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6. 名前のない感情

 朝の光が、暗闇の森に細い筋を落としていた。


 里にいた頃、この時間は好きではなかった。

 朝はいつも、役割の始まりを告げる合図だったから。


 でも今は——。


(……少し、好き)


 そう思える自分に、戸惑っている。


 彼は、まだ戻ってきていなかった。

 夜の住人である彼が外にいるのは、珍しいことではない。

 それでも、胸の奥が落ち着かない。


(……距離、取られてる)


 はっきりと、分かってしまう。


 声をかけてくれる頻度。

 視線が合う時間。

 椅子を置く位置。


 すべてが、ほんの少しずつ、遠くなっている。


(……私、何かした?)


 答えは、もう分かっている。


 ——私が、選んだ。


 彼の隣に立つと決め、

 ここにいると示した。


 それは、守られるだけの存在でいることを、拒んだということでもある。


 台所で湯を沸かしながら、私はふと、里のことを思い出した。


 ハイエルフの里では、感情は管理するものだった。

 特に恋は、未熟さの証。


 誰かを強く想うことは、

 判断を鈍らせ、

 一族の調和を乱すと教えられてきた。


 だから私は、

 これまで一度も、

 「好き」という感情に名前を与えなかった。


 ——名前をつければ、選んでしまうから。


 外から足音がして、私は顔を上げる。


「……起きてたか」


 彼が戻ってきた。


「うん」


 その一言だけで、胸が軽くなる。


 でも、彼は以前のように近づいてこない。

 一歩、距離を保ったままだ。


「……何か、困ったことは」


 形式的な問い。


「ないよ」


 嘘ではない。

 でも、本当でもない。


 沈黙が、落ちる。


 この沈黙は、昨日までと違う。

 安心ではなく、試されているような——。


(……怖い)


 私は、深呼吸して口を開いた。


「ねえ」


「……なんだ」


「最近……ちょっと、遠くない?」


 言葉にした瞬間、胸がきしんだ。


 彼は、すぐに答えなかった。


「……そう見えるか」


「うん」


 短く、でもはっきり。


 彼は視線を逸らした。


「……必要な距離だ」


 必要。


 その言葉が、胸に刺さる。


「私のため?」


 問いかけると、彼は小さく息を吐いた。


「……そうだ」


 その答えに、なぜか少し、安心してしまった自分がいる。


(……私のため、か)


 でも同時に、

 それが理由で距離を取られるのは、やっぱり寂しい。


 私は、思い切って言った。


「私ね……」


 喉が、少し震える。


「あなたといると、安心する」


 それは、告白じゃない。

 でも、もう、後戻りできない言葉だった。


 彼の肩が、僅かに揺れる。


「……それは」


 言葉を探している。


 私は、続けた。


「だから、怖い」


「……何が」


「この気持ちが……あなたを、縛るんじゃないかって」


 沈黙。


 彼は、目を伏せた。


「……縛られるつもりはない」


 でも、その声は強くない。


 ——違う。


(……縛るのは、言葉だ)


 里で、そう教えられてきた。


 「好き」は、選択を迫る言葉。

 口にした瞬間、相手の人生に触れてしまう。


 私は、唇を噛んだ。


「……だから、言えない」


「……?」


「好き、って」


 言ってしまった。


 でも、それは、告白じゃない。

 告白未満の、告白。


 彼は、完全に動きを止めた。


 空気が、張りつめる。


「……言わなくていい」


 低い声。


「……今は」


 拒絶ではない。

 けれど、受容でもない。


 胸が、ひどく痛んだ。


「……ごめん」


 謝る言葉じゃないと分かっているのに、口から出た。


「……謝るな」


 彼の声が、少しだけ強くなる。


「……俺の問題だ」


 その一言で、すべてが腑に落ちた。


(……この人も、怖いんだ)


 失うことが。

 選ぶことが。


 それでも。


 私は、もう、知らなかった頃には戻れない。


 夜、寝台に入っても、目が冴えていた。


(……好き)


 心の中で、そっと呟く。


 この言葉は、まだ、胸の内にしまっておく。

 でも、消さない。


 ——恋を知ることは、

 選ぶことを、恐れないと決めること。


 暗闇の森。


 彼が引いた距離の向こうで、

 私は、初めて自分の感情を、

 自分のものとして抱きしめていた。


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