4.約束のない時間
それから数日、森は穏やかだった。
ラグナの来訪が嘘だったかのように、暗闇の森はいつも通りの静けさを取り戻している。
夜霧は柔らかく漂い、獣たちは遠くで息づき、世界は二人を急かさなかった。
フィーネはそれを、ありがたいと思っていた。
「ヴァイス、これ見て」
苔の生えた倒木のそばで、フィーネが小さな花を指さす。
淡い青色の花弁が、夜の中でほのかに光っていた。
「昨日は、咲いてなかったよね?」
「……ああ。夜明け前に開く花だ」
ヴァイスはそう答えながら、フィーネの表情を盗み見る。
楽しそうだ。
無邪気で、穏やかで――何も心配していないように見える。
それが、少しだけ胸に引っかかった。
「ね、摘んでもいい?」
「構わない。根を傷つけなければ」
「うん!」
フィーネは慎重に花を摘み取り、満足そうに微笑んだ。
「部屋に飾ろうかな」
その言葉は、自然だった。
“ここに帰る”という前提が、そこにある。
ヴァイスはそれを聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
――今は。
そう、今は。
小屋に戻ると、フィーネは花瓶を探し始めた。
ヴァイスは台所で、簡単な食事の準備をする。
同じ空間。
それだけで、以前より落ち着かない。
恋人という言葉が、空気の中に溶けている。
「ヴァイス」
「どうした」
「今日のごはん、なに?」
「森鳥のスープだ」
「やった」
嬉しそうな声。
フィーネは、未来の話をしない代わりに、今の話をよくする。
今日の食事。
今夜の散歩。
この後、何をするか。
それらはどれも、短い時間の中で完結していた。
食事を終え、二人は並んで腰を下ろす。
距離は、自然と近い。
フィーネは、何気ない仕草でヴァイスの袖を引いた。
「……寒い?」
「少しだけ」
ヴァイスは黙って、自分の外套を彼女の肩に掛ける。
フィーネは驚いたように目を瞬かせ、それから照れたように笑った。
「ありがとう」
その一言が、胸に残る。
しばらく、言葉のない時間が流れた。
フィーネは外套にくるまりながら、ぽつりと言う。
「ねえ、ヴァイス」
「……なんだ」
「もし、もしもだけど」
少しだけ、声が揺れた。
「ここにいられなくなったら……どうする?」
ヴァイスは即答できなかった。
「どういう意味だ」
問い返す声は、静かだった。
フィーネは慌てて首を振る。
「違うの。今すぐ、とかじゃなくて……ただの、もしも」
“もしも”。
未来を語らない彼女が、珍しく投げかけた仮定。
ヴァイスは少し考え、答えた。
「……考える」
「そっか」
フィーネはそれで納得したようだった。
「一緒に?」
「……ああ」
その言葉に、彼女は安心したように微笑む。
けれど、その安心は“今”にだけ向けられている。
ヴァイスは気づいていた。
この穏やかな時間が、約束によって支えられていないことに。
約束がないから、軽い。
約束がないから、壊れやすい。
夜が深まる。
フィーネはうとうとし始め、ヴァイスの肩にもたれた。
その重みが、心地よい。
――この時間を、失いたくない。
そう思うほど、先を考えてしまう自分がいる。
ヴァイスは、そっと息を吐いた。
約束のない時間は、優しい。
だが同時に、残酷でもあった。
それでも彼は、今この瞬間、彼女が隣にいることを選ぶ。
夜は、まだ続いている。




