6.夜を疑う
その夜、森は静かすぎた。
夜霧は薄く、風もない。
暗闇の森が、本来の呼吸を忘れているように感じられた。
ヴァイスは、眠れずにいた。
寝台に横になっていても、意識は冴えたままだ。
隣の気配――フィーネの存在を、はっきりと感じている。
近い。
だが、触れられない距離。
「……ヴァイス」
小さな声が、闇を揺らした。
「起きている」
「うん……」
フィーネは少し迷ってから、身体を起こす。
「眠れない?」
「……ああ」
沈黙が落ちる。
今までなら、ここで会話は終わっていた。
けれど今日は、違った。
「ねえ」
フィーネが、意を決したように言う。
「ラグナさんのこと……気にしてる?」
ヴァイスは、否定しなかった。
「している」
「……そっか」
それだけで、また沈黙。
フィーネは毛布を握りしめ、視線を落とす。
「里のことも……」
言葉が途切れる。
ヴァイスは、ゆっくりと息を吸った。
「気にしている」
正直だった。
フィーネは小さく息を吐く。
「やっぱり」
その声には、諦めに似た響きがあった。
「ヴァイスは、未来を見てる」
「……悪いことか?」
「ううん」
フィーネは首を振る。
「正しいと思う」
それでも、表情は曇っていた。
「でも……私は」
言葉を探しながら、続ける。
「未来を、ひとつに決めるのが怖い」
ヴァイスは、黙って聞いていた。
「決めた瞬間に、他の全部を捨てるみたいで」
「捨てるわけじゃない」
思わず、声が出た。
フィーネは、驚いたように顔を上げる。
「ヴァイス?」
「……選ぶというのは、そういうことだと思っていた」
ヴァイスは、言葉を噛みしめる。
「だが、違った」
彼女を見る。
「お前は、全部を簡単に扱わない」
フィーネの目が、揺れた。
「だからこそ、決められない」
「……うん」
小さな肯定。
「でもな」
ヴァイスは、続けた。
「俺は、宙に浮いたままの関係が、怖い」
その言葉は、刃のように真っ直ぐだった。
フィーネは、息を呑む。
「いつか、お前が“戻る”と言ったとき」
声が低くなる。
「俺は、何も言えない立場になる」
それは、初めて口にした不安だった。
フィーネは、しばらく黙っていた。
やがて、震える声で言う。
「……私は、そんなつもりじゃ」
「分かっている」
「だったら――」
「それでもだ」
ヴァイスは、彼女の言葉を遮った。
空気が、張り詰める。
「俺は、選ばれたい」
沈黙。
フィーネの目が、大きく見開かれた。
「……それって」
「一緒にいる“今”じゃない」
ヴァイスは、視線を逸らさずに続ける。
「“続ける未来”だ」
フィーネの胸が、きゅっと締めつけられる。
「私は……」
声が、揺れる。
「そんなこと、今すぐ言えない」
「分かっている」
「分かってるのに……」
フィーネは、立ち上がった。
「どうして、そんな顔をするの?」
ヴァイスは、自分でも気づかないうちに、苦しそうな表情をしていた。
「夜は、続くと思っていた」
静かな声。
「だが、疑い始めている」
フィーネは、唇を噛む。
「……私は、逃げてる?」
「逃げてはいない」
即答だった。
「だが、留まってもいない」
それが、二人の間にある距離の正体だった。
フィーネは、しばらく俯いていたが、やがて小さく言った。
「……少し、考える時間がほしい」
その言葉は、拒絶ではない。
けれど、離れる合図だった。
「分かった」
ヴァイスは、そう答えた。
引き留めなかった。
それが、彼なりの誠実さだった。
フィーネは寝台を離れ、扉の方へ向かう。
振り返らずに言った。
「嫌いになったわけじゃ、ないから」
「……分かっている」
扉が、静かに閉まる。
夜は、続いている。
だが、同じ夜ではなかった。
ヴァイスは、暗闇の中で目を閉じる。
疑ったのは、彼女ではない。
“この夜が、続くと信じていた自分自身”だった。




