8.夜を続ける言葉
フィーネが暗闇の森に戻ってきたのは、夜が最も深くなる頃だった。
境界を越えた瞬間、胸の奥がわずかに緩む。
懐かしい匂い。
静かな闇。
――帰ってきた。
その感覚に、少しだけ驚く。
戻ると決めていたわけではない。
けれど、足は迷わなかった。
小屋の灯りは、点いていた。
ヴァイスは、外に出ていた。
気配を察したのか、境界の方を見ている。
視線が合う。
互いに言葉はないまま、数歩近づいた。
「……無事だったか」
先に口を開いたのは、ヴァイスだった。
「うん」
フィーネは頷く。
それだけで、十分だった。
しばらく、夜霧の中に沈黙が落ちる。
離れていた時間は短い。
けれど、二人にとっては重かった。
「考えた?」
ヴァイスの声は、低く、穏やかだった。
「……考えた」
フィーネは、正直に答える。
「答えは?」
すぐには、言えなかった。
フィーネは一歩、ヴァイスに近づく。
距離は、手を伸ばせば触れるほど。
「私ね」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「未来を決めるのが怖かった」
ヴァイスは、黙って聞いている。
「決めたら、全部が固定される気がして」
「……ああ」
「でも」
フィーネは、胸の前で手を握りしめた。
「離れて分かったの」
視線を上げる。
「決めないまま一緒にいる方が、ずっと残酷だって」
ヴァイスの目が、わずかに揺れた。
「私は、戻れる場所を持ってる」
それは、セリウスに突きつけられた事実。
「でも」
フィーネは、はっきりと言った。
「戻らない、って決めない限り……ヴァイスを選んだことにならない」
夜霧が、二人の間を流れる。
「私は」
息を吸う。
「今も、先の全部が見えてるわけじゃない」
それは、正直な言葉だった。
「それでも」
声が、震えないように。
「夜を、あなたと続けたい」
“一緒にいる”ではない。
“続けたい”。
ヴァイスの喉が、小さく鳴った。
「……それは」
言葉を探すように、一拍置く。
「覚悟の言葉だ」
「うん」
フィーネは、逃げなかった。
「完璧な未来じゃない」
「……ああ」
「でも、選ぶ」
はっきりと。
「あなたを」
ヴァイスは、ゆっくりと目を閉じた。
長い夜を生きてきた彼が、初めて“受け取る”言葉だった。
「俺は」
目を開ける。
「お前を、縛りたくない」
「知ってる」
「それでも」
彼は、一歩踏み出した。
「手放したくもない」
その距離は、もうゼロに近い。
フィーネは、そっと手を伸ばす。
指先が、ヴァイスの外套に触れた。
逃げない。
離れない。
「……一緒に、悩める?」
フィーネが言う。
「答えが変わる日が来ても」
ヴァイスは、少し考えてから答えた。
「変わるなら、その都度、選び直す」
それは、約束ではない。
生き方の宣言だった。
フィーネは、安心したように息を吐く。
「それなら……大丈夫」
夜は、続く。
だが、流される夜ではない。
ヴァイスは、初めて自分から、彼女の手を取った。
強くは握らない。
けれど、離さない。
「戻ってきてくれて……ありがとう」
「うん」
フィーネは、小さく笑った。
夜は、選ばれた。
そして――続けられる夜になった。




