バー《Siri》の夜
行き場を失った女子高生は、なぜかゲイバーへと誘われる
夜の歌舞伎町、傘もささずに歩く私は、濡れた髪が頬に貼りつく感覚すら気にならなかった。足元の水たまりに映る街灯の光が、まるで誘うように揺れている。
怖かった。世界も、人も。でも雨に濡れると、心の泥が洗い流される気がして、少しだけ潔癖になれた。だから、雨の日が好きだった。
路地裏、突き当たりに小さな明かり。古びた看板に《Siri》と書かれたバーがぽつんと浮かぶ。誰も知らない、息をひそめるような存在。濡れた石畳、反射するネオンの赤、風に揺れる看板の文字――全てが静かに光る。
扉に手をかける。カラン、と鈴が鳴った。中は暗く、静かで、外の喧騒とは別世界だった。男同士がキスをし、女同士が抱き合う。怖くなった私は、そっと出口に手を伸ばす――
「いらっしゃい……初めてだね?」
中性的なマスター、Siriの柔らかく少し低い声に、心の奥が緩む。
カウンターに座り、震える声で訊ねた。
「ココア、ありますか」
アルコールを頼む勇気はなかった。
Siriは笑いながらグラスを温め、言う。
「ここではみんな偽名で過ごすんだ。本名を名乗らないのがルール」
「……偽名?」
「そう。ちょっとだけ自由になるため」
胸の奥が少し軽くなる。私は口から出た言葉を名として告げた。
「じゃあ……“ふくろう”で」
「ふくろうね。いい名前だ」
カウンターの隅、黒いシャツにジャケットを羽織った人――からす。短い髪、目の奥に光を宿す。Siriの紹介を待たずに言った。
「私は“からす”。よろしく、ふくろう」
視線が合った瞬間、心臓がぎゅっと締めつけられる。怖い、でもなぜか安心する。
「未成年でしょ? Siriに怒られない?」
「……ココアです」
「なるほど、安全牌だ」
微かな挑発と笑み。胸の奥が熱くなり、背中に小さな震えが走る。からすの視線が私の心に絡みつく。
奥のスピーカーからジャズが流れ、Siriがグラスを磨く音。からすは時折、じっと私を見つめる。視線が交わるたびに胸が熱くなる。怖いけれど、心地よい。
ふと、からすが小さなメモを私の前に置いた。
「また会えるといいね」
指先で触れた瞬間、胸に小さな灯がともる。男が怖いと思っていた世界が、少し揺らいだ。からすが男か女か、それすらどうでもよくなる。
閉店の時間、外はまだ雨。Siriが「またおいで」と微笑む。からすがコートを羽織り、耳元で囁く。
「君の笑い方、どこか痛そうだね」
胸の奥がざわつく。誰にも言われたことのない言葉。涙がこぼれそうになり、同時に、知らない感情――痛みと安心、怖さとときめき――が混ざり合った。
店を出ると、冷たい雨が頬を打つ。だが心の中には、温かい光が残っていた。手に、からすの置いたメモの感触を覚えている。次にここへ来る理由、そしてあの視線に向き合う理由。
あの夜、私は初めて、人の目をまっすぐ見た。偽名の世界で、ほんの少し本当の自分になれた。“歪でもいい”――そう思えた最初の夜。
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