2. 生活の音、重なる時間
目を覚ましたとき、暗闇の森はまだ眠っていた。
——いや、眠っているのは、世界のほうで。
この家だけが、静かに息づいている。
天井の梁。
石の壁。
微かに残る、夜の匂い。
知らない場所のはずなのに、胸の奥は不思議と落ち着いていた。
(……ここで、寝たんだ)
そう思った瞬間、現実がゆっくりと追いついてくる。
私は里を出て、
ヴァンパイアの家に泊まり、
そして——追い出されていない。
寝台から降りると、扉の向こうから、かすかな物音が聞こえた。
「……起きたか」
低い声。
昨日と同じ、静かな調子。
「うん」
そう答えると、彼は短く頷いた。
「……着替え。そこだ」
指された先には、丁寧に畳まれた衣服があった。
サイズは、驚くほど合っている。
「これ……」
「……森の外で、揃えた」
「夜の間に?」
「……ついでだ」
“ついで”で、ここまで用意する人はいない。
その事実に気づいてしまい、胸が少しだけ温かくなる。
朝食は簡素だった。
果実と、焼いたパンと、温かい飲み物。
「……栄養は、問題ない」
彼はそう言って、私の反応を窺うように一瞬だけこちらを見る。
「おいしい」
正直な感想だった。
その言葉に、彼はわずかに視線を逸らした。
——照れている。
確信すると、思わず笑いそうになる。
食後、自己紹介をして彼……ヴァイスは家の中の説明を始めた。
「……立ち入っていい場所と、駄目な場所がある」
「地下は……」
「……危険だ」
短く、だがはっきりと。
それ以上は、説明しなかった。
聞かせない、というより——背負わせない、という感じだった。
「……夜、外に出るときは」
一拍。
「……声をかけろ」
「心配?」
問いかけると、彼は即座に否定した。
「……管理だ」
けれど、その声はわずかに硬い。
昼の時間、彼は奥の部屋で休むらしく、私は一人になった。
本を読み、外を眺め、家の中を静かに歩く。
——静かすぎる。
里では、常に誰かの気配があった。
ここでは、それがない。
不安が胸を満たしかけた、そのとき。
扉の向こうから、微かな呼吸音が聞こえた。
(……いる)
それだけで、心が落ち着く。
夕方、彼が起きてきた。
「……何か、困ったことは」
問いかけが、ぎこちない。
「ううん。大丈夫」
その答えに、彼は小さく息を吐いた。
私は、少し迷ってから聞いた。
「ねえ……私、どれくらい、ここにいていいの?」
彼は、すぐには答えなかった。
考える時間。
逃げない時間。
「……好きなだけ」
短い言葉。
「……追い出す理由はない」
その言葉は、私の胸に、深く沈んだ。
——選ばれた、わけじゃない。
でも、拒まれていない。
それが、今の私には十分だった。
夜、寝台に入ると、彼は部屋の隅に椅子を置いた。
「……見張りだ」
「私、危なくないよ?」
「……森が、だ」
嘘だと分かる。
それでも、私は何も言わなかった。
(……優しい人)
暗闇の森。
ひとつ屋根の下。
まだ名前のない関係。
でも、確かに——ここは、居場所になり始めていた。




