9.夜を選ぶ言葉
夜は、いつも通り暗かった。
暗闇の森は音を失い、家の中には、呼吸の気配だけが残っている。
それなのに、この夜だけは、空気が違った。
——逃げられない。
そう、分かってしまう夜だった。
彼は、まだ戻ってきていなかった。
私は寝台に腰掛けたまま、何度も扉の方を見る。
(……来る)
根拠はない。
でも、確信だけはあった。
やがて、扉が静かに開く。
「……起きているな」
低く、落ち着いた声。
けれど、わずかに揺れている。
「うん」
それだけで、胸が少し軽くなる。
彼は、いつものように椅子を置かなかった。
代わりに、私の正面に立つ。
距離が、近い。
沈黙。
長く、重い沈黙。
先に口を開いたのは、彼だった。
「……約束した」
低い声。
「……俺が、言うと」
私は、頷いた。
逃げない。
目も逸らさない。
彼は、深く息を吸い、吐いた。
「……俺は、不死だ」
それは、前置きではない。
告白の一部だった。
「……変わらない」
「……お前は、変わる」
「……それでも、俺は」
言葉が、一瞬だけ途切れる。
彼の指が、かすかに震えている。
「……お前を、好きになった」
はっきりとした声。
曖昧さのない言葉。
胸の奥で、何かがほどけた。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
「……礼を言われるようなことじゃない」
彼は、苦笑した。
「……残酷だと、分かっている」
視線が、わずかに揺れる。
「……それでも、選ぶ」
その一言に、すべてが込められていた。
私は、一歩近づいた。
「ねえ」
「……なんだ」
「私、変わるよ」
彼の目が、わずかに見開かれる。
「外を知って、世界を知って」
「今より、ずっと違う私になる」
それは、彼が恐れている未来。
「でも……」
私は、胸に手を当てた。
「この気持ちは、変えない」
沈黙。
彼は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと手を伸ばす。
「……なら」
私の手を、そっと取る。
初めて、逃げ道のない触れ方。
「……俺の隣で、変われ」
その言葉は、支配でも命令でもない。
——選択の共有。
私は、迷わなかった。
「うん」
それだけで、十分だった。
彼は、私を抱き寄せた。
強くない。
でも、離さない抱擁。
胸に、彼の鼓動が伝わる。
「……怖いか」
「……少し」
「……俺もだ」
その不器用さに、思わず笑ってしまう。
「じゃあ……一緒だね」
「……ああ」
彼は、私の額に、そっと触れた。
口づけではない。
でも、それ以上に彼らしい。
「……恋人に、なれ」
短く、真っ直ぐな言葉。
「……なる」
返事は、即答だった。
その瞬間、彼の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
——選んだ。
互いに。
暗闇の森。
長命で、変わらない存在と、変わり続ける存在。
未来は、不確かだ。
失う可能性も、恐怖も、消えない。
それでも、この夜。
二人は、逃げなかった。
夜を選び、
その中で、恋を選んだ。




