1. 暗闇の森で、ひとつ屋根の下
暗闇の森は、昼であっても夜の名残を抱えていた。
幾重にも重なる枝葉が陽光を拒み、足元には湿った落ち葉と、長い時間を吸い込んだ土の匂いが広がっている。
——里を出た。
その事実を、私はまだ、正しく受け止めきれていなかった。
三百三十六年生きてきたハイエルフとしての私は、規範と役割の中で育った。
何を学び、何を語り、誰と関わるべきか。
すべてが決められていて、疑う余地などなかった。
けれど、ある日ふと、気づいてしまったのだ。
——私は、何も選んでいない。
その思いが胸に残ったまま、私は森を彷徨い、そして——。
「……足元、滑る」
低く抑えた声が、すぐ近くで響いた。
驚いて立ち止まると、闇の中から一人の男が姿を現した。
夜の色を纏ったような気配。赤い瞳。
ヴァンパイアだと分かるまで、そう時間はかからなかった。
「……怪我は」
問いは短く、視線は私を捉えているのに、どこか距離がある。
「だ、大丈夫……」
そう答えた私の前に、彼は何も言わず進み出て、絡まった枝を払った。
その動きは慣れていて、静かで、無駄がない。
——怖いはずだった。
里で聞いてきたヴァンパイアの話は、どれも危険で、近づくべきではない存在として語られていたから。
なのに。
(……優しい)
そう感じてしまった自分に、戸惑う。
「……この先に、住処がある」
彼はそう言って、私を見ないまま歩き出した。
拒絶でも、勧誘でもない。
ただの事実の提示。
それが、なぜか心地よかった。
森の奥。
巨大な古木の根に沿うように建てられた、石と木の家。
中は意外なほど整っていて、生活の痕跡がきちんとあった。
「……ここにいれば、夜明けまでは安全だ」
「……ありがとう」
私がそう言うと、彼は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「……礼を言われるほどのことはしていない」
そう言いながら、彼は湯を沸かし、火を入れ、私の前に温かい飲み物を置く。
言葉は少ない。
でも、行動が途切れない。
(……世話焼き)
そんな言葉が浮かんで、私は小さく笑ってしまった。
「……何だ」
「ううん。なんでもない」
火の揺らぎを見つめながら、私はぽつりと言った。
「ねえ……私、里を出てきたの」
彼の動きが、一瞬止まる。
「……理由は」
「まだ……自分でも、ちゃんと言えない」
嘘ではなかった。
言葉にしてしまえば、戻れなくなる気がしたから。
沈黙。
やがて、彼は低く言った。
「……戻る場所は」
「……今は、ない」
その答えに、彼は何も言わなかった。
ただ、私に毛布を掛ける。
その距離が、近い。
近すぎて、胸が少しだけ、早くなる。
「……夜は冷える」
それだけ言って、彼は距離を取った。
——拒まれたわけじゃない。
でも、踏み込みすぎない。
その境界線が、はっきりしている。
(……この人は、私を守ろうとしてる)
でも同時に、
(……縛らない)
それが、伝わってきた。
私は、カップを両手で包み、勇気を出して聞いた。
「……しばらく、ここにいてもいい?」
彼は、すぐには答えなかった。
長い沈黙。
夜の音だけが、家を満たす。
「……危険だ」
やがて、そう前置きしてから。
「……それでもいいなら」
条件付きの、許可。
それなのに、胸が熱くなった。
「ありがとう」
「……約束しろ」
「なにを?」
「……勝手に、いなくならない」
その言葉に、私は目を見開いた。
——守られる側に、約束を求める。
それは、対等の印だった。
「……うん」
私は、頷いた。
「約束する」
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ——本当に少しだけ、安堵したように息を吐いた。
暗闇の森。
夜に生きるヴァンパイアと、里を出たハイエルフ。
理由は、まだ曖昧だ。
未来も、分からない。
それでも。
(……ここから、始めてみよう)
自分で選んだ場所で。
自分で選んだ、誰かの隣で。
その夜、私は初めて、
「帰る場所」という言葉を、恐れずに思い浮かべていた。




