8.近すぎた夜の、そのあとで
あの夜のあと、彼は少しだけ変わった。
正確には——“戻った”のかもしれない。
孤独に慣れた者の距離へ。
会話が消えたわけではない。
食事は用意され、家の中は整えられ、危険は遠ざけられる。
でも、分かる。
(……触れない)
視線が合う時間が短い。
近づけば、ほんの少しだけ、彼が下がる。
その小さな後退が、私には痛かった。
夜、彼は家を出ることが増えた。
「……出かける」
短い言葉。
理由は言わない。問いを許さない空気。
「気をつけて」
私がそう言っても、彼は頷くだけで森に消える。
胸の奥が、冷える。
(……私が、怖いの?)
違うと分かっている。
彼は、私を怖がっているんじゃない。
——失う未来を、怖がっている。
私が彼の隣に立った夜。
あれは、私の選択だった。
でも同時に、彼に“選ばせた”夜でもあった。
(……私、ひどいことをしたのかも)
守ろうとしてくれた人に、
覚悟を強いた。
そう思うと、胸がきゅっと苦しくなる。
それでも。
(……置いていかれるのは、もっと嫌)
矛盾している。
私は三百年以上生きているはずなのに、
心はどうしようもなく幼い。
夜が深まり、家の中が静まり返る頃、扉が開いた。
彼が戻ってきた。
いつもより遅い。
外套には夜の匂いが強く残っている。
「……起きてるか」
声が、掠れていた。
「うん」
私は寝台から起き上がり、彼を見る。
彼は、少しだけ立ち尽くしていた。
まるで、言葉を選ぶために。
「……あの時」
低い声。
「……お前は、選んだ」
私は、頷く。
「……だが、俺は」
言葉が途切れる。
苦しそうな沈黙。
「……選ばせてしまった」
その一言で、胸が締めつけられた。
「違う」
私はすぐに言う。
「私は、勝手に選んだだけ。あなたに——」
「……違わない」
彼は、視線を逸らしたまま言った。
「俺は不死だ」
「うん」
「……お前は、変わる」
「うん」
「……それでも、俺は」
言いかけて、止まる。
続きを言えば、戻れなくなる。
そんなふうに見えた。
私は、静かに立ち上がった。
「ねえ」
「……なんだ」
近づく。
彼は、動かない。
「私、怖い」
言葉は、思ったより素直に出た。
「拒まれるのも、置いていかれるのも」
胸が熱くなる。
「でも……あなたが、私を遠ざけるのが、一番怖い」
沈黙。
彼の手が、わずかに震えた。
「……近づくな」
弱い声。
拒絶ではなく、懇願に近い。
「……俺は」
言いかけて、唇を噛む。
私は、足を止めなかった。
「私は、子供だよ」
自覚しているから言える。
「恋も、世界も、よく分からない」
それでも。
「だけど、あなたを失う想像だけは、耐えられない」
彼の瞳が揺れる。
私は、一歩だけ距離を詰めて、言った。
「……好き」
ついに、言葉にしてしまった。
空気が止まる。
彼は動かなかった。
けれど、逃げなかった。
「……残酷だな」
掠れた声。
私は、頷いた。
「うん。残酷」
それでも、続ける。
「でも、言わないと……あなたは、ずっと一人に戻ろうとする」
彼の喉が、僅かに動く。
「……俺は」
低い声が、震える。
「……お前を、手放せない」
それは告白に近い。
でも、まだ最後の言葉ではない。
彼は、深く息を吸い、
「……だが、手放せないからこそ、怖い」
正直すぎる言葉。
「俺は、見送る側だ」
「うん」
「……それを、お前に背負わせたくない」
私は、胸の奥が静かになるのを感じた。
(……ああ、やっぱり)
優しさだ。
でも、その優しさが、私を孤独にする。
私は、そっと言った。
「一緒に、選ぼう」
彼が、目を見開く。
「見送るとか、変わるとか、怖いとか」
「全部、私も怖い」
言葉をひとつずつ置く。
「でも……怖いからって、何も選ばなかったら」
私は微笑む。
「私、また“何も選ばない私”に戻っちゃう」
沈黙。
やがて、彼は——ほんの少しだけ、肩を落とした。
「……次は」
低い声。
「……俺が、言う」
約束だった。
私は、頷いた。
「待つ」
「……待たせるな」
「うん。……待たない」
矛盾した言葉に、彼が僅かに目を細める。
その表情が、照れ屋のそれだと気づいてしまい、胸が温かくなる。
彼は、寝台の傍に椅子を置いた。
距離は、まだある。
けれど、その距離は“拒絶”ではない。
——迷いの距離だ。
夜が更ける。
私は目を閉じながら思う。
(……もう、離れない)
告白は、まだ先。
でも、約束はもう交わした。
次の夜、彼はきっと——
自分の言葉で、私を選ぶ。




