」

 珍しく秋津が同意した。

 そして蔵の奥を見つめる。

「この争い」

 静かに言う。

「神倉恒太の失踪と関係しているかもしれません」

 私は息を呑んだ。

 大天狗伝承。

 十峰山入峰録。

 神倉恒太。

 そして二百年前の導師争い。

 今まで別々に見えていたものが、ようやく一本の線で繋がり始めた気がした。


その夜。

 私は早々に諦めて布団へ入った。

 秋津が文庫蔵から借りてきた『導師継承覚書』を読み始めたからである。

 こうなると止まらない。

 どうせ夜更けまで読んでいる。

 付き合うだけ無駄だった。

 

 そして翌朝。

 目を覚ますと、予想通り秋津は起きていた。

 いや、正確には起きていたのではない。

 一睡もしていなかったらしい。

 机には文書が広げられている。

 湯呑みは空になり。

 部屋には紙と墨の匂いが漂っていた。

「折口君」

 秋津が顔を上げた。

「なんです」

「おかしいですね」

「またですか」

「ええ」

 秋津は開いた冊子を私へ向けた。

 細かな文字が並んでいる。

 その一節を指差す。


当時ノ評定、御影家ニ於テ行ハル


「それが何か」

「導師継承の評定ですよ」

「はい」

「にもかかわらず、肝心の経緯が書かれていない」

 私は頁を見た。

 確かにそうだった。

 蓮真が失脚し、

 道玄が導師になる。

 結果だけが書かれている。

 途中がない。

「抜けてるんですか」

「故意でしょうね」

 秋津は即答した。

「故意?」

「ええ」

 彼は頁をめくる。

「普通なら理由が書かれます」

「導師が交代するほどの大事件ですから」

「ですが、この文書は違う」

 秋津は静かに続けた。

「蓮真への批判は記録されている」

「道玄の就任も記録されている」

「しかし間にある肝心の部分だけが消えている」

 私は冊子を覗き込んだ。

 確かに妙だった。

「破れたんですかね」

「違います」

 秋津は首を振る。

「抜かれている」

「抜かれている?」

「意図的です」

 私は顔をしかめた。

「なんのために」

「それを確かめに行きます」

 秋津はそう言って別の箇所を指差した。

 欄外に小さな文字がある。

 昨夜は気付かなかった。


詳細ハ御影文庫ニ在リ


 私は思わず読み上げた。

「御影文庫」

「ええ」

 秋津は満足そうに頷く。

「ようやく見つけました」

「何をです」

「記録の続きをです」

 その目が危険だった。

 完全に何かを見つけた顔だった。

「峰雲院は当事者です」

 秋津が言う。

「神社は伝承を伝える側です」

「ですが御影家は違う」

「違う?」

「記録を残す側です」

 私は少し考えた。

 たしかにそうかもしれない。

 修験者ではない。

 神職でもない。

 だからこそ中立の立場で文書を書き残せる。

「つまり」

「導師継承の記録は御影家にある」

 秋津は立ち上がった。

「行きましょう」

「朝飯くらい食べさせてください」

「食べながらでも考えられます」

「私は考えたくありません」

 私の抗議は当然のように無視された。



第十一章 御影家



 朝食を済ませると、秋津は既に身支度を終えていた。

「折口君」

「なんです」

「御影家へ行きます」

「やっぱりですか」

「当然です」

 そう言って立ち上がる。

 私は味噌汁を飲み干した。

 この男にとって朝食とは調査開始までの待機時間らしい。

 峰雲院を出ると、秋の空気がひんやりとしていた。

 十峰村の朝は早い。

 畑へ向かう人。

 店を開ける人。

 川で洗濯をする人。

 村は既に動き始めていた。

 そんな集落を抜けた先。

 石垣に囲まれた大きな屋敷が見えてくる。

「ここです」

 案内してくれた康次が言った。

「御影家」

 私は思わず見上げた。

 神社とも違う。

 峰雲院とも違う。

 古い。

 とにかく古かった。

 この村そのものが形になったような屋敷だった。

 門をくぐると庭があり、その奥に母屋が建っている。

 しばらくして現れた老人は、想像していたより小柄だった。

 だが目だけは鋭い。

「御影重蔵です」

 老人は私たちをじっと見た。

「物集院先生ですな」

「はい」

 秋津が頭を下げる。

「神倉さんから話は伺っております」

 重蔵は無言で頷いた。

 そして座敷へ通された。

 世間話はほとんどなかった。

 秋津は湯飲みを置くなり切り込んだ。

「蓮真について教えてください」

 重蔵の動きが止まった。

 部屋の空気が変わる。

「……その名をどこで」

「峰雲院の文庫蔵です」

 秋津は『導師継承覚書』を取り出した。

 老人はしばらく黙っていた。

 やがて深く息を吐く。

「なるほど」

 そして冊子を受け取った。

 数頁めくり、再び閉じる。

「残っていましたか」

 小さく呟く。

「蓮真とはどのような人物だったのです」

 秋津が尋ねる。

 重蔵は遠くを見るような目になった。

「名僧でした」

 即答だった。

「本来、次の導師になるはずだった男です」

 私は少し驚いた。

 昨夜の文書だけではそこまで分からなかったからだ。

「そんなに優秀だったんですか」

「修行もできた」

「学問もできた」

「人望もあった」

 重蔵は一つずつ数えるように言う。

「当時の記録で蓮真を悪く書いたものは、ほとんどありません」

 秋津の目が細くなる。

「ではなぜ失脚したのです」

 重蔵は答えなかった。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて老人は口を開いた。

「道玄という男がおりました」

「弟弟子ですな?」

「そうです」

 重蔵が頷く。

「道玄もまた優れた人物でした」

 秋津は少し意外そうな顔をした。

 私も同じだった。

 てっきり悪役の名前かと思っていたのである。

「頭が良かった」

「実務もできた」

「人付き合いも上手かった」

「蓮真をよく支えていたそうです」

 聞けば聞くほど対立する理由がない。

 秋津も同じことを考えたらしい。

「では二人は良い関係だったのでは?」

「本来ならば」

 重蔵が呟く。

 その一言に不穏なものを感じた。

「何があったのです」

「噂です」

 老人は言った。

「噂?」

「蓮真は導師になるため根回しをしている」

「金を隠している」

「修験道を私物化するつもりだ」

 私は眉をひそめた。

「本当だったんですか」

「分かりませんな」

 重蔵は首を振る。

「証拠を見た者はいない」

「ですが噂だけは広がった」

 部屋が静かになる。

 秋津は何も言わない。

 だが考えていることは分かった。

「そして」

 重蔵は続ける。

「気が付けば蓮真は孤立していた」

「誰も信じなくなった」

「それで道玄が導師になった」

「そうだ」

 老人は頷いた。

「文書にはそう書かれている」

「文書には?」

 秋津が反応した。

「本当にそうだったのですか」

 重蔵はすぐには答えなかった。

 やがてゆっくり言う。

「誰も知らんよ」

「二百年前のことだ」

「皆死んでいる」

 その声には妙な重さがあった。

 まるで今でも真相が分からないかのように。

 秋津が静かに尋ねる。

「蓮真はどうなったのです」

 老人は窓の外を見る。

 十峰山の稜線が見えた。

「消えた」

「消えた?」

「山へ入ったまま戻らなかった」

 私は思わず身を乗り出した。

「死体は」

「見つかっておらん」

 その瞬間。

 昨日聞いた話が頭をよぎる。

 神倉恒太。

 山。

 失踪。

 そして大天狗。

「では大天狗伝承は」

 秋津が尋ねる。

 重蔵は頷いた。

「蓮真が消えてからだ」

 風が吹いた。

 庭の木々が揺れる。

「夜の山で法螺貝を聞いた」

「峰を歩く僧を見た」

「赤い目の天狗を見た」

「そんな話が広まった」

 老人は静かに続ける。

「やがて人々は言うようになった」

「蓮真は大天狗になったのだと」

 私は背筋が寒くなった。

 ただの怪談ではない。

 失踪した人間から生まれた伝承なのだ。

「先生」

 重蔵が不意に言った。

「お見せしたいものがあります」

 老人は立ち上がる。

 部屋の奥へ消えた。

 しばらくして長い木箱と小さな箱を抱えて戻ってきた。

「これは?」

 秋津が珍しく緊張した声を出した。

「蓮真の遺品として伝わるものです」

 重蔵はまず長い箱を床へ置いた。

 ゆっくり蓋を開く。

 中には一本の古い錫杖が納められていた。

 黒ずんだ木柄。

 青く変色した金具。

 輪は半ば欠けている。

 長い年月を感じさせる姿だった。

「これは……」

 秋津が身を乗り出す。

「修験者の錫杖ですか」

「そうです」

 重蔵は頷いた。

「蓮真が使っていたと伝わっている」

 秋津の目が輝く。

「折口君」

「はい」

「見てください」

「江戸後期の様式です」

「しかも山岳修験系ですね」

「たしかに何か雰囲気ありますね」

「貴重ですよ」

秋津は錫杖から目を離さない。

重蔵は少し苦笑していた。

「導師争いの後はどうなったんです」

 私が聞く。

 老人は錫杖へ目を落とした。

「誰も持ちたがらなかった」

「なぜです」

「縁起が悪いからでしょう」

 静かな声だった。

「蓮真を支持していた者もおった」

「だが皆黙った」

「そして錫杖だけが残った」

 重蔵はそう言って箱を閉じる。

 その音が妙に重かった。

 そして老人はもう一つの小箱を開いた。

「こちらも一緒に伝わった」

 中には古びた紙片が一枚だけ残されていた。

 墨はかすれ。

 端は破れている。

 ほとんど読めない。

 だが一行だけは残っていた。


信ずる者なくば

山のみ我を知る



 秋津は紙片を見つめていた。

「蓮真の言葉ですか」

 私が尋ねる。

 重蔵は首を振る。

「分かりません」

「だが昔からそう伝わっております」

 老人は少しだけ間を置く。

「錫杖と一緒に見つかったそうです」

 秋津は何も言わなかった。

 ただ紙片を見つめている。

 そして御影家を出た後。

 十峰山を見上げながら小さく呟いた。

「おかしいですね」

「何がです」

 私が聞く。

 秋津は山から目を離さなかった。

「蓮真が失脚した理由が分からない」

「道玄が導師になった理由も分からない」

「ですが」

 一度言葉を切る。

「誰もが噂だけは覚えている」

 風が吹いた。

 遠くの峰が霞む。

「折口君」

「はい」

「二百年前、この村では何かが起きています」

 その声には確信があった。

 そして私は思った。

 神倉恒太が追っていたものも、きっと同じなのだろうと。


 

第十二章 天狗隠し



 御影家からの帰り道だった。

 十峰山の峰々には薄い雲がかかっている。

 秋津は珍しく無口だった。

 頭の中で蓮真と道玄の話を整理しているのだろう。

 私はその横顔を見ながら歩いていた。

 その時だった。

 遠くから人の叫び声が聞こえた。

「おいっ!」

「誰か来てくれ!」

 山の方だった。

 続いて何人もの声が重なる。

 ただ事ではない。

 私と秋津は顔を見合わせた。

「折口君」

「ええ」

 二人同時に駆け出した。

 騒ぎは村外れの山道で起きていた。

 人垣ができている。

 木戸巡査の姿も見えた。

「巡査さん」

 私が声を掛ける。

 木戸は険しい顔で振り返った。

「来ない方が良かったんだがな」

 そう言いながら人垣を開ける。

 秋津も無言だった。


 その先。

 斜面の下に一人の男が倒れていた。

 着物は泥まみれ。

 顔色は青白い。

 そして。

 私は見覚えがあった。

「神倉……恒太さん」

 息が詰まる。

 神社で写真を見せられていた。

 間違いなかった。

 探していた失踪者だった。

 しばらくして美鈴と丈一郎も駆けつけてきた。

 美鈴の顔から血の気が失せる。

「恒太兄さん……」

 その声は震えていた。

 丈一郎は何も言わなかった。

 ただ静かに目を閉じる。

 老人が一瞬で十歳は老けたように見えた。

 木戸巡査が周囲を下がらせる。

「近付かないでください」

 村人たちはざわついていた。

「やっぱり大天狗だ」

「天狗隠しだ」

「御山へ入るから……」

 誰かがそう言う。

 そして誰も反論しなかった。

 ただ一人。

 秋津だけが違った。

 彼は黙って現場を見ていた。


 山道。


 折れた枝。


 地面の跡。


 恒太の着物。


 手。


 足。


 何一つ見逃すまいとしている。

「物集院先生」

 木戸が低い声で言った。

「どう思います」

「まだ分かりません」

 秋津はしゃがみ込む。

 そして。

 恒太の右手に視線が止まった。

「……」

 木戸も気付いたらしい。

「おかしいですね」

 秋津が呟く。

 私は近付いた。

「何がです」

「手です」

 恒太の指先は擦り傷だらけだった。

 まるで何かにしがみつこうとしたように。

 地面を掻いたようにも見える。

 秋津は静かに言った。

「転落死なら不自然ではありません」

「ですが」

「ですが?」

 秋津は立ち上がる。

 そして周囲を見渡した。

「ここへ自分で来たのでしょうか」

 木戸巡査の眉が動く。

「つまり」

「分かりません」

 秋津は首を振った。

「まだ何も」

 しかし私は知っている。

 こういう時の秋津は、

 何かを見つけている。

 やがて遺体は運ばれていった。

 村人たちも散り始める。

 誰もが口々に天狗の名を口にしていた。

 御山の祟り。

 大天狗の怒り。

 天狗隠し。

 まるで確定した事実のように。

 その中で、峰岸康造だけが静かだった。

「残念です」

 神妙な顔でそう言う。

「恒太君は良い人間でした」

 誰も異論を挟まない。

 久我も。

 隆玄も。

 村人たちも。

 皆同じことを思っているのだろう。

 しかし。

 峰雲院へ戻る途中だった。

 秋津が突然立ち止まる。

「折口君」

「なんです」

「天狗ではありませんね」

 私は思わず振り返った。

「もう分かるんですか」

「ええ」

 秋津は十峰山を見上げる。

 雲が低く垂れ込めていた。

「少なくとも怪異ではありません」

「なぜです」

「もし大天狗が攫ったのなら」

 秋津は静かに言った。

「わざわざ遺体を返す必要がありません」

 その言葉に私は息を呑んだ。

 たしかにそうだ。

 天狗隠しなら。

 神隠しなら。

 消えたままの方が伝承には自然である。

 秋津は続けた。

「それに」

「それに?」

「神倉恒太さんは入峰録を探していた」

「山へ入っていた」

「そして二百年前の記録に近付いていた」

 風が吹いた。

 杉が鳴る。

 まるで山そのものが耳を澄ませているようだった。

「折口君」

「はい」

「これは事故ではないかもしれません」

 秋津の声は静かだった。

 だが確信に近かった。

「誰かが黙っていてほしかった」

「そういう可能性があります」

 私は思わず十峰山を振り返った。


 大天狗。


 蓮真。


 道玄。


 十峰山入峰録。


 神倉恒太。


 今まで伝承だと思っていたものが、急に現実の事件へ変わり始めていた。

 そしてその瞬間。

 私たちの前から「天狗隠し」は消えた。

 代わりに現れたのは、もっと厄介なものだった。


 人間による殺人。


 十峰村の事件は、ここで初めて本当の姿を見せ始めたのである。



第十三章 揺れる十峰村



 神倉恒太の遺体が発見された翌日。

 十峰村は明らかに様子が変わっていた。

 朝から神社へ手を合わせる者がいる。

 商店の軒先では老人たちが囁き合っている。

 どこへ行っても話題は同じだった。

「天狗様の怒りじゃ」

「やはり御山へ入ったからだ」

「天狗隠しだったんだ」

 恒太の死は噂を確信へ変えてしまったらしい。

 昨日まで半信半疑だった者まで、大天狗の話を口にしている。

 私は何となく落ち着かない気分になった。

 一方で警察も動いていた。

 村外れの山道では木戸巡査が数人の応援警官と現場確認を続けている。

 物珍しそうに見ている村人を追い払う姿も見えた。

「思ったより本格的ですね」

 私が言うと、

「人が死んでいますから」

 秋津は当然のように答えた。

 昼頃。

 私たちは木戸巡査に呼ばれて役場へ向かった。

 臨時の捜査本部のようになっている。

 机の上には地図。

 山の見取り図。

 そして恒太の行動記録。

 木戸の顔は疲れていた。

「状況はどうなんです」

 私が訊ねる。

 木戸は腕を組んだ。

「正直に言います」

「お願いします」

「事故死の可能性が高い」

 秋津は何も言わない。

 木戸が続ける。

「山へ入った」

「足を滑らせた」

「斜面を転落した」

「筋は通る」

「では事件ではないと?」

 私が聞く。

 木戸はしばらく黙った。

 そして首を横へ振る。

「だが妙な点がある」

 秋津の視線が上がる。

「どのような」

「荷物です」

 木戸が答えた。

「恒太さんが持っていた鞄が見つかっていない」

 私は眉をひそめた。

「鞄?」

「神社の人によれば、調査道具や資料を入れていたらしい」

「ですが現場周辺に無かった」

 秋津が静かに言う。

「探したのですか」

「徹底的にな」

 木戸は苛立ったように答える。

「だが見つからない」

 私は思わず秋津を見る。

 秋津も同じことを考えているらしかった。

 恒太は入峰録を調べていた。

 その資料が消えている。

 偶然なのだろうか。

「さらに」

 木戸が続ける。

「発見場所もおかしい」

「おかしい?」

「恒太さんはかなり上まで登っていたらしい」

「だが遺体が見つかった場所は中腹だ」

 木戸は地図へ指を置く。

「移動した可能性もある」

 部屋が静まり返った。

「つまり」

 秋津が言う。

「誰かが運んだ可能性もあると」

「まだそこまでは言わん」

 木戸は即答した。

「だが事故で全部説明出来る訳でもない」

 それが警察の現時点の結論らしい。

 その後。

 役場では村の代表者を集めた会合が開かれた。

 久我村長。

 峰岸隆玄。

 神倉丈一郎。

 商工会の人々。

 そして峰岸康造。

「御山への立ち入りを制限すべきです」

 隆玄が言う。

「これ以上犠牲者を出すわけにはいかん」

「観光客まで止める気か」

 久我が反論する。

「村の経済がどうなる」

「経済より命だ」

「極論だな」

 再び空気が張り詰めた。

「お二人とも」

 そこで康造が口を開く。

 穏やかな声だった。

「今は争っている場合ではありません」

 村人たちが静まる。

 康造は続けた。

「恒太君の件が片付いてからでも遅くないでしょう」

「今は村全体で協力すべきです」

 久我も黙る。

 隆玄も黙る。

 やはり康造の言葉には力があった。

 会議が終わった後。

 私たちは康造と並んで歩いた。

「大変ですね」

 私が言う。

「皆さんあなたを頼っています」

 康造は苦笑した。

「そうでしょうか」

「そう見えます」

「今は誰かがまとめなければなりませんから」

 そう言って十峰山を見る。

「久我さんも歳です」

「神倉さんは神社を守る立場です」

「隆玄さんは伝統を守る人です」

 そこで言葉が止まった。

 ほんの一瞬だけだった。

 だが何かを言いかけたようにも見えた。

「その先は?」

 私が訊ねる。

 康造は少し笑う。

「いえ」

「独り言ですよ」

 別れた後。

 秋津はしばらく無言だった。

「どうしました」

 私が聞く。

「警察も動いていますね」

 秋津が言う。

「それは良いことでは」

「ええ」

 そして少し考えてから続ける。

「ただ、木戸巡査が言っていた鞄が気になります」

「資料の入った鞄ですか」

「はい」

 秋津は頷いた。

「もし事故なら見つかるはずです」

「ですが無い」

「つまり?」

 秋津は十峰山を見上げた。

「誰かが持ち去った可能性があります」

 風が吹く。

 山の稜線は薄く霞んでいた。

「折口君」

「はい」

「警察は事故を疑っている」

「村人は天狗を疑っている」

 そして小さく付け加える。

「私は人間を疑っています」

 その声を聞いた時だった。

 初めて私はこの事件が本当に殺人かもしれないと思ったのである。



第十四章 蓮真の足跡



 神倉恒太の葬儀から二日後。

 峰雲院の文庫蔵は、すっかり秋津の根城になっていた。

 朝から晩まで蔵に籠もり、

 山帳を読む。

 修験帳を読む。

 古地図を広げる。

 そして何やら紙へ書き写している。

 私は縁側へ座りながらため息をついた。

「秋津」

「なんでしょう」

「温泉旅行じゃなかったんですか」

「最初から違います」

 即答だった。

 私は諦めて湯飲みを傾ける。

 すると康次が苦笑した。

「先生、三日目ですからね」

「まだ続くんですか」

「むしろこれからでしょう」

 その日の午後だった。

 秋津が蔵の奥から声を上げた。

「ありました」

 私は驚いて振り返る。

「入峰録ですか」

「違います」

 少し残念そうだった。

「ですが面白い」

「その台詞を聞くたび不安になるんですが」

 秋津は気にせず帳面を差し出した。

 古びた山帳だった。

 表紙には、


『十峰山入山記』


 と書かれている。

「見てください」

 秋津が頁を開く。

 達筆な文字が並んでいた。


文政二年九月

御堂谷ニ至ル

古庵有リ


「古庵ですね」

「ええ」

 秋津は頷く。

「最初はそれだけでした」

「最初は?」

「別の記録も出てきました」

 今度は修験帳を取り出す。

 こちらは峰雲院の修験者が残したものらしい。

 秋津は一節を指差した。


山上小庵ニテ

蓮真僧ニ似タル者ヲ見ル


 私は目を瞬いた。

「蓮真?」

「そうです」

 秋津の目が輝く。

「蓮真失踪後の記録ですよ」

 言われてみればそうだった。

 二百年前。

 蓮真は山へ消えた。

 それなのに目撃記録がある。

「生きていた?」

「少なくとも書いた人物はそう思ったのでしょう」

 秋津は答えた。

 そして机へ何枚もの紙を並べる。

 山帳。

 修験帳。

 峰雲院の古記録。

 御影家から写してきた文書。

 まるでパズルだった。

「折口君」

「なんです」

「おかしいですね」

「またですか」

「ええ」

 秋津は一枚の紙を指差した。

 それは御影家で書き写した記録だった。


蓮真

御堂谷ノ庵ニ住スト云フ


 私は声を上げた。

「また庵ですか」

「ええ」

「これで三件目です」

 秋津は紙を並べる。

 そして一本の線で結んだ。

「全部同じ場所を指しています」

「御堂谷」

「御堂谷」

「御堂谷」

 私は少しずつ理解し始めていた。

「つまり」

「庵があった?」

「その可能性が高い」

 秋津は頷いた。

「しかも蓮真と関係がある」

 その時だった。

 康次が首を傾げる。

「御堂谷なんて今は誰も行きませんよ」

「なぜです」

「道が消えてますから」

「消えている?」

「昔の修験道の道です」

 康次は山を指差した。

「あの辺です」

 深い森が見える。

 人など住んでいそうにない場所だった。

 しばらく秋津は黙り込む。

 そして突然立ち上がった。

「古地図です」

「はい?」

「古地図を見せてください」

 康次が苦笑する。

「先生らしいなあ」

 三十分後。

 文庫蔵の机には大きな山図が広げられていた。

 江戸後期のものらしい。


 峰々。

 修験道の道。

 滝場。

 行場。


 細かな文字がびっしり書き込まれている。

「あった」

 秋津が呟いた。

 私は思わず身を乗り出した。

「何です」

 秋津の指先が一点を示していた。

 そこには小さく、


観心庵


 と記されている。

「観心庵?」

「庵の名前でしょう」

 秋津は静かに言った。

「そして位置も一致する」

 山帳。

 修験帳。

 御影家文書。

 古地図。

 四つの資料が一点を指していた。

 私は寒気を覚えた。

「まさか」

「ええ」

 秋津は頷いた。

「蓮真の庵です」

 部屋が静まり返る。

 外では風が吹いている。

 十峰山の木々が揺れていた。

「待ってください」

 私は言った。

「だとすると」

「神倉恒太さんも」

「その可能性があります」

 秋津は即答した。

「恒太さんは蓮真を追っていた」

「導師争いを調べていた」

「そして失踪した」

 さらに机へ一枚の地図を置く。

 木戸巡査から借りた捜索図だった。

 恒太の遺体発見地点が記されている。

 秋津は二つを見比べた。


 古地図。


 捜索図。


 そして小さく笑った。

 笑顔だった。

 何かを見つけた時の顔である。

「なるほど」

「何です」

「近い」

「何がです」

「観心庵と遺体発見場所です」

 私も地図を覗き込む。

 たしかに近かった。

 驚くほど近い。

「折口君」

 秋津は静かに言った。

「神倉恒太さんは御堂谷へ入った」

「蓮真の足跡を追って」

「そして何かを見つけた」

 私は息を呑む。

 文庫蔵の空気が急に重くなった気がした。

「入峰録ですか」

 私が尋ねる。

 秋津は少しだけ笑った。

「分かりません」

「ですが」

 その視線は十峰山へ向けられていた。

「我々も御堂谷へ行く必要がありそうです」

 二百年前に蓮真が隠れた場所。

 神倉恒太が最後に向かった場所。

 そして、おそらく失われた十峰山入峰録にもっとも近い場所。

 観心庵。

 その名は、静かに姿を現したのである。



第十五章 御堂谷



 神倉恒太の鞄が見つかったのは、その翌日だった。

 発見したのは捜索に参加していた青年団の若者である。

 御堂谷へ続く獣道の脇。

 倒木の裏に押し込まれるように隠されていたという。

 中身は濡れていたが無事だった。


 手帳。


 鉛筆。


 地図。


 そして数枚の走り書き。

 それを読み終えた秋津は、しばらく黙り込んでいた。

「恐らく犯人に追い詰められとっさに隠したんでしょう。内容はどうでした?」

 木戸巡査が尋ねる。

「面白いですね」

 秋津が言う。

「やはり御堂谷です」

 木戸巡査も同じらしい。

 露骨に顔をしかめている。

「本当に行くつもりか」

「恒太さんの足取りを確認する必要があります」

 秋津は答えた。

「彼は何かを見つけています」

「根拠は」

 木戸が訊く。

 秋津は手帳を開いた。

 そして一行を指差す。


観心庵確認


 それだけだった。

 だが部屋は静まり返る。

「観心庵……」

 康次が呟く。

「古地図の」

「ええ」

 秋津は頷いた。

「神倉恒太さんは実際に辿り着いています」

 木戸巡査がため息をつく。

「つまり山へ入るのか」

「はい」

「危険だぞ」

「でしょうね」

 秋津は少しだけ笑った。

 こういう顔の時は絶対に止まらない。

 私はもう知っている。


 二日後。

 私たちは御堂谷へ向かった。

 同行者は四人。

 秋津。

 私。

 木戸巡査。

 そして案内役として康次。

 朝霧の残る十峰山は静かだった。

 だが近付くほど空気が変わる。

 人の世界から離れていく感覚だった。

「昔は道があったんです」

 康次が先頭を歩きながら言う。

「修験者が使っていた道です」

「今は?」

「百年以上誰も整備してません」

 だからか。

 踏み跡はほとんど消えていた。

 木の根が盛り上がり。

 岩が転がり。

 枝が行く手を塞ぐ。

 山道というより獣道だった。

 一時間ほど登った頃だった。

 木戸巡査が立ち止まる。

「待て」

 地面を見ている。

「どうしました」

「足を滑らせた跡だ」

 斜面へ視線を向ける。

 土が崩れている。

「恒太さんかもしれませんね」

 私が言う。

「いや」

 秋津が首を振った。

「新しい」

「え?」

「数日以内でしょう」

 木戸も頷いた。

「その可能性はある」

 山の空気が急に重くなった。

 自分たち以外にも誰かが入ったかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎる。

 さらに進む。

 谷は深くなる。

 川音が聞こえる。

 木々は空を覆い隠し、昼だというのに薄暗かった。

「まるで別世界ですね」

 私が言う。

 康次が苦笑する。

「だから昔の人は異界だと思ったんでしょう」

 その時だった。

 前を歩く秋津が立ち止まる。

「ありました」

 声が弾んでいる。

 岩陰に石仏があった。

 苔だらけになっている。

 だが人の手で作られたものだ。

「修験道の道標です」

 秋津が嬉しそうに言う。

「ほら」

 石の側面を指差した。

 掠れた文字が見える。


観心庵


 私は思わず息を呑んだ。

 本当にあったのだ。

 秋津は完全に元気になっている。

 登山中とは思えない勢いで周囲を調べ始めた。

「折口君」

「なんでしょう」

「良いですね」

「またですか」

「ええ」

 秋津は笑う。

「二百年前の修験者と同じ道を歩いているのですよ」

「私は今にも滑落しそうですが」

「それも含めて貴重な経験です」

「絶対違います」

 さらに奥へ進む。

 谷は狭くなり、

 木々は濃くなり、

 人の気配は消えていく。

 やがて。

 康次が足を止めた。

「先生」

「ええ」

「見えてきました」

 木々の向こう。

 崩れかけた屋根が見えた。

 私は目を凝らす。

 最初は岩だと思った。

 だが違う。

 建物だった。

 古い。

 とてつもなく古い。

 森に飲み込まれかけた小さな庵。

 秋津が小さく息を吐く。

 珍しく感情の混じった声だった。

「観心庵」

 私はその姿を見上げる。

 二百年前。

 蓮真がいたかもしれない場所。

 神倉恒太が最後に辿り着いた場所。

 そしておそらく。

 失われた十峰山入峰録へ最も近い場所だった。

 十峰山の風が木々を揺らした。

 まるで誰かが、私たちを待っていたかのように。



第十六章 観心庵



 観心庵の探索は半日以上続いた。

 庵は想像以上に荒れ果てていた。

 屋根は崩れ。

 畳は朽ち。

 壁には蔦が絡み付いている。

 二百年という歳月が、そのまま積み重なっているようだった。

 秋津は黙々と調べている。

 床下。

 天井裏。

 崩れた仏壇。

 壁板の裏。

 私から見れば瓦礫の山にしか見えなかったが、秋津にとっては宝の山らしい。

 やがて。

「折口君」

 低い声が聞こえた。

「ありました」

 私は振り返った。

 秋津は仏壇の奥から細長い木箱を引き出していた。

 布で包まれている。

 慎重に紐を解く。

 長い沈黙。

 そして。

 古びた一冊の和綴じ本が姿を現した。

 秋津の指が僅かに震える。

 表紙には墨で題が書かれていた。


十峰山入峰録


 誰も言葉を発しなかった。

 風だけが庵の隙間を吹き抜けていく。

「本当にあったんですね」

 私がようやく言う。

「ええ」

 秋津は小さく頷いた。

「神倉恒太さんの勝ちです」

 庵を出た頃には夕暮れが近付いていた。

 木戸巡査は先に下山している。

 私と秋津だけが山道を歩いていた。

 風が吹く。

 十峰山の峰々は夕暮れに沈み始めていた。

 しばらく二人で歩く。

 私は木戸巡査の話を思い返していた。


 事故か。


 殺人か。


 大天狗か。


 頭の中でまとまらない。

 だが考えてみる。

 恒太は失踪した。

 山へ入った。

 そして死体が見つかった。

 その間に何があったのか。

 しばらく歩いてから私は言った。

「変なんですよね」

「何がです」

「皆、大天狗の話ばかりするでしょう」

「ええ」

「でも恒太さん本人の話をしている人が少ない気がするんです」

 秋津が足を止めた。

 私は慌てて続ける。

「いや、大した意味じゃないですよ」

「続けてください」

 声が真面目だった。

「例えば」

 私は考えながら言う。

「蓮真の話もそうです」

「はい」

「皆、大天狗になったとか」

「山に消えたとか」

「そういう話は覚えている」

「でも蓮真本人がどんな人だったかは誰も知らない」

 秋津は無言だった。

 私は続ける。

「恒太さんも同じです」

「大天狗を見たらしい」

「山へ入ったらしい」

「でも何を見つけたのかは誰も話さない」

 そこまで言った時だった。

 秋津がゆっくり振り返る。

 表情が変わっていた。

 何かを掴んだ顔だった。

「なるほど」

「え?」

「折口君」

 秋津の声が低くなる。

「それです」

「何がです」

「我々は順番を間違えていました」

 私は意味が分からない。

 秋津は早口になっていた。

 考えが繋がり始めている時の癖である。

「村人は結果しか語らない」

「結果?」

「蓮真は天狗になった」

「恒太は天狗に攫われた」

「そういう話です」

 秋津は言った。

「ですが肝心の過程が無い」

 私は立ち尽くす。

 それは昨夜の『導師継承覚書』と同じだった。

 蓮真失脚。

 道玄就任。

 結果だけ。

 途中がない。

「そうか……」

 私も少し分かり始めた。

「皆、途中を知らないんですね」

「違います」

 秋津は首を振った。

「知らないのではない」

 一瞬の沈黙。

 そして静かに言う。

「誰かが途中を消したのです」

 私は息を呑んだ。

「二百年前も」

 秋津は十峰山を見る。

「今も」

 風が吹いた。

 山の奥で鳥が鳴いた。

「神倉恒太さんは」

 秋津が続ける。

「消された途中を探していた」

「蓮真についても」

「道玄についても」

「そして十峰山入峰録についても」

 秋津は脇に抱えた入峰録を軽く叩いた。

「この記録には残っています」

「二百年前に本当に起きたことが」

「そして」

 そこで秋津は小さく笑った。

 あの笑顔だった。

 古文書の謎が一段深くなった時の顔である。

「ありがとうございます」

「何がです」

「今の一言でだいぶ整理できました」

「私は何もしてませんよ」

「いえ」

 秋津は断言した。

「折口君は時々、大事なところを見つけます」

 そう言って再び歩き始めた。

 その背中を見ながら、私は予感を覚えていた。

 秋津の中で何かが繋がったのだ。

 そしてその時の予感は、大抵当たるのである。



第十七章 十峰山入峰録



 その夜。

 峰雲院の一室には明かりが灯り続けていた。

 机の上には『十峰山入峰録』。

 二百年の時を超えて発見された修験者たちの記録である。

 秋津は最初の頁から最後まで、一言一句を逃すまいと読んでいた。

 私は途中で茶を淹れ、二度ほど眠気と戦い、そして諦めた。

 この男は今夜眠らない。

 そういう顔をしていた。

 やがて深夜。

 秋津が静かに頁を閉じた。

「折口君」

「分かったんですか」

「ええ」

 その声には興奮よりも疲労が滲んでいた。

 長い謎がようやく解けた時の声だった。

「蓮真は無実です」

 私は息を呑んだ。

 予想していた。

 だがはっきり言われると重みが違う。

 秋津は入峰録を開く。

 数頁をめくった。

 そこには蓮真自身の記録が残されていた。


衆徒ノ中ニ我ヲ疑フ者増エタリ


理ヲ説クモ聞キ入レズ


誰ガ斯様ノ噂ヲ流スヤ知レズ


「噂だったんですね」

「ええ」

 秋津は頷く。

「蓮真は何もしていない」

「少なくとも入峰録にある限りでは」

 さらに先を読む。


道玄、近頃衆徒ト密議ス


我ニ告ゲズ事ヲ決ムルコト多シ


「道玄」

 私が呟く。

「思った以上に早く動いていたんですね」

「そうでしょう」

 秋津は言う。

「そして最終的に蓮真は孤立します」

 入峰録の記述はそこで急に痛々しくなる。


誰モ信ゼズ


誰モ耳貸サズ


只御山ノミ変ワラズ


 私は言葉を失った。

 これは歴史記録ではない。

 追い詰められた一人の人間の日記だった。

「導師継承覚書は結果しか残していませんでした」

 秋津が言う。

「しかし入峰録は違う」

「過程が残っている」

 蓮真は徐々に地位を失った。

 評判を失った。

 仲間を失った。

 そして。

 導師の座を失った。

 その代わりに選ばれたのが道玄だった。

「やはり裏切りですか」

 私が訊ねる。

 秋津は静かに頷いた。

「ええ」

「道玄は噂を利用した」

「直接攻撃したわけではない」

「人に疑わせたのです」

 私は思わず康造の顔を思い浮かべた。

 なんとなく似ている。

 あまりにも。

 秋津はさらに頁をめくった。

「ですが」

「ですが?」

「ここからが本題です」

 私は首を傾げた。

 蓮真が失脚した。

 道玄が導師になった。

 それで終わりではないのか。

 しかし違った。

 道玄が導師になった後の記録が残っていたのである。


道玄殿近頃人ヲ寄セズ


夜毎見廻リヲ命ズ


同門ヲ疑フコト多シ


「疑ってる」

 私が言う。

「ええ」

 秋津は頷いた。

「地位を手に入れた後です」


 さらに続く。


密告絶エズ


追放サレル者相次グ


山内騒然


「これは……」

「疑心暗鬼です」

 秋津は即答した。

「道玄は周囲を信用出来なくなった」

 蓮真を引きずり下ろした方法。

 噂。

 疑い。

 不信。

 それを利用した人間は、

 最終的にその毒に蝕まれる。

「皮肉ですね」

 私は呟く。

 秋津は最後の数頁を開いた。

 そこには掠れた筆跡でこう記されていた。


道玄夜半ニ山ヲ歩ク


法螺貝ノ音聞コユ


人々近寄ラズ


山ノ天狗ト噂サル


「これが」

 私は言った。

「大天狗伝承の始まりですか」

「そうでしょう」

 秋津は静かに答えた。

 蓮真ではなかった。

 山に消えた蓮真が天狗になったのではない。

 本当に天狗になったのは。

 道玄だった。

 自ら疑いを振り撒き。

 人を信用せず。

 人からも信用されなくなった男。

 その姿がやがて。

 十峰村で語られる大天狗へ変わったのである。

 私はしばらく考え込んだ。

 そして小さく言う。

「秋津」

「なんでしょう」

「これって」

「はい」

「康造のことじゃないですか」

 秋津は答えなかった。

 ただ静かに入峰録を閉じる。

 その沈黙だけで十分だった。

 二百年前。

 蓮真から地位を奪った道玄。

 そして現代。

 対立する村人たちの間を行き来しながら、誰よりも信頼を集めている峰岸康造。

 あまりにもよく似ていた。

 秋津は窓の外を見た。

 夜の十峰山が闇の中に浮かんでいる。

「折口君」

「はい」

「ようやく見えてきました」

「何がです」

 秋津は静かに言った。

「神倉恒太さんが見つけたものです」

 その声には確信があった。

 そして私は悟った。

 この事件はもう終わりに近付いている。

 残るのはただ一つ。

 なぜ峰岸康造は神倉恒太を殺したのか。

 その答えだけだった。



第十八章 大天狗



 その夜。

 峰雲院の広間には村の主だった者たちが集められていた。

 久我義雄。

 峰岸隆玄。

 神倉丈一郎。

 木戸巡査。

 美鈴。

 康次。

 梓。

 そして峰岸康造。

 誰もが緊張した面持ちだった。

 神倉恒太の死。

 十峰山入峰録の発見。

 ついに事件が終わろうとしていた。

「物集院先生」

 木戸巡査が言う。

「説明していただけますか」

 秋津は静かに頷いた。

「承知しました」

 そして十峰山入峰録を机に置く。

「まず結論から申し上げます」

 部屋が静まり返る。

「神倉恒太さんは殺害されました」

 ざわめきが広がった。

 だが秋津は続ける。

「そして犯人は、この村の人間です」

 康造は黙っていた。

 表情は変わらない。

 穏やかなままだった。

「神倉恒太さんは十峰山入峰録を発見しました」

 秋津が言う。

「二百年前の導師争いの真相」

「蓮真失脚の真実」

「道玄の裏切り」

 その全てを知ったのです」

 秋津はゆっくり康造を見る。

「そして現代の十峰村で、道玄と同じことをしている人物に気付いた」

 誰も声を出さない。

「峰岸康造さん」

 康造だけは淡く笑った。

「私ですか」

「ええ」

 秋津は即答する。

「あなたです」

 木戸巡査の視線が鋭くなる。

 だが康造は慌てなかった。

 まるで予想していたようだった。

「理由を伺っても?」

 康造は穏やかに言った。

 まるで他人事のようだった。

 秋津はしばらく彼を見つめていた。

 そして静かに歩き出す。

 部屋の中央。

 十峰山入峰録の傍。

 秋津は指先で頁をめくった。

「康造さん」

「はい」

「あなたは調整役ではありませんでした」

 康造の眉がわずかに動く。

 秋津は構わず続けた。

「久我さんは言いました」

『康造君が隆玄殿を説得してくれている』

「隆玄さんは言いました」

『康造が村長を抑えてくれている』

 秋津は顔を上げた。

「ですから私は確かめました」

 久我と隆玄を見る。

「しかし事実は違った」

「双方とも同じことを仰っていたのです」

 久我が顔をしかめる。

 隆玄がゆっくり顔を上げた。

「待て」

「では康造は……」

「何もしていなかった」

 秋津は言った。

「少なくとも仲介はしていません」

 部屋に重苦しい沈黙が落ちた。

 私は康造を見た。

 穏やかな笑み。

 だがそれが初めて作られた笑顔に見えた。

「それが何か問題ですか」

 康造が言う。

「村はまとまっていなかった」

「誰も譲らない」

「誰も変わろうとしない」

 美鈴が悲しそうな顔をした。

 康次は信じられないものを見るように康造を見つめている。

 子供の頃から慕ってきた相手だった。

 梓は黙って俯いていた。

「だから私が動いた」

「村のために?」

 秋津が訊く。

「そうです」

 即答だった。

 だが秋津は首を振る。

「違います」

 静かな声だった。

 それなのに妙に響いた。

「あなたは村のために動いたのではない」

「あなた自身のために動いた」

 康造の目が細くなる。

「では何のためだと」

 秋津は答えない。

 代わりに部屋の人々を見る。

「久我さん」

「はい」

「あなたは康造さんをどう思っていました」

「……次の村長になれる男だと」

 久我が答えた。

「隆玄さんは」

「峰岸家を任せられる男だと思っていた」

「神倉さんは」

 丈一郎は重く答えた。

「恒太の後を支える人間だと」

 秋津は一つ頷く。

「皆さん期待していたのです」

「ですが」

「康造さんは期待されたかっただけだ」

 康造の笑みが消える。

 初めてだった。

 仮面が剥がれ落ちる音がした気がした。

「神倉恒太さんは気付いてしまった」

 秋津は入峰録へ目を落とした。

「二百年前」

「道玄は蓮真を裏切った」

「導師の座を得るためです」

 頁を閉じる。

「しかし」

「得た後で幸福になったでしょうか」

 誰も答えない。

「違います」

「彼は疑い始めた」

「弟子を」

「友を」

「仲間を」

「次は自分が裏切られるのではないか」

 そう思い続けた。

 山の闇を恐れるように。

 己の影を恐れるように。

 私はふと十峰山を思い出した。

 霧の向こうの黒い峰。

 法螺貝の音。

 誰も近づかない奥山。

 あれはまるで。

 疑いそのものだった。

 秋津が康造を見る。

「あなたも同じです」

 部屋の空気が止まった。

「あなたは久我さんを利用した」

「隆玄さんを利用した」

「神倉さんを利用した」

「そして恒太さんを殺した」

「全て自分の立場を守るために」

「違う!」

 康造が叫んだ。

 全員が震える。

 今まで誰も聞いたことのない声だった。

「違う!」

「恒太が黙っていれば良かったんだ!」

 その言葉に。

 康次が顔を歪めた。

「康造さん……」

 声が震えていた。

 憧れていた人だった。

 尊敬していた人だった。

「恒太は気付きました」

 秋津は静かに言う。

「あなたが誰の味方でもないことに」

「違う!」

「いいえ」

 秋津は一歩前へ出た。

「あなたは誰の味方でもなかった」

「久我さんにも」

「峰雲院にも」

「神社にも」

「そして」

 少し間を置く。

「あなた自身にも」

 康造が息を呑んだ。

「権力が欲しかった」

「地位が欲しかった」

「皆から必要とされたかった」

「ですが」

 秋津はゆっくり言う。

「あなたは誰も信じなかった」

 窓の外で風が鳴った。

 木々がざわめく。

 まるで法螺貝の響きのように。

「大天狗とは何だったのでしょう」

 秋津は十峰山を見る。

「蓮真を裏切った道玄か」

「その怨念か」

「山に潜む怪異か」

 そして首を振った。

「違います」

「大天狗とは」

「人を信じることができなくなった人間です」

 康造が立ち尽くしていた。

 その顔は、もはや調整役のものではない。

 誰からも期待され。

 誰からも信頼され。

 それでも誰一人信じられなかった男の顔だった。

「道玄は導師になった」

「しかし孤独になった」

「あなたも同じです」

 秋津の声は静かだった。

「峰岸康造さん」

「あなたは二百年前から続く大天狗になったのです」

 誰も声を出さなかった。

 久我も。

 隆玄も。

 丈一郎も。

 ただ康造だけが立ち尽くしていた。

 まるで御山のどこかで二百年間さまよい続けていた道玄の亡霊が、その瞬間だけ現代に姿を現したかのようだった。



第十九章 山の向こう



 峰岸康造が連行された翌日。

 十峰村は静かだった。

 騒ぎが終わったからではない。

 あまりにも大きすぎて、誰も何を言えばよいのか分からなかったのである。

 村長の久我は役場へ籠もっていた。

 商工会の人々もどこか精彩を欠いている。

 峰雲院も同じだった。

 隆玄は以前より口数が少なくなり、

 康次もまた複雑な顔をしていた。

 当然だろう。

 最も信頼していた人間が犯人だったのだから。

 その日の午後。

 私と秋津は峰雲院の縁側に座っていた。

 十峰山が見える。

 いつもと変わらぬ山だった。

 だが、私には少し違って見えた。

「静かですね」

 私が言う。

「ええ」

 秋津も頷いた。

 しばらくして康次がやってきた。

 手には茶托を持っている。

「失礼します」

 そう言って私たちの前へ腰を下ろした。

「父から伝言です」

「なんでしょう」

「ありがとうございました」

 私は少し驚いた。

 秋津は静かに頭を下げる。

「礼を言われるようなことではありません」

「それでもです」

 康次は苦笑した。

「知らなかった方が幸せだったのかもしれません」

 その言葉に私は返答できなかった。

「ですが」

 康次は十峰山を見る。

「知らなければ前へ進めなかった」

 秋津は小さく頷いた。

「そうですね」

 しばらく沈黙。

「神倉さんも来られています」

 康次が言う。


 夕方。

 私たちは十峰神社を訪れた。

 境内には丈一郎と美鈴の姿があった。

 丈一郎は以前より少しだけ老けたように見えた。

 しかし表情は穏やかだった。

「恒太も喜ぶでしょう」

 老人は言った。

「真実が明らかになったことです」

 秋津は答えない。

 代わりに小さく頭を下げた。

「入峰録も見つかりました」

 美鈴が言う。

「兄さんが守ったんですね」

「そうでしょう」

 秋津は静かに答えた。

 美鈴は少し笑った。

 そして空を見上げる。

「兄さんらしいです」

 それが何よりの言葉だった。

 その後。

 御影重蔵もまた入峰録を確認した。

「ようやく終わったか」

 老人はそう呟いたという。

 二百年間続いた誤解。

 蓮真の汚名。

 道玄にまつわる真実。

 それらがようやく記録として整理されることになった。

 数日後。

 入峰録は御影家と神社、峰雲院の三者立ち会いのもと保管されることが決まった。

 誰か一人ではなく。

 皆で守る。

 それが丈一郎の提案だった。

 誰も反対しなかった。

 



終章 天狗の湯



 帰京を明日に控えた夜。

 私は一人で天狗の湯へ向かっていた。

 峰雲院はすっかり静かになっている。

 神倉恒太の事件は終わった。

 峰岸康造もいない。

 それでも十峰村の夜は変わらず静かだった。

 露天風呂には誰もいなかった。

 湯気の向こうに十峰山が見える。

 月明かりを受けた峰々は黒く沈み、その姿は昼間よりもずっと大きく見えた。

 私は湯へ身を沈める。

 旅の疲れがゆっくりと溶けていく。

「良い湯ですね」

 声がした。

 振り向くと秋津がいた。

 いつの間に入ってきたのだろう。

「先生も温泉に入るんですね」

「失礼な」

「文庫蔵で寝る人ですから」

「一度も寝ていません」

「余計悪いです」

 秋津は小さく笑った。

 珍しいことだった。

 しばらく二人で山を眺める。

 風が吹く。

 木々が揺れる。

 遠くで鳥の声が響いた。

「終わりましたね」

 私が言う。

「ええ」

 秋津も頷いた。

「蓮真の汚名も晴れた」

「入峰録も見つかった」

「恒太さんの死の理由も分かった」

 すべて終わった。

 はずだった。

 だが秋津は十峰山を見ている。

 どこか考え込んでいるようだった。

「何か気になりますか」

「いえ」

 秋津は首を振る。

「ただ」

「ただ?」

「人は記録を消します」

 静かな声だった。

「都合の悪いことを隠し」

「真実を書き換える」

「ですが」

 秋津は山を見る。

「必ず誰かが残す」

「蓮真のように」

「恒太さんのように」

 その言葉を聞きながら、私は湯に身を沈めた。

 なるほど。

 だからこの人は古文書ばかり読んでいるのかもしれない。

 人が嘘をついても。

 誰かが真実を残してくれると信じているから。

 そんなことを考えていると秋津が言った。

「折口君」

「なんです」

「帰ったら書いてください」

「またですか」

「ええ」

 私は苦笑した。

「今回は長くなりそうですよ」

「短くすると怒ります」

「誰がです」

「私が」

 まったく困った民俗学者だった。


帰京の日。

 峰雲院の玄関には多くの人が集まっていた。

 隆玄。

 康次。

 梓。

 美鈴。

 丈一郎。

 木戸巡査まで来ている。

「また来てください」

 美鈴が言う。

「事件が無ければ良いんですが」

 私が答えると、

 木戸巡査が苦笑した。

「私も同感です」

 秋津だけが真面目な顔をしていた。

「資料はまだ残っています」

「先生らしいなあ」

 康次が笑う。

 皆が笑った。

 最後に振り返る。

 

 重厚な山門。

 黒い杉板の壁。

 中庭。

 文庫蔵。

 そして十峰山。


 峰雲院は、もう単なる宿坊ではなかった。


 今回の事件そのものを見守っていた場所だった。

 汽車へ乗り込む。

 奈良の山々が少しずつ遠ざかっていく。

 数時間後。

 見慣れた東京の街並み。

 そして。

 一葉館。

「帰りました」

 玄関を開ける。

 綾乃が振り返った。

「お帰りなさい」

 その一言で、ようやく事件が終わった気がした。

 秋津は荷物を置くなり言う。

「折口君」

「なんです」

「入峰録の写しを整理します」

「休んでください」

「時間がありません」

「何に追われてるんです」

「歴史です」

 そう言い残し、秋津は書斎へ消えていった。

 私は思わず笑う。

 十峰村の大天狗。

 神倉恒太。

 蓮真。

 道玄。

 そして峰岸康造。

 様々な人々の顔が頭を過ぎった。

 だが今は。

 一葉館の静かな空気が心地良かった。

 私は荷物を置き、窓の外を見た。

 遠くの山々は見えない。

 それでもふと思う。

 十峰山には、もう大天狗はいない。

 だが二百年の間埋もれていた真実だけは、確かに山の向こうから戻ってきたのだった。


 






秋津と折口の事件簿をお読みいただきありがとうございました!感想を簡単でももらえるとうれしいです。



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