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3. 知らない匂いと、境界線

 暗闇の森に、異物が混じった。


 土と古木の匂いに、金属と油、そして微かな魔力の残滓。

 私は無意識に足を止め、胸元に手を当てた。


「……来る」


 低く短い声がして、ヴァイスはすでに私の前に立っていた。


 庇うような位置。

 それが自然な動作であるかのように。


「誰か……?」


「……人間だ」


 それ以上は言わない。

 けれど、声の端に、はっきりとした警戒が滲んでいた。


 やがて、森の奥から足音が近づく。

 隠す気のない、堂々とした歩き方。


「噂は本当だったか」


 現れたのは、旅装束の人間の男だった。

 剣を携えてはいるが、抜く様子はない。


「暗闇の森に吸血鬼が住みついたと思ったら……珍しい連れがいる」


 男の視線が、私に向く。


 その瞬間、彼の気配が変わった。


「……見るな」


 低く、鋭い声。


 男は一瞬だけ目を見開き、すぐに肩をすくめた。


「悪い。だが、隠す気もないだろう」


「……用件だけ言え」


「簡単な確認だ。ハイエルフが一人、この森にいると聞いた」


 私は、息を呑んだ。


「保護名目で動いている連中がいる。長命種は、何かと面倒だからな」


 淡々とした口調。

 善でも悪でもない、世界の現実を語る声。


「……帰れ」


 即答だった。


「彼女は、ここにいる」


 短い宣言。


 男は小さく息を吐いた。


「選んだのは、お前か?」


「……俺だ」


 その答えに、男はちらりと私を見る。


「——本人の意思は?」


 胸が、強く鳴った。


 私は、一歩踏み出しかけて、止まった。


(……今、出ていい?)


 視線を向けると、彼はわずかに首を振った。


 ——まだ、だ。


「……本人は、関係ない」


 彼の声は、硬い。


 男はしばらく沈黙し、それから苦笑した。


「なるほど。なら、今日は引く」


 踵を返す前に、男は言った。


「だが、隠しているつもりなら、長くはもたん」


 足音が遠ざかる。


 森は、再び静けさを取り戻した。


 私は、息を吐いた。


「……大丈夫?」


「……問題ない」


 だが、彼の表情は硬いままだった。


 家に戻る途中、私は沈黙に耐えきれず、口を開いた。


「ねえ……外に出るの、やっぱり駄目?」


 彼の足が止まる。


「……危険だ」


「さっきの人、そんなに?」


「……人間が、ではない」


 彼は、少しだけ言葉を選んでから続けた。


「……見られると、線を越える者がいる」


 その言い方に、胸がざわつく。


「前にも……こういうことが?」


 彼は、答えなかった。

 代わりに、短く息を吐く。


「……失った」


 それだけ。


 具体的な名前も、出来事も語られない。

 けれど、それ以上を聞く必要はなかった。


(……外に出ることは、自由じゃない)


 里を出る前、私はそう思っていた。

 外の世界は、きっと、選択の連続なのだと。


 でも違う。


 選べないことも、確かにある。


 ——見られること。

 ——知られること。


 それ自体が、誰かにとっては危険になる。


「……私」


 言いかけて、言葉を探す。


「外に出たいわけじゃない」


 彼が、こちらを見る。


「ただ……ここにいる理由を、ちゃんと持ちたい」


 沈黙。


 彼は、しばらく考え、それから低く言った。


「……理由は、今はいらない」


「……え?」


「……選んだ。それで十分だ」


 その言葉は、簡単で、重かった。


 ——理由を求めない。

 ——代わりに、責任は自分が引き受ける。


 そう言われている気がした。


 胸の奥が、少しだけ熱くなる。


「……ありがとう」


 そう言うと、彼は視線を逸らした。


「……礼を言われることではない」


 でも、声は柔らかかった。


 夜、私は寝台に入りながら考える。


(……この人は、私を外から守っている)


 でも同時に、


(……外に出さないことで、守っている)


 それは、優しさでもあり、境界線でもあった。


 ——守ることと、縛ることは、違う。


 けれど、その違いを見極めるのは、きっと難しい。


 暗闇の森。

 知らない匂いは消えた。


 けれど、境界線は、確かに引かれた。


 それが、私たちの距離を

 少しだけ——近づけた夜だった。


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