初めての手
夜の雨は、街の灯りを溶かし、私の胸までじんわりと濡らしていった。
――バー《Siri》を出た瞬間、傘は持っていなかった。
人混みの熱、足音、呼吸。すべてが重く、胸にのしかかる。心臓は早鐘のように打ち、息は浅くなる。
「大丈夫?」
横からの声。からすだった。無造作な声のトーンに、胸がぎゅっと締め付けられる。水たまりを避けながらも、彼女は私の速度に合わせて歩く。
人の波に押され、私は体を縮める。恐怖が筋肉を縛る。けれどその夜、からすはそっと手を伸ばした。指先から伝わる温もりが、全身に電流のように走る。体は硬直し、心は揺れた。
“触れる”とは、こんなにも怖くて、こんなにも温かいものなのか。手のひらの小さな鼓動が、胸に直接触れる。
「…ごめん、びっくりさせた?」
微笑む声。手はまだ離れない。握り返せない沈黙の中、安心が胸を満たす。雑音は雨音だけに変わった。
雨粒が顔を打つ。水たまりに映る自分の影。手の温度。心臓の高鳴り。視界の一瞬一瞬が、私の内側に刻まれる。
あの夜、私は知った。恐怖や不安を抱えたままでも、誰かとつながれる瞬間があると。守られることの意味を、少しだけ理解した。
「怖かったのは、嫌われることじゃない。愛されることだった。」
――30歳になった今も、あの夜の手の温度は胸の奥に消えず、痛みと優しさが静かに共鳴している。




