夜明け前の距離
雨はすでに上がり、夜明け前の歌舞伎町は湿った匂いを残していた。路面には水の名残が光り、冷たい空気が肌を撫でる。
傘を持たず歩く私の肩はひんやりとしていた。それでも恐怖ではなく、心地よさが胸に広がる。前夜の記憶が胸の奥で熱を帯び、思わず手を握る。
――手の中の小さな紙片。「また会おう」――指先で文字をなぞるだけで、胸に小さな光が灯る。
路地を曲がる。古びた看板《Siri》の柔らかな光。扉を開けると、低く響くジャズと温かい灯り。前夜と同じカウンターには、からすの姿。黒いシャツ、短く整えた髪。視線が交わるだけで、胸が跳ねる。
「ふくろう、また来たね」
低く響く声に、笑みがこぼれる。隣に座ると、背中がかすかに触れる。前夜と同じざわつき。胸をかすめる。
「今日は、少し話そうか」
静かに、でも深く心に届く声。期待と不安が入り混じる胸の中で、小さくうなずく。前夜とは違う、親密な時間が静かに流れ始める。
店内の笑い声、グラスの触れ合う音。だが視線は自然とからすに集中する。微笑み、仕草、視線のひとつひとつが、胸をぎゅっと締め付ける。
温かいココアのグラス。指先に伝わる熱が体の奥まで広がる。手を握り返し、微笑む。
「前より、少し落ち着いてる気がする」
軽い言葉の奥に真剣な目。胸がじんわりと熱くなる。
ジャズの低音と雨上がりの空気。二人だけの世界が広がる。視線が交わるたび、胸がぎゅっとなる。言葉にならない感情が、静かに積もる。
離れた席の男性二人。肩を寄せて笑う。横目で見ながら思う。
――怖くても、ここにいることで少しずつ自由になれる。
――誰かの視線に怯える必要はない、心を置ける場所。
そっと手が伸びる。
「ふくろう、近くにいてもいい?」
胸の奥がじんわり熱くなる。迷いながらも、体を寄せる。距離が近いだけで、心が跳ねる。
店の外、夜の余韻。だが、ここにいる限り、外の世界の怖さは遠い。
からすの視線、微笑み、言葉――すべてが心を少しずつ溶かす。
「ふくろう、君って、笑うとちょっと痛そうだね」
胸がぎゅっとなる。視線をそらす。
「……そんなこと、言わないで」
小さな声。だが、その一言が心に響く。
肩をすくめて、柔らかく笑うからす。
「ごめん。でも、本当のことだろ?」
怖さと心地よさが同時に胸を押す。正直に、自分を見透かされたような感覚に震える。
閉店時間、灯りが落ち着き、冷たい空気が流れ込む。
「また来るんだろ?」
問いかけに、小さくうなずく。胸には確かな決意。
夜風が頬を打つ。冷たいはずなのに、胸の奥は温かい。指先にはメモの感触が残る。
――怖くても、ここに来る。
――あの視線に、もう一度触れたい。
――少しずつ、心を預けてもいいかもしれない。
あの夜、私は自分の変化に気づいた。
怖さは残る。でも、誰かと心を交わす楽しさを知った。
まだ歪でもいい。少しずつ、自分の心を信じられるようになる。
――次の夜、またここに来るだろう。心がそう決めていた。




