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白一色の空間に、嗚咽だけが反響していた。 目の前の少女は、両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いている。
その姿を見て、私の胸に去来したのは、同情よりも先に「既視感」だった。 記者時代、幾度となく目にしてきた光景だ。 権力に踏みにじられた者。 法では裁けない理不尽に晒された者。 警察も行政も見て見ぬふりを決め込み、社会的に抹殺された後に残る、逃げ場のない慟哭。
(……ああ、やっぱりここは私の戦場
私は静かに息を吐き、記者としてのスイッチを入れた。 相手はパニック状態の被害者だ。不用意な言葉は心を閉ざす鍵になる。必要なのは、誠実さと、安心感を与えるための適切な距離感。
私はゆっくりと膝を折り、彼女の視線の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「ねえ、お嬢さん」
努めて柔らかく、しかしはっきりとした口調で呼びかける。 彼女の肩がびくりと跳ねた。濡れた瞳が、怯えを帯びて私を見る。
「1つだけ、確認させて。……あなたは、やっていないのね?」
具体的な罪状はまだ知らない。だが、まずは彼女の根幹にある「無実」を肯定するところから始めなければならない。 少女の瞳が揺れた。 彼女は唇を噛み締め、何度も、何度も首を縦に振った。
『やって、いません……っ。私は、何も……っ』 「ええ、分かっているわ」
私は頷き、彼女の涙を拭うような仕草で手をかざしたが触れられなかった。
(霊体である彼女に触れることはできないとしても、その意志を示すことが重要だ)。
「私は記者よ。あなたの言葉を記録し、真実を暴くのが仕事。……だから、話してくれないかしら。無理のない範囲でいい。あなたの身に、一体何が起きたのかを」
威圧的にならぬよう、質問は慎重に選んだ。 まるで縺れた糸を一本ずつ解くように、私は彼女の語る言葉を拾い上げていく。
「まずは、あなたの名前と、年齢を教えてくれる?」
彼女は涙を拭い、震える声で答えた。
『……エマニュエル・サーシャ・ブランチェス。サーシャと呼んでください。年齢は二十歳です』
「分かったわ、サーシャ。……サターニャ王国の、元伯爵令嬢で間違いない?」
彼女――サーシャが小さく頷くのを確認し、私は記憶のノートに情報を書き込んでいく。 ブランチェス伯爵家。おそらく、この国の名門なのだろう。 だが、その人生が狂い始めたのは、あまりにもありふれた、しかし残酷なきっかけだった。
『……私は、この国の第二皇子、ウィリアムス・ロイド殿下の婚約者でした』
ぽつりぽつりと語られる内容は、三流の恋愛小説のような展開から始まった。 婚約者であるウィリアムス皇子が、隣国エルドリア公国の第一王女、サンシュタイン・リベットと恋に落ちたのだという。 ある日突然の婚約破棄。そして、新たな婚約者としてリベットが発表された。
そこまでは、貴族社会によくある政略と情愛の縺れだろう。 だが、私の「事件記者」としての嗅覚が反応したのは、その後の展開だ。
『それから……悪夢が始まりました』
サーシャへの執拗な嫌がらせ。 舞踏会に出れば、何者かに足を引っかけられ、ワインをかけられる。 控室に置いたドレスは、何者かに切り刻まれていた。 社交界では「サーシャは嫉妬に狂って乱心した」「夜な夜な男を連れ込んでいる」といった、根も葉もない醜聞が撒き散らされた。
(典型的な人格破壊ね……)
組織的だ。個人の嫉妬レベルを超えている。 彼女は孤立させられていった。 誰かに相談しようにも、友人は離れ、教師や有力者たちは彼女の訴えを黙殺した。「関われば自分も標的になる」という恐怖が、周囲を沈黙させたのだろう。
そして、決定的な悲劇が起きる。
『お父様とお母様が……王宮へ陳情に向かう途中で、賊に襲われて』
サーシャの声が震える。 両親の死。それは、彼女を守る最後の「後ろ盾」が消滅したことを意味していた。 私の脳裏に警鐘が鳴り響く。 ただの痴話喧嘩ではない。伯爵夫妻の暗殺? タイミングが良すぎる。これは間違いなく、図が絡んだ「排除」だ。
『私は……怖かった。でも、家の名誉を守らなければと、必死でした。だから、ある夜の舞踏会にも参加したんです。そうしなければ、事実を認めたことになってしまうから』
健気で、あまりにも無防備な決意。 だが、その勇気こそが、仕組まれた罠の最後のピースだった。
煌びやかなシャンデリアの下、彼女を待っていたのは「断罪劇」だった。 衆人環視の中、ウィリアムス皇子は彼女を指差し、声高に宣言したという。 ――リベット王女への数々の嫌がらせ、その主犯はお前だ、と。 でっち上げられた証拠。買収された証言者たち。 サーシャは必死に反論した。だが、その声は嘲笑と罵声にかき消された。
『みんなの目が……忘れられないんです』
サーシャは自身を抱くように震えた。
『あの目は、人を見る目じゃなかった。傷ついた獣を追い詰めて、嬲り殺しにして楽しむような……獲物を狩る、捕食者の目でした』
集団心理の暴走。正義という名の棍棒を持った大衆ほど、残酷なものはない。 ウィリアムス皇子は、彼女に対し「田舎への追放」という名の社会的抹殺を宣告した。 彼女は後ずさり、逃げ場を失い――。
『……気が付いたら、バルコニーの手すりが背中に当たって、そのまま……』
転落死。 それが、彼女の人生の結末だった。
私は静かに目を閉じた。 整理しよう。世間では「悪逆非道の令嬢が、罪を暴かれて自滅した」あるいは「処刑されたも同然の最後を迎えた」と認知されているのだろう。 だが、事実は違う。 これは自殺でも事故でもない。 社会的な包囲網によって追い詰め、物理的に突き落とした「殺人」だ。
「……ウィリアムス皇子に、リベット王女。そして、それを取り巻く貴族たち」
私が低い声で名前を反芻すると、サーシャはビクリと反応した。
『あ、あの……私は、復讐なんて……ただ、汚名を雪ぎたくて……』
「いいえ、サーシャ」
私は立ち上がり、彼女を見下ろした。 同情は終わった。ここからは、反撃の時間だ。 私の胸の奥で、かつてスクープを前にした時のような、あるいは巨悪を前にした時のような、黒く熱い炎が燃え上がっていた。
「甘いわ。汚名を雪ぐだけじゃ足りない」
私はニヤリと笑った。それはきっと、この聖女のような少女には似つかわしくない、獰猛な笑みだっただろう。
「相手はあなたを殺したのよ? あなたの両親をも、謀略の犠牲にした可能性がある。……これはね、戦争なの」
私は彼女の手――冷たく、触れることのできないその手を、強く握りしめるふりをした。
「私があなたの無念を晴らす。その代わり、あなたは私が知らないこの世界の知識(情報)を提供して」
サーシャは呆然と私を見上げ、やがて、その瞳に微かな光を宿して頷いた。 『……はい。どうか、お願いします』
その言葉が、契約の合図だった。 白い空間が薄れ、意識が急速に現実へと――あのかび臭い教会の歪な女性の十字架の前に立っていた。
待っていろ、クソ皇子に泥棒猫の王女。そして、寄ってたかって彼女を殺した共犯者たち。 地獄の底から蘇った「悪役令嬢」が、特大の真実を引っ提げて、お前たちの喉元に食らいついてやる。
私は大きくカッと目を見開いた。




