4. 甘い果実と、気づいてはいけない感情
暗闇の森にも、季節は巡る。
その日は、森の奥に微かに甘い香りが漂っていた。
熟れた果実の匂いだ。
「……今日は、近くだけだ」
彼はそう言って、外套を手に取った。
「一緒に、行っていい?」
そう尋ねると、彼は少しだけ考え、
「……離れるな」
条件付きの許可を出した。
森を歩く。
以前ほど足元は不安定に感じなかった。
それは、私が慣れたからではない。
彼が、無意識に歩幅を合わせているからだ。
「あっ……」
枝の間に赤く光る実を見つけて、思わず声を上げる。
「綺麗……」
宝石のように透ける果実。
里では、季節と役割が決まっていて、自由に採ることは許されなかった。
「……甘い」
彼は短く言って、枝を折り、実を一つ手渡してくれる。
「ありがとう」
受け取って、かじる。
「……っ、甘い!」
思わず声が弾んだ。
その瞬間、彼は視線を逸らした。
「……そんなに、喜ぶものか」
「うん。だって……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「里では、こういうの、子供のものだったから」
事実だった。
エルフの里では、年を重ねるほど、感情を制御することが求められる。
恋も、衝動も、楽しみも——未熟さの証とされた。
「……そうか」
彼は、それ以上何も言わなかった。
家に戻り、果実を洗い、並べる。
私は思いついて、簡単な甘味を作った。
里で、子供向けに教えられたものだ。
「できたよ」
「……これは」
「甘いの。嫌い?」
「……いや」
一口食べて、彼は目を瞬かせた。
「……妙だ」
「でしょ?」
私は、少し得意げに笑う。
「甘いとね、心が緩むんだよ」
その言葉に、彼は何も言わなかった。
けれど、次の一口は、明らかにゆっくりだった。
沈黙が、心地いい。
——それが、少し怖くもある。
「ねえ」
私は、思い切って聞いた。
「もし私が……外に行きたいって言ったら、どうする?」
彼の手が、止まる。
「……行かせない」
即答。
「理由は?」
「……危険だ」
「それだけ?」
沈黙。
やがて、彼は低く言った。
「……失う」
胸が、強く鳴った。
「……嫌だ」
ほとんど、独り言のような声。
——ああ。
これは、ただの保護じゃない。
その事実に、胸の奥が熱を持つ。
「……私」
口を開いて、すぐに閉じる。
(言っちゃ、だめ)
里で、何度も教えられた。
恋は、判断を鈍らせる。
長命者は、感情に流されてはいけない。
だから、私は今まで、
この感情に名前をつけなかった。
でも。
(……好き、かもしれない)
そう思った瞬間、怖くなった。
——この気持ちは、相手を縛る。
——特に、この人を。
夜。
寝台に入る前、私は聞いた。
「……ここに、いればいい?」
彼は一瞬、驚いたようにこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「……ああ」
短い返事。
でも、声が僅かに揺れている。
彼は、椅子を寝台の傍に置いた。
「……見張りだ」
いつもの言葉。
でも、その距離は、昨日より少しだけ遠い。
(……触れない)
意識的に、触れないようにしている。
それが、伝わってきてしまう。
(……この人は、壊すのが怖いんだ)
私のことを。
それ以上に、自分を。
暗闇の森。
甘い果実の香りが、まだ残っている。
私は、初めて気づいた。
この気持ちは、
無邪気なものじゃない。
だからこそ——
大切に、しまっておこう。
言葉にしてしまう、その日まで。




