3. 森の外からの使者
暗闇の森に、異物が入り込むとき。
それは音よりも先に、気配で分かる。
ヴァイスは足を止めた。
背後で、フィーネも同時に動きを止める。
「……来てる?」
小さな声。
ヴァイスは頷いた。
「森の者じゃない」
空気が、わずかに張り詰める。
夜霧の奥から、足音がひとつ。
やがて、闇の中から姿を現したのは――黒い外套を纏った男だった。
背は高く、痩せた体。
肌はヴァイスよりもさらに白く、瞳は深い紅。
同族。
ヴァンパイアだ。
「久しいな、ヴァイス」
低く、乾いた声。
ヴァイスは一歩前に出て、フィーネを背に庇う。
「用件を言え、ラグナ」
名を呼ばれた男――ラグナは、口元だけで笑った。
「随分と、森に馴染んだようだな」
視線が、ヴァイスの背後へ向く。
フィーネの存在を、隠す気はないらしい。
「……人の匂いじゃない。なるほど」
ラグナは興味深そうに目を細める。
「エルフか。しかも、随分と長く生きている」
フィーネは一瞬、身を強張らせたが、逃げなかった。
ヴァイスの背中を信じている。
「彼女に、用はない」
ヴァイスの声は低かった。
「あるさ」
ラグナは軽く肩をすくめる。
「正確には、“お前”に用がある」
森の空気が冷える。
「一族からの伝言だ」
ヴァイスは眉をひそめた。
「……今さら、何の用だ」
「戻れ、ヴァイス」
その言葉は、はっきりとしていた。
「お前はヴァンパイアだ。人里離れて隠居するには、まだ早い」
「断る」
即答だった。
ラグナは、少しだけ目を見開く。
「即答とは……相変わらずだな」
彼は視線を巡らせ、森を見渡した。
「だが、この生活は“仮”だろう?」
ヴァイスの指先が、わずかに動く。
「夜に紛れて、人のように生きる。
それが、お前の望んだ未来か?」
その言葉に、フィーネの肩が小さく揺れた。
「……ヴァイスは、ここにいる」
彼女は、静かに言った。
ラグナは初めて、はっきりとフィーネを見る。
「ほう。意思のある声だ」
「彼は……」
フィーネは言葉を探しながら続ける。
「選んで、ここにいるの」
ラグナは一瞬だけ黙り込み、やがて笑った。
「選んだ、か」
その笑みは、嘲るようでもあり、どこか寂しそうでもあった。
「ヴァンパイアが“選ぶ”など、珍しい」
「俺は――」
ヴァイスが口を開く。
「選ばなかった時間の方が、長い」
ラグナの表情が、わずかに変わった。
「……それでも、夜は逃がしてはくれん」
彼は一歩、前に出る。
「一族は動いている。
お前が何を守ろうとしているのか、いずれ知られる」
その視線が、再びフィーネへ向けられた。
「長命種のエルフ。しかも若い心」
「触れるな」
手を伸ばしたラグナにヴァイスの声が、鋭くなる。
ラグナは両手を上げ、降参の仕草をした。
「安心しろ。今日は忠告だ」
彼は外套を翻す。
「選ぶなら、覚悟を持て」
それだけを残し、闇へと溶けていった。
足音が消え、森が元の静けさを取り戻す。
フィーネは、しばらく黙っていた。
「……ヴァイス」
「大丈夫だ」
彼は振り返り、彼女を見る。
「危害は加えさせない」
フィーネは少しだけ首を振った。
「そうじゃなくて……」
言い淀む。
「ヴァイスは、戻る場所があるんだなって」
その言葉は、責めるようでも、悲しむようでもなかった。
「ある」
ヴァイスは、正直に答える。
「だが、選ばない」
フィーネはその言葉を噛みしめるように、目を伏せた。
「……そっか」
それ以上、何も言わなかった。
夜霧が、二人の間を流れていく。
ヴァイスは気づいていた。
この出来事が、ただの警告では終わらないことを。
森の外から、世界がこちらを見始めている。
そしてそれは、
二人だけでは完結しない夜の始まりだった。




