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意識が浮上した瞬間に感じたのは、圧倒的な「閉塞感」と、肌にまとわりつく湿った冷気だった。
――私は、死んだはずだ。
記憶は鮮明だ。六月の冷たい雨が降る路地裏。政治家の汚職スキャンダルを追っていた私は、振り返りざまに腹部へ鋭い熱を感じた。焼けるような痛み、視界を染める赤、そしてアスファルトに叩きつけられる雨音。それが私の人生の、最後の取材記録だったはずだ。
だというのに、今の私は思考している。 指先を動かす。動く。だが、ひどく重い。まるで泥の中で手足を動かしているような抵抗感がある。 ゆっくりと手を腹部へと這わせる。 「……ない」 あの致命的な刺し傷がない。代わりに触れたのは、麻のような粗末な布の感触と、少し冷たくなった自分の肌だけだ。
私は生きているのか? それとも、死後の世界にも肉体という概念があるのか?
思考を巡らせながら、私は両手を上へと伸ばした。 ゴツッ、と硬い感触が掌に返ってくる。 板だ。それも、かなり分厚い木の板が、顔のすぐ目の前を塞いでいる。 閉所恐怖症の気配がない私でも、心拍数が跳ね上がるのが分かった。狭い。暗い。そして、かび臭い。
「ふざけないでよ……」 喉から漏れた声は、私が知っている自分の声よりも少し高く、そして掠れていた。 恐怖よりも先に、職業病とも言える「怒り」と「探究心」が鎌首をもたげる。私を殺したのは誰だ? あの議員の秘書か、それとも雇われた半グレか。 そして、誰が私をこんな箱に詰めた?
こみ上げる復讐心を燃料に変え、私は全身の力を腕に込めた。 重い。だが、びくともしないわけではない。 「ぐ、うぅぅ……ッ!」 軋む音。木と木が擦れ合う不快な音が響き、頭上の闇に一筋の亀裂が走る。 そこから差し込んだのは、白い、あまりにも清廉な光だった。
――ガタンッ。
重い蓋がずれ落ち、私は上半身を起こした。 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、雨と埃、そして古い石材の匂いがした。 眩しさに目を細め、私は自分が置かれている状況を客観的に見た。
そこは、私が横たわっていた長方形の木箱――間違いなく棺桶だ――を除けば、荒れ果てた廃墟だった。 高い天井には蜘蛛の巣が張り巡らされ、ステンドグラスの一部は割れてなくなっている。 そこに描かれていたのは、幼子を抱く聖母ではない。 目隠しをされ、天秤と剣を携えた女性が、罪人の首を掲げている姿だった。 鮮やかな赤と青のガラスが、差し込む光を不吉な色に変えている。慈愛というよりは、冷徹な『断罪』を象徴するような宗教画。 だが、残されたガラス片に描かれた絵柄が、私の視線を釘付けにした。
石造りの床には埃が積もり、長い間、人の出入りがなかったことを雄弁に物語っていた。
「教会……?」 祭壇らしき場所にあるシンボルを見て、私は眉をひそめた。 私は無宗教だし、オカルトの類も信じない。だが、目の前にある十字架のような意匠は、私が知るキリスト教のそれとは微妙に形が異なっていた。 日本国内の隠れキリシタンの廃村か? ここはどこだ? 日本国内の廃村か? それにしては建築様式がゴシックすぎる。
混乱する頭を整理するため、私は棺の縁に手をかけ、外へと這い出した。 足元がおぼつかない。視線を自分の体に向けると、そこには粗末な白いワンピースが一枚だけ。死装束というよりは、まるで囚人が着せられるような簡素な布切れだ。 これが、敏腕記者・奥田さやかの死後の姿だというのか。あまりに滑稽で、乾いた笑いが出そうになる。
その時だった。
『――あなたなら、彼女を救える』
頭の中に直接響くような、重厚で静かな声。 私は弾かれたように顔を上げた。 誰もいない。ただ、祭壇に掲げられた巨大オブジェだけが、無言で私を見下ろしている。
それは、「歪な女性の十字架」だった。 磔にされているのは、救世主ではなく、長い髪の女性を模した鉄像だ。 彼女の手足には太い釘が打ち込まれ、肢体には無数の茨が絡みついている。苦悶の表情を浮かべているようにも、あるいは恍惚と罪を受け入れているようにも見えるその姿は、神聖というよりは冒涜的でさえあった。
空耳ではない。確かな質量を持った「意志」が、その像から発せられていた。
「誰……? 誰なの!」 記者の本能で、私は虚空に向かって問いかける。 私の叫び声が堂内に反響し、消え入る寸前――世界が反転した。
視界がぐにゃりと歪む。教会の風景がノイズのように乱れ、真っ白な空間へと強引に引きずり込まれる感覚。 眩暈に似た浮遊感の中で、私は「彼女」と出会った。
白い空間の中心に、一人の少女が佇んでいる。 豪奢なドレスではない。私がいま身に着けているのと同じ、粗末な白い布を纏っている。 だが、その存在感は圧倒的だった。 透き通るような白い肌。そして何より目を奪われたのは、その髪の色だ。 紫の陰影を帯びた、美しいブロンド。 神秘的で、どこか不吉な美しさを湛えた彼女は、濡れた瞳でじっと私を見つめていた。
幽霊? 私は息を呑み、その紫がかった髪の少女に近寄った。
彼女の唇が、震えながら動いた。 音のない世界で、その言葉だけが私の脳裏に鮮烈に焼き付く。
『……どうか、私の無実を』
それは、悲痛な祈りであった。




