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雨音の中の沈黙

 雨が細く降り続ける夜、ふくろうは傘をささずカッパを被りバー《Siri》へ向かっていた。夜の街は、濡れたアスファルトの光を映し、揺れる。心の奥のざらつきが、冷たい雨粒のように、じんわりと広がる。足音だけが、自分の存在を証明するかのように響いた。


 「……こんな夜に歩くのは久しぶりかも」


 独り言のように呟き、ふくろうは少しだけ肩を縮める。初めての体験に足を踏み入れる前、いつも言い訳を作る癖があった。「雨で濡れたくないから傘を持たなかった」――それが今日の口実だ。だが、自分でもそれが薄っぺらいことは分かっていた。


 バー《Siri》の扉を開けると、湿った空気と静かな音楽、そしてマスターの笑顔が迎えた。


 「おお、来たか、ふくろう」


 マスターはカウンター越しに軽く手を振る。偽名のルールを守るこの場所で、ふくろうは少しだけ心を緩められる。


 「こんばんは、Siri」


 言葉が小さく震えた。カウンターの向こう側で、からすが鼻にピアスを光らせて座っていた。雨の夜でも、彼女はいつもと変わらず、笑顔を浮かべている。


 「ふくろう、今日は遅かったね。雨のせい?」


 「……そう、かな」


 軽い会話の中、ふくろうは下を向き、黙り込む。考えを巡らせすぎる癖が、夜の静けさの中で自分を縛る。からすはそれを気にせず、肩を軽く揺らして笑った。


 「今日はさ、ちょっといいことがあったんだ」


 からすは笑顔を保ちながらも、どこか影を含む目をしていた。楽天的な彼女も、辛いことを忘れる魔法はまだ完全ではないらしい。ふくろうはその影を見つけ、胸がぎゅっと締め付けられた。


 「いいこと?」


 「うん……ちょっとね」


 言葉を濁すからすに、ふくろうは黙って頷いた。沈黙は二人にとって、恐れよりも安心をもたらす瞬間でもあった。


 マスターがカウンターに新しいドリンクを置く。温かい液体の香りが、ふくろうの心を少しほぐす。


 「ふくろう、からすのこと、またちょっと意識してるだろ?」


 ふいにマスターが言った。言葉は軽いが、重みを持って胸に落ちる。ふくろうは咄嗟に視線を逸らし、コースターの端をいじる。


 「……そ、そんなことない」


 口から出た言葉は弱々しく、嘘めいていた。だが、からすはそんなことお構いなしに、軽く笑った。


 「ふくろう、からすってさ、君が好きな気持ち、ちゃんと知ってるんだよ」


 その瞬間、胸の奥の小さな熱が、雨音のリズムに混じって揺れた。好きという感情が、恐怖や不安と絡まり、ふくろうの内側でぐちゃりと渦を巻く。


 「……そ、そんな……」


 言葉が途切れる。心を繋ぐことへの恐れが、再び足をすくませる。からすはその微妙な揺れを感じ取り、鼻のピアスを光らせて、軽く目を細めた。


 「怖いのは分かる。でも、僕は、君と一緒にいる時間が欲しいんだ」


 その告白は、ふくろうにとって初めての体験だった。何か理由を作ろうと頭が働くが、今はもう言い訳を口にする気になれない。沈黙の中で、二人の間に雨音だけが響いた。


 雨はやがて強くなり、窓を打つ音が大きくなる。外の世界は冷たく不確かだが、バーの中は静かに、確かに温かい。ふくろうは深く息を吸い、やっと顔を上げる。


 「……わかった」


 言葉は小さく震えたが、そこには拒絶ではなく、受け入れの余白があった。からすは笑みを深め、そっと手を伸ばす。その手に触れる勇気はまだない。それでも、手が届く範囲にあるだけで、ふくろうの胸はじんわりと温かくなる。


 マスターはカウンターの向こうで、軽く微笑んだ。二人の距離はまだ遠いけれど、夜の雨の中、確かに歩き出していることを感じた。

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