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外堀は気づいた時には埋められているもの

作者: 和執ユラ

誤字報告を利用してくださる方は、必ず活動報告「誤字報告に関するお願い」(https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2457559/blogkey/3237686/)をご確認ください。よろしくお願いします。

要約:誤字報告は受け付けていますが誤字以外の添削は基本ブロックします。


 大国ルノロベールの第二魔術師団といえば、主に魔物討伐の任務を請け負う実力者集団として国外にまでも名を轟かせている。また、師団長が王弟であることも有名だ。

 朝。その王弟の私室がある王宮の一角の前にラシェルはいた。白茶色の髪を揺らし、琥珀色の目で前を見据えて歩いている。


「補佐官殿、おはようございます」

「おはようございます」


 王宮の奥、王族の私的なスペース。当然ながら警備が厳重で、関係者以外は立ち入り禁止だ。出入り口には近衛隊の警備騎士が常駐している。

 今日の警備担当である顔馴染みの騎士たちと挨拶を交わして、ラシェルは王弟の私室に続くスペースへと足を踏み入れた。


 ルノロベール王国第二魔術師団長補佐官。それがラシェルの肩書きである。

 仕事内容は文字どおり、師団長の補佐だ。しかし、ラシェルは魔術師団の団員ではない。元々事務員として魔術師団に雇用されたけれど、気づけば第二魔術師団長の事務処理の補佐を、と補佐官に抜擢されていた。そのため、魔物討伐等の任務に戦闘員として参加することはない。あくまで事務処理専門の補佐官である。


 そのはず、なのだけれど……。


 ラシェルが王弟の私室の前の廊下に到達すると、私室に繋がる扉の前に茶髪のメイドの姿が見えた。困ったようにオロオロしているその姿も見慣れた光景だ。


「ラシェルさん〜」


 ラシェルと目が合うと、メイド――クロエは救世主を見つけたような顔で駆け寄ってきた。それからラシェルの手を両手で握る。


「今日もだめでした、お願いします!」

「はい、わかりました」


 切実な目で懇願されて、ラシェルは承諾の言葉を紡いだ。

 扉の前まで移動して、形だけのノックをする。返事はどうせ返ってこないので勝手に扉を開けて中に入った。

 天蓋付きの大きなベッドへと歩みを進めれば、クロエも後ろからついてくる。


 ベッドの傍らで立ち止まったラシェルは、眼前にいる男性を見下ろした。

 人間離れしたまさに神のような美麗な顔立ちの青年は、静かに寝息を立てている。何度も声をかけたであろうクロエの努力も虚しく、起きる気配がまったくない。

 彼こそが王弟であり第二魔術師団長リュドヴィック・ヴィダル・ルノロベール。この部屋の主人だ。


「師団長様、朝ですよ。師団長様」

「んー……」

「起きてください」


 ラシェルの声に唸ったリュドヴィックは、少し顔を顰めて寝返りを打ち、うつ伏せになる。枕に腕を回して顔を埋めたのでもう一度ラシェルが呼ぶと、リュドヴィックは顔だけをこちらに向けた。薄らと瞼が上げられ、花緑青の瞳が露わになる。


「……ラシェルか?」

「はい」


 確認の問いにラシェルが返事をすると、枕に頭を預けた状態のリュドヴィックは軽く微笑んだ。


「おはよう、ラシェル」

「おはようございます、師団長様」


 美しい顔に浮かべられた微笑みにクロエがよろけるけれど、ラシェルは無反応を貫き通す。

 もう魔術師団の朝の訓練が始まる時間だ。会議はそろそろ終わる頃だろう。つまり、出勤時間はとっくに過ぎている。まだベッドの上で呑気に寝転がっているこの師団長様は、思いっきり遅刻しているのである。


 リュドヴィックはとにかく朝が弱く、遅刻常習犯であり、メイドたちが起こそうとしてもなかなか起きない。ラシェルは彼の補佐官になってから、こうして朝、彼を起こしにくることも職務の一環になってしまっていた。

 この場にいつものようにラシェルがいることで己が寝坊していることなど察しているはずなのに、リュドヴィックは焦りを一切見せず、ラシェルの目を見つめ返すだけで起きようとしない。


「無駄に色気を振りまいていないで、ご支度なさってください」

「我が補佐官殿は手厳しいな」


 小さく笑いを零しながらようやく起き上がったリュドヴィックは、片膝を立ててそこに腕をのせ、前髪を掻き上げる。シャツの前がはだけており鍛えられた胸元が丸見えで、クロエは恥ずかしそうにしながらラシェルの後ろに隠れた。

 リュドヴィックはとにかく顔立ちが素晴らしいので、それも相まって色気が爆発しすぎている。男性の比率が高い魔術師団で訓練光景を目撃することもあるラシェルは上半身くらいなら見慣れているけれど、クロエには刺激が強いようだ。


「色気しまってください」

「難しいことを言う」

「そのうち襲われますよ」

「そういう者はとうの昔に追い出しているから心配ないだろう」


 なんとも言えない表情になったラシェルは一度ため息を吐く。

 リュドヴィックはその美貌と王弟という立場から、本人の意思とは関係なしに数々の女性を虜にしてきた。使用人の夜這いも多かったそうで、リュドヴィックの私室担当の使用人の入れ替わりは激しかったらしい。今ではリュドヴィックに忠誠心の厚い使用人で周りを固めることができているため、そのような懸念はほとんどないのだ。

 しかし、ラシェルはそんなことを言いたいのではない。リュドヴィックはそれを理解していながらもこの発言なのである。


「とにかく、準備をお願いします」


 クロエの背に手を添えながらそう告げたラシェルは、クロエを支えながら扉へと歩みを進める。


「わかったよ、補佐官殿」


 後ろから柔らかさを帯びた声が聞こえたのを確認して、クロエと共に退室した。

 メイドは仕える主人の支度を手伝うのも仕事のうちだけれど、リュドヴィックはそれを嫌うので身支度は一人で済ませる。使用人はノータッチだ。


「ありがとうございました、ラシェルさん」

「いえ、いつものことですから」


 クロエにお礼を言われて、ラシェルはにっこりと笑う。

 リュドヴィックが寝坊して、ラシェルが起こして、朝から無防備で目に毒なリュドヴィックの姿にメイドが照れる。ここまでが決まった流れになって久しい。クロエは比較的新しく王弟の私室周りに配属されたので、リュドヴィックの容姿に慣れるまでまだまだ時間がかかりそうだ。


「それにしても、殿下はラシェルさんだとあっさり起きてくださいますね。私たちの毎朝の格闘が虚しいです」


 リュドヴィックを起こす担当のメイドは他にもいて、皆で苦労を吐き出し合っているらしい。


「いつもお疲れさまです」

「ラシェルさんこそ、ほぼ毎朝……本来なら補佐官のお仕事に含まれていないのにお疲れさまです。ラシェルさんがいてくださってとてもありがたいです」


 最大級の謝意が込められた眼差しをクロエから送られて、ラシェルは苦笑する。大袈裟ではないかと思うのだけれど、メイドたちは本当に苦労しているのだろう。


「殿下、ラシェルさんの前では雰囲気が柔らかいですよね」

「そうですか?」

「そうですよ! 声音も優しさが溢れてますし」


 確かに、ラシェルがリュドヴィックの補佐官になる前――ただの事務員だった頃、たまに見かけた彼は近寄りがたい雰囲気だったように思う。しかし、ラシェルが補佐官になった当初からリュドヴィックはあの態度で接してくれていた。

 ラシェルが十七歳という若さで補佐官に抜擢されて、もうすぐ二年が経とうとしている。今のリュドヴィックがすでに当たり前になっているので、意外などと言われてもいまいちピンと来ない。


「お二人がついに恋人になったって、冗談でもなんでもなく、毎日のように使用人たちの間で噂になるんですよ?」

「私は平民ですから、そんなことにはなりませんよ」

「ええー? だって殿下は絶対……」


 クロエが途中で言葉を切るので、ラシェルは首を傾げた。するとクロエがもどかしそうにしながらも、一度閉じた口を開く。


「すごくお似合いだと思います!」

「師団長様にはいずれ、素晴らしい恋人ができると思います」

「ラシェルさん〜」


 正直な気持ちを伝えただけなのに、クロエに盛大に嘆かれてしまった。




 数時間後。王宮の敷地内に佇む魔術師団本部、第二魔術師団長用の執務室にて、リュドヴィックは大量に積み上げられている書類のチェックを次々と終わらせていた。別の机でその手伝いをしながら、ラシェルはちらりとリュドヴィックを窺う。

 黙々と働いている姿は朝の光景からは想像もできないほど真面目に見える。朝起きることに関してだけはだらしない人ではあるけれど、実際のところ責任感はきちんと持っているし、仕事はしっかり終わらせる人だ。とはいえ、寝坊を直せるのならぜひとも直してほしいものである。


 ラシェルは手元の書類に意識を戻し、一枚一枚目を通していった。

 この地方の魔物の数が増えている、この町周辺の魔物討伐は完了、新人団員の訓練の進捗等々。その内容を確認し、ミスがあれば戻す、必要な資料があれば確認して付け足し、まとめてリュドヴィックに回す。リュドヴィックの決済が終わった書類もサインのミスがないか等を確認する。それらがラシェルの主な仕事内容だ。


(えっと、この地方の魔物の資料は確か……)


 考えながら、ラシェルは壁に沿って設置されている本棚の前に移動した。目的の本を発見して背伸びをして手を伸ばすけれど、ぎりぎり取れるか取れないかという高さで体がぷるぷる震える。

 すると、横から伸びてきた手が軽々と本を取った。


「この高さは俺に頼めといつも言っているだろう」


 呆れ混じりにリュドヴィックはラシェルに本を渡す。


「無理に取ろうとして、本が落ちてきて怪我でもしたらどうする。そんなことになったら、すぐそばにいたのに君に怪我をさせてしまった自分を俺は許せないぞ」

「申し訳ありません。気をつけます」

「そう言って結局また自分でなんとかしようとするのが君の悪い癖だ」


 どうせ聞き入れないんだろうと、こちらを見る花緑青の瞳が語っている。


「気を遣いすぎるな。いつも起こしにくる時のように、普段から俺を雑に扱えばいい」

「あれは例外です」


 本人も寝起きの悪さに問題があると自覚しているにもかかわらず改善される気配がなく、毎度毎度わざわざリュドヴィックの自室まで起こしにいかなければならない生活を二年近くも送っていれば、自然とああなるものだ。どんなに尊敬している相手であったとしても。


「君は、本当に俺に頼ろうとしないな」

「頼もしい方だと思ってますよ」

「そうじゃなくて……」


 何か言いたそうにしていたリュドヴィックだけれど、言葉を呑み込んでため息を吐く。


「少し休憩にしよう。いい菓子がある」


 その提案どおり休憩を挟むことになった。自分用の紅茶をラシェルが用意し終えたところで、自室にお菓子を取りにいっていたリュドヴィックが戻ってきた。すでにお皿にお菓子を広げているようで、応接用のテーブルに置く。

 リュドヴィックに促されて、ラシェルはテーブルを挟んで向かい合わせに置かれているソファーの片方に先に座った。視線をテーブルに落とし、お皿の上の見覚えがあるクッキーに瞠目する。

 そんなラシェルに気づいたリュドヴィックが、もう一方のソファーに座って不思議そうな眼差しを向けてきた。


「どうかしたか?」

「いえ……その、今朝確認した師団長様宛の贈り物の中に同じものがあったので」

「ああ。人気らしいからな、これ」


 少し前にオープンした人気の菓子店のもので、美味しさもさることながら見た目もおしゃれなため、令嬢たちの間でかなり流行っていると聞いた。その詰め合わせが、魔術師団に届いたリュドヴィック宛の差し入れの中にあったのだ。


「それで、()()入っていた?」

「媚薬が」

「芸がないな」


 よくあることなので、リュドヴィックは驚くでもなくつまらなそうに言いながら、カップにコーヒーを注ぐ。

 団員宛の差し入れや贈り物が届けられることも多い魔術師団だけれど、リュドヴィックはそのような贈り物を一切受け取らない。特に飲食物については、何が入っているかわからないためだ。基本的に差し入れはすべて処分である。

 そのことを周知しているというのに贈り物は定期的に届くのだから、それほどリュドヴィックの人気が高いということである。


「なんでなくならないのか、本当に不思議だ」

「師団長様は素敵な方ですから、薬を利用してでも、と考える気持ちは理解はできます」


 王弟であり第二魔術師団の師団長という地位にありながら婚約者も恋人もおらず、文句なしの美貌を持つ二十二歳のリュドヴィック。結婚相手として彼ほどの優良物件は現時点では国内に他にいないのだから、令嬢たちが必死になってその心を掴もうとあれこれ手を打つのは当然のことと言える。


「理解できるのか。――なら、君は俺に何か盛らないのか?」

「そのようなこと、するはずがありません。理解できるのは気持ちだけで、それを実行してもいいという思考は理解したくもないです」

「だろうな。そうでなければ、君はとっくにこの役職をクビになっている」


 どこか残念だとでも言いたげな雰囲気で、リュドヴィックは立ち上がった。


「君にとって俺は上司であり、王弟であり、――恩人。だから俺に迷惑がかかるようなことをしない、頼ろうとしない。君は俺の役に立ちたいだけで、それ以上のことを望むのは分不相応だと自制している」


 ラシェルの隣に腰掛けたリュドヴィックは、そっとラシェルの白茶色の髪に触れる。


「俺は君になら、何をされてもいいんだがな」


 優しく、楽しそうに、そして試すように。リュドヴィックは伏し目がちにラシェルを見つめて囁いた。

 まるで好きな相手を誘惑するかのような所作、熱が感じられる花緑青の瞳。それらを気のせいだと否定して、ラシェルは冷静であろうと努める。


「師団長様、お戯れが過ぎます」

「いい加減、気づいていないふりはやめろ。――いつになったら、俺を男として意識していると認めるんだ?」


 ラシェルは息を呑んだ。努力も虚しく、リュドヴィックはラシェルの心を簡単に乱してくる。


「おやめください」

「ラシェル」


 真剣な、誤魔化しは許さないという双眸が、ラシェルを捉えている。


「違うと言うのなら、俺の目を見てはっきり否定しろ。こうして触れられるのは嫌だと拒絶しろ」

「……っ」


 口を開きかけたラシェルは、しかし拒絶の言葉を紡ぐことができなかった。自分自身をも誤魔化し続けてきたのに現実を突きつけられて、ラシェルは視線を逸らす。


「そうなるよな。君は俺に嘘をつけない」


 そうだ、ラシェルは彼に嘘をつけない。つきたくない。わかっていてリュドヴィックはラシェルの逃げ道を塞いだのだ。


「遠慮せず、もっと早いうちにこうするべきだった」


 リュドヴィックが満足そうに目を細める。ラシェルの頭の中では警鐘が鳴る。

 きっと彼は、ラシェルの気持ちに前から気づいていたのだろう。もしかすると、ラシェルが自覚するよりも先に。

 ずっとその事実から目を逸らしてくれていたようだけれど、もうそのつもりはないらしい。


「私は平民です」

「君の立場だと、それは容易く覆せるだろう? 身分は俺を拒絶する理由にはならない」

「そういう問題では――」


 この状況をどう回避すればいいのか焦るラシェルだったけれど、室内にノックの音が響いて二人の動きが止まった。


「師団長! 緊急連絡です!」


 続いた切羽詰まった声に、リュドヴィックはラシェルから離れて扉まで歩き、扉を開けて外の団員に報告を求める。


「南西の森に魔物が――、現在騎士団が対応しているようですが――……」

「わかった、すぐに行く」


 団員にそう告げてこちらに戻ってきたリュドヴィックは、カップに入れていたコーヒーを一気に飲み干した。


「ラシェル、君はゆっくり休憩してから仕事を再開してくれ」

「……承知しました」


 ラシェルの返事を聞くと、「じゃあ行ってくる」と、リュドヴィックはあっさり出ていってしまった。

 一人になった空間でラシェルは体から力が抜け、よろよろと背もたれに寄りかかり、安堵の息を吐く。

 顔がほてっているのは、気のせいではなかった。




 任務を片付けて数時間で無事に戻ってきたリュドヴィックに緊張したラシェルだったけれど、結局はいらぬ心配だった。任務の報告や後処理、他にも急な仕事が入ったためか、休憩時間のことなどなかったかのようにリュドヴィックは黙々と仕事をこなし、定時になるとラシェルをさっさと帰したのだ。あの出来事は夢だったのかと疑いたくなるほどに何もなかった。

 そして夜、ラシェルはある貴族の邸を訪れていた。


「ラシェル、おかえり」

「ただいま、ユーグ」


 エントランスホールで使用人に迎えられていたところに、遅れて明るい茶髪に紫の瞳の少年が現れた。ラシェルの亡くなった姉夫婦の息子であり、姉弟のように育った甥のユーグだ。

 ここは王都のデュラン侯爵邸で、ユーグはデュラン侯爵家の跡取りである。一時期ラシェルもこの邸でお世話になっていたので、ラシェルにとっては実家のような場所とも言えた。


「また背伸びた?」

「先週会ったばっかでそんな変わんないだろ」


 十四歳のユーグはもうとっくにラシェルの身長を追い越している。普段は学園の寮で生活していて、週末は侯爵邸に帰ってくるため、ラシェルもユーグがいるタイミングで侯爵邸で夕食を食べている。よって、基本的に毎週顔を合わせているのだ。

 二人で楽しく会話をしながら食堂に移動すると、先に席に着いていた男性と目が合った。


「おかえり、ラシェルさん」

「ただいま戻りました、侯爵様」


 ユーグの伯父であり義父であるデュラン侯爵オーバンは、ユーグの父の兄だ。ユーグの母の妹であるラシェルはオーバンからすると血縁的な繋がりは何も持たないけれど、いつもラシェルのことを気にかけてくれる優しい人である。

 ラシェルとユーグも席に着き、夕食が運ばれてきた。侯爵家の食事は一流のシェフが作っているので、相変わらず美味しそうだ。


「魔術師団はどうだ? 何かつらいことはないか?」

「おかげさまで、とても楽しく働かせていただいております」


 今日は問題があったけれど、現実逃避である。


「――リュドヴィック殿下と交際を始めたという噂があるが」


 この話題は何も初めてのことではない。しかしその名前が出て料理に刺し損ねてしまったフォークが皿に当たり、大きな音が鳴った。静まり返った食堂で、ラシェルはいたたまれない気持ちになる。


「……失礼しました。えっと、交際ですよね、師団長様と。そのような事実はございません」

「……そうか」


 二人の視線が痛い。ついでにメイドたちの視線も。


「実は、君に縁談が来ている」

「え」


 落ち着けと自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し、飲み物が入ったグラスに手を伸ばしたラシェルは、予想外の話に目を瞬かせる。


「私が君の身元保証人だから、こちらに話を持ってきたらしい」

「そう、ですか……」


 直接ラシェルに何かしらのアプローチをするのではなくこのような申し込み方をしてきたということは、相手は貴族だろうか。ラシェルは平民だけれど、このデュラン侯爵家との関係やリュドヴィックの補佐をしていると知っている者からすると、デュラン侯爵家や王家に取り入るために利用できると考えるのは自然かもしれない。


「相手はリュドヴィック殿下だ」

「っ、げほ!」


 飲み物を口に含んだタイミングだったのでむせてしまった。吹き出さなかったが幸いだ。

 明らかに動揺したとわかるラシェルの反応に、オーバンとユーグが目を丸くする。


「ラシェル、大丈夫?」

「大丈夫。うん、大丈夫。なんでもない」


 ラシェルは平静を装ったものの、ここまでの様子から、オーバンもユーグも、ラシェルとリュドヴィックの間に何かがあったのだと確信しただろう。

 失敗した。けれど、仕方ないとラシェルは思う。まさか今日のうちに彼との縁談を耳にするなんて予想していなかったので、衝撃はひとしおなのだ。

 だって、任務から帰ってきたあとは本当に何もなかったのに。油断していたところでとんでもない追撃である。


 とにかく動揺の原因には触れないでほしいというラシェルの意図を汲み取ってくれたらしく、二人は特に言及してこない。ありがたい。

 ただし。この話題において、二人がラシェルの味方になってくれることはないだろう。


「縁談は陛下の認可もある正式なものだ。命令ではなく、あくまで君の気持ちを尊重するというお言葉もあるから、もちろん断ることもできる」


 そんなことを言われても、平民のラシェルからすればそれはほぼ王命に近い。ラシェルの心情を察していないはずがないのに、オーバンは畳み掛けるように続ける。


「陛下は弟君にようやく浮いた話が出て大層お喜びだった。しかし、なかなか交際に発展しない状況にやきもきしていたようでな。あの方の性格を考えると、二年はなかなか我慢したほうだと言える」

「俺も何回か陛下にはお会いしたことあるけど、親しみやすい印象だったよ。特に歳が離れてる王弟殿下のことはかなり可愛がってらっしゃるみたいで、確かに婚姻には嬉々として介入なさいそうな方だった」


 ラシェルも魔術師団を訪ねてきた国王に何度か会ったことがある。気さくで優しい人だったし、リュドヴィックとの関係も良好なものだとすぐにわかるほど仲が良さそうだった。やけにラシェルに興味を示しているように感じていたけれど、それはリュドヴィックの気持ちを知っていたからなのかと納得する。


「いつでも縁談を申し込めるように、ずいぶん前から書類を用意していたらしい。緊急で入った任務から帰還した弟君から縁談を申し込む許可を求められ、準備済みの必要書類に即座にサインしてこちらに送ってきたようだ」

「王弟殿下の好きな人が伯父上と縁があることも陛下は相当嬉しそうだったって、王太子殿下が仰ってたな。近々弟が婚約するはずだって、最近はかなり言いふらしてらっしゃったらしいよ」


 そういえば、ユーグは王太子と同級生だ。そして、オーバンは国王の親友である。


「そもそも、君は元は貴族令嬢だ。遡ればそれなりに名のある侯爵家の血筋でもある。我が家に養子に入れば身分は何も問題ない」

「その侯爵家、跡継ぎがいなくて今は空席になってるけど、ラシェルが養子入りは気が進まないならその侯爵位を与えるのもいいかもしれないって陛下はお考えなんだって」


 それは切実にやめてほしい。


「元は貴族の生まれと言っても男爵家ですよ。それも、四歳の頃までの話です」


 ラシェルの生家である男爵家は、数代前の当主の浪費が原因で金銭的な余裕はなかったらしい。両親が亡くなり、自分は領主には不向きだと常日頃から思っていたらしい姉は、爵位を継承しないことを選んだ。そのほうが領民のためになると考えたのだ。そして平民になり、ユーグの父と出会い、ユーグの父の両親に結婚を反対され、まだ幼いラシェルを連れて駆け落ちした。

 だからラシェルには、貴族の娘として育った記憶はほとんどない。そもそも裕福な家ではなかった。

 貴族としての勉強をしたわけでもない。魔術師団に就職する前にある程度の礼儀作法は学んだけれど、それだけだ。


 そんな自分が、王弟の相手として相応しいはずがないのだ。それなのになぜかみんな好意的で居心地が悪い。

 身近な人だけではない。魔術師団や仕事で付き合いのある騎士団、王宮の使用人、王都の街の住民、貴族たちの間でも、ラシェルとリュドヴィックの関係に否定的な意見のほうが少ないという実感はある。

 二人でいると嫉妬に交ざって微笑ましいような視線を感じる。応援していますと声をかけられることもよくある。最近は身分差の結婚もちらほらあるとはいえ、さすがに王族であるリュドヴィックの結婚はそう簡単なものではないはずなのに。


「侯爵様」

「なんだ?」

「私を養子として迎えたいがために、陛下や師団長様をけしかけたわけではありませんよね?」


 二人は縁談に前向きだ。その理由は、ラシェルを家族として侯爵家に迎える好機としてこの縁談を捉えているからである。二人の説得に今まで折れることがなかったラシェルも、さすがに王弟との結婚となると侯爵家に養子に入るのが最善策だと理解していることを、彼らはわかっているのだ。


「確かに私は君に娘になってほしいとずっと思っているし直接伝えてきたわけだが、さすがに王族を出してまで説得するようなことはしない。この話はあくまでリュドヴィック殿下のご意志で、私と殿下、陛下の利害が一致した結果だ」


 案の定の返答だ。わかりきっていることではあるけれど、確認せずにはいられなかった。

 縁談はリュドヴィックが言い出したこと。それほどリュドヴィックは本気なのだという証明だった。オーバンがラシェルを養子にしたがっていることも知った上での話だろう。


「再度注意しておくが、これは命令ではない。縁談を受けるかどうかも我が家の養子になるかどうかも君の自由だ。断ると言うのなら、とても悲しいが仕方ない。ユーグも君と姉弟になる日をずっと夢見ているが、強制していいようなことではないからな。どうしても嫌なら遠慮なく断りなさい。とても悲しいが、仕方のないことだからな。とても悲しいが」

「……」

「ラシェルは恩人に迷惑をかけたくないっていうのが大きいんだろうけど、その殿下に望まれてるのになんでそんな頑なになんの? 好きなら好きでいいと思うんだけど。王家とデュラン家の後ろ盾があるんだから身分はほんとに気にしなくていいし、お似合いだって色んなところで言われてるし。それとも、俺と姉弟(きょうだい)になるのそんなに嫌?」

「それは、違うんだけど……」

「けど?」

「……、〜〜っ」


 二対の目がじっとこちらを見つめる中、ラシェルはどう言えばいいのかわからなくて耐えられなくなり。


「…………お時間を、いただけますか」


 ひとまず、一時的な逃亡を選択した。


「もちろん構わない。後悔がないよう、ゆっくり考えなさい」


 笑顔のオーバンからは「どうせ断れないだろう?」と言いたげな余裕が垣間見え、ユーグからは「往生際が悪いな」と呆れられた。ユーグにはとりあえず恨みがましい視線を向けておいた。



  ◇◇◇



 かつてラシェルが姉夫婦とユーグと共に暮らしていたスーラという町は、ラシェルが十二歳の頃、大量発生した魔物によって襲われた。その際、姉夫婦は魔物に殺された。

 そして、ラシェルとユーグも魔物に殺されそうになった時に助けてくれたのが、当時まだ十五歳で魔術師団の団員だったリュドヴィックだった。

 人間の何倍もの大きさの魔物をあっという間に斃した彼の後ろ姿は、今でもラシェルの目に焼きついている。『大丈夫か?』とこちらを案じた顔も、――『家族を助けられなくてすまない』と詫びた顔も。


 その後、魔物は討伐されたものの町は壊滅的な状態で、ラシェルとユーグは隣町の養護施設に入ることになった。そのことを聞きつけたオーバンがユーグを侯爵家に迎え入れるためにやって来て、ラシェルと引き離すわけにはいかないと、ラシェルまで引き取ってくれたのだ。

 それからは王都での暮らしが始まり、ラシェルは早く自立するために侯爵家の使用人の手伝いをしながら色々と学んだ。せっかくならラシェルも養子に、とオーバンは言ってくれたけれど、デュラン家の血筋ではない自分がそこまで厄介になるのは気が引けた。


 ラシェルにとってリュドヴィックは命の恩人である。ラシェルとユーグを救ってくれた。姉夫婦の仇をとってくれた。だから、恩返しのために就職先は魔術師団を選んだ。

 役に立てればいい。それだけのはずだったのだ。それ以上のことなんて望んでいなかったはずなのに――。


『いつになったら、俺を男として意識していると認めるんだ?』




「はあ……」


 カフェのテラス席で、ラシェルはため息を吐いた。

 色々あったのが昨日のこと。今日は仕事が休みなので、気分転換のために外に出たのだ。

 相変わらず頭の中はリュドヴィックとの縁談が支配している。

 彼が言うように、いつからかラシェルは彼に惹かれていた。その気持ちが溢れないように頑張って蓋をしていたけれど、だめだった。


 デュラン侯爵(オーバン)の養子になれば、確かに身分の問題は解決する。しかし、ラシェルが平民であった事実がなくなるわけではないし、デュラン侯爵家の血を引いているユーグとは明確に立場が違う。彼らは大丈夫だと言うけれど、悪意を持った者たちに付け入る隙を与えてしまうことになる。

 ラシェルという存在が、リュドヴィックやデュラン侯爵家――恩人たちの弱味になるのが、ラシェルは一番嫌なのだ。


 テラスの一角でひたすら懊悩してどれくらいの時間が経った頃か、ラシェルの耳に何かに抵抗する女性の声が届いた。


「いやっ、離して!」


 俯かせていた顔をぱっと上げると、路地に入る手前あたりで女性が男に手を掴まれていた。


「そんな連れないこと言うなよ。一人で寂しいなら遊んでやるってだけだろ」


 明らかに嫌がっている女性を、男はどこかに連れて行こうとしているようだ。周囲にいる人もその異変に気づき、怪訝な顔をしている。


「あの男、お貴族様じゃないか?」

「騎士に通報したほうが……」


 男の服装は上等なもので、裕福な暮らしをしていることが一目でわかる。どこかから「子爵の息子だ」という呟きが聞こえてきた。

 ラシェルは立ち上がり、男女の元へと近づく。


「その人を離してください」

「あ? なんだよ」


 声をかけると、男――暴漢は眉根を寄せてこちらを見た。ラシェルを視認した暴漢は介入したのがまだ若い女だと気づくと、気が緩んだのか少し笑う。


「なに、この子の知り合い?」

「違いますけど、離してください」


 ラシェルが再びそう要求すると、暴漢は品定めするように不愉快極まりない目でラシェルを眺めた。


「あんた可愛いな。いいぜ、あんたが相手してくれるなら離してやるよ」

「いいですよ」


 躊躇いのないラシェルの返事に、暴漢も女性も驚いて目を丸くする。


「はは。なんだ、あんたも男探してたのか?」


 暴漢は目をつけていた女性に興味がなくなったようで、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべて女性の手を離した。ラシェルはそれをしっかり確認して、暴漢が肩に回そうとしてきた手を払う。


「すみません、やっぱり興味ないです」

「はあ? 今更そんなんはナシだぜ。邪魔したんだから責任取れよ」


 ラシェルを捕まえようとまた手が伸びてきたので、ラシェルは素早くその暴漢の後方に回って腕を捻り上げる。


「いでででッ!」


 地面に膝をついて前屈みになりながら痛みを訴える暴漢を冷めた目で見下ろし、ラシェルは「お断りです」と改めて告げた。すると、周囲から「おお……」と感心の声が漏れる。


「っ、くそ、離せよ! 俺は子爵の息子だぞ、こんなことしてただで済むと思ってるのか!?」

「子爵の息子だろうとなんだろうと、あなたは騎士に連行してもらいます。私は魔術師団で働いているので、隠蔽しようとしても無駄ですよ」

「なっ、魔術師団?」


 動揺する暴漢をよそに、ラシェルは女性に視線を向けた。目が合った女性はピクっと肩を揺らす。


「怪我は――」

「それは困るなぁ、嬢ちゃん」


 女性に怪我などないか訊こうとしたところで、三人の男がこちらに近づいてきた。服装はいかにも成金という印象で、立ち居振る舞いからして貴族ではなさそうだ。


「そいつは賭けで俺たちに負けて借金があるんだよ。すぐには返せねぇって言うんで女の調達を頼んだんだ。連れてかれるのは困るぜ」

「――なるほど」


 堂々と自白してくれるとは、手間が省けてありがたい。


「余罪がありそうですね。あなた方も連行したほうがよさそうです」

「ハッ、冗談だろ。多少腕は立つようだが、この人数相手に小娘が勝てると――」

「勝てるだろうな」


 男たちの後ろから、低い声が響く。


「彼女は戦闘員ではないとはいえ、そこらの騎士よりは強い。魔術も使える。だが、彼女が手を下す前に俺がお前たちを屠ってやろう」


 かなり殺気立っているその人物に、男たちは顔を青ざめさせた。


「お、お前は……っ」

「師団長様」


 リュドヴィックを呼んだラシェルの言葉が決定的となり、男たちは彼の正体を確信したらしい。


「王弟だ!」

「逃げっへぶぅ!!」


 優秀な魔術師として有名なリュドヴィックが相手では分が悪いと判断したようで、即座に逃げ出そうとした男たちだったけれど、それはもう勢いよく地面に転んだ。男たちの足がリュドヴィックの魔術で拘束されていたためだ。


「逃がすわけないだろ、クズどもが」


 恐ろしい顔で男たちを睥睨したリュドヴィックは、さらに魔術を発動させた。男たちの体にバチバチと電気が走って野太い悲鳴が上がり、男たちはそのまま気を失う。容赦がない。

 そしてリュドヴィックは、ラシェルがまだ捕らえている暴漢を一層睨みつけた。


「ラシェル」

「はい」

「早くその汚物を離すんだ。それは君に触れられていいような綺麗なものじゃない」

「……はい」


 その言い方と暴漢に向けられた鬼気迫る眼差しから、リュドヴィックの暴漢に対する異様な憤りと不快さを感じた。かなり荒れている上司の様子に、ラシェルは命令どおり大人しく暴漢を解放する。


「ひ、ひぃぃぃぐぶっ!!」


 暴漢も怯えて逃げ出そうとして、男たちと同じくリュドヴィックの魔術による拘束に気づかず盛大に倒れ込む。顎を打ったようで衝撃が強かったのか、そのまま気絶した。


 リュドヴィックがすでに魔術で連絡をしていたようで、騎士がすぐに駆けつけ、男たちを連行していった。

 女性には怪我もなく、騎士が軽く事情を訊き、今日は疲れているだろうからとまた今度詳しく話を訊くことになったそうだ。ラシェルにお礼を言うと、女性は騎士の一人に家まで送られていった。

 野次馬もいなくなり、ラシェルはカフェの会計を済ませ――待ってくれていたリュドヴィックと帰路についた。


「正義感が強いのは結構なことだが、あまり危険な状況に首を突っ込んでほしくはないな」

「申し訳ありません」

「まあ、怪我がなくて何よりだ」


 リュドヴィックが表情を和らげたので、ラシェルは気恥ずかしさで顔を背けた。昨日から彼のことで悩まされているのに、思わぬところで会ってしまった状況に今更ドキドキする。


「師団長様は、どうしてあの場所に?」

「ああ。君にプレゼントを買いたくて店を回ってたんだ」

「そ……う、ですか」


 気を紛らわせようと話題を振ったのに、墓穴を掘った気分である。


「まさかあんな場面に遭遇するとは思ってなかったな。外出してよかったよ」

「助かりました」

「助けたというか、君にあんな愚物の対処をさせたくなくて俺が勝手に手を出しただけなんだがな。君一人で対処可能だっただろうし」


 リュドヴィックはそっとラシェルの手を取る。


「仕方のない状況だったとはいえ、君が他の男に触れているのは面白くないという俺のわがままでしかなかった」

「っ……」


 顔を寄せたリュドヴィックに耳元で囁かれ、ラシェルは身を竦める。すると、リュドヴィックはくすっと笑みを零した。


「ラシェル。少し寄り道しないか?」


 リュドヴィックが示したのはすぐ近くにある公園だった。平民の間ではデートスポットとして有名なのだけれど、彼はそのことを知っているだろうか。


「えっと」

「だめか?」


 リュドヴィックの請う眼差しにラシェルはうっと怯み、「……少しだけでしたら」と押しきられてしまった。そうして二人で公園を歩き、リュドヴィックに誘導されてベンチに並んで座る。


「ここはかなり奥のほうだから、あまり人が来ない穴場スポットらしい」

「そうなんですか」


 確かにあまり人気はない。高さのある茂みや木々に囲まれている空間なので、周りからだとここにベンチがあるとは気づきにくいようだ。


「ラシェル。縁談の話は聞いただろう? 昨日は食事会の日だったはずだよな」

「……はい、まあ」


 今日はその話題には触れないのかと油断しかけていたけれど、そうもいかなかった。


「返事はゆっくりでいい。俺はただ、君に結婚したいと思ってもらえるように努力するだけだ」


 ただ交際するのではなく、結婚前提の関係。王族や貴族であればそれが普通であることはラシェルも知っている。

 貴族の中には平民を相手に()()者もいる。そんな人たちとは異なり、リュドヴィックはとても誠意がある。


「……どうして私なのですか? 師団長様の周りには、綺麗で身分も申し分ないご令嬢がたくさんおられます」

「媚薬を盛るようなご令嬢がまともだとでも言うのか?」

「まともな方々もいらっしゃるでしょう」

「それはそうか」


 皆が過激な手段をとっているわけではない。そこはラシェルもリュドヴィックもわかっている。


「そもそも、誰かを好きになるのに身分や財産が重要か?」

「師団長様のお立場を考えれば、恋愛はともかく結婚相手に求められるものは多いです」


 昔からの感覚であり常識。身分制度が存在しているのだから、そこに拘る人々がいて当たり前だ。特権階級は尚更で、血筋に囚われた考えは根深い。


「それを求めているのは俺じゃなくて周りの貴族連中だろう」


 そのとおりである。彼は王族という特権階級にありながら、選民思想に染まっていない。民あっての王家であり国なのだと理解している。


「……どうして君なのか、か」


 リュドヴィックは考えるように目を伏せ、それからゆっくり視線を上げてラシェルを見つめた。


「最初は、まったく俺に下心がない女性をそばに置けることに安心感があった。君は俺を慕ってくれてはいたが、そこに欲がなかったからな。知ってのとおり、薬を盛られそうになったり俺に襲われそうになったと嘘をつかれたり、女性には苦労させられて来たから、君の純粋な恩義と、そこから来る気遣いが心地よかった」


 少しからかうように「寝坊常習犯の俺に対する扱いの雑さも、普段とのギャップがあってなかなかクセになる」とリュドヴィックが言うので、ラシェルは体から力が抜ける。


「ただ、いつの間にかそれだけでは物足りないと思うようになって……そうだな、気づいたら好きになっていた」


 ラシェルの手を取ると、リュドヴィックは手の甲にキスを落とす。


「俺は、君だから好きになった」


 とても真摯な眼差しと声に、ラシェルの鼓動が速くなる。


「ちなみに、君の顔も好きだ」


 おどけたような表情を浮かべてそう言うので、ラシェルはぱちぱちと瞬きをする。


「こんなに綺麗な子から慕われ続けたら、好きになるのは当たり前だと思うんだが」

「……ふ、ふふっ。台無しですよ」


 今の台詞はあえてだろう。ラシェルの緊張を和らげるため。

 ラシェルの笑みに、リュドヴィックは目を細める。


「少し、ずるい言い方をしよう。君は俺に恩返しがしたくて魔術師団で働いているんだろう? だったらこれからは婚約者として、いずれは妻として、一番そばで俺を支えてくれないか? それが最大限の恩返しになる」


 ラシェルの性格を理解しているからこその揺さぶりだ。


「デュラン侯爵にとっては、君が娘になるのが嬉しいことだろう。何より嬉しいのは君が幸せになることだと思う。例えば、君が無事に好きな相手と結婚する、とかな」

「……確かに、それはずるい言い方ですね」


 否定できない。うだうだ悩んできた自分は、大切な人たちに対して不誠実だったと気づかされる。

 ラシェルが頑張ればいいのだ。本格的に貴族の作法を学んで、王弟の妃として恥ずかしくない振る舞いを身につけて、周りを黙らせればいい。リュドヴィックもユーグたちも協力してくれるし、味方でいてくれる。


 身分がどうこうではない。迷惑をかけたくないなんて甘えだった。

 これは、ラシェルの覚悟の問題だ。


「リュドヴィック様」


 優しくこちらを捉えている花緑青の瞳を見つめて、ラシェルは告げる。


「好きです」


 目を見開いたリュドヴィックは、嬉しそうに微笑んだ。


「俺も、君が好きだ」



  ◇◇◇



 ラシェルがデュラン侯爵家の養子となり、リュドヴィックとの婚約が発表されて、早数ヶ月が経った。その間、反対らしい反対の声はなく、ラシェルは平和に暮らしている。


「どうしてこんなに反発がないのか不思議です」


 リュドヴィックの姉が嫁いでいる公爵家で開催された参加者三人だけのお茶会で、ラシェルはそんな疑問を零した。


「それはほら、ねえ?」

「まったくないわけではありませんけれど、王族を敵に回して大々的に反発する者は少なくて当然ですわ」


 そう返したのは、リュドヴィックの二番目の姉である公爵夫人ジャクリーヌと、その娘である公爵令嬢ジュディットだ。ジュディットは王太子と同じくユーグの同級生なので、ユーグの話をすることでかなり仲良くなった。

 なお、リュドヴィックの一番目の姉と三番目の姉は他国の王族に嫁いでいる。


「リュドヴィックったら、本当に恋愛に興味がなかったの。それが、あなたに出会ってからはそれはもう態度に出ていたわね。あまりの違いに周りのご令嬢たちは当然ショックを受けて、諦める子が続出。デュラン侯爵家の次期当主の縁者というのもかなり効果があったわ」

「叔父様の婚姻はお母様たちの悲願だったんですって。最初は恋愛感情がまったくなかったあなたが少なからず自分を意識してくれるようになったと気づいてから、叔父様は全力で外堀を埋めにかかったそうですわ。わたくしたちやデュラン侯爵、ユーグも協力的ですし、そこに割って入ろうなんて勇者はそうはいないでしょうね」

「正式な話が出る前は往生際悪くリュドヴィックにアプローチしていたご令嬢もたくさんいたけれど、さすがにほとんど手を引いたわね。お兄様とリュドヴィックに歯向かうなんて、そんなの自殺願望でしかないもの」


 王家とデュラン侯爵家、そしてリュドヴィックの姉たちが嫁いだ公爵家と二国――それらを敵に回すのは、確かに愚者だ。


「加えて、ラシェル様ご自身のお人柄もありますわ」

「私ですか?」

「ええ。事務員時代から、叔父様への取り次ぎを相当頼まれていたのでしょう? 中には高位貴族のご令嬢もいたのに臆することなく、許可のない訪問は毅然として追い返し、贈り物は規定どおり容赦なく処分。お金を積まれても脅迫されても屈しない姿が凛としていて素敵なんですって」

「しかも、街で犯罪者の逮捕に複数回貢献。あなたに助けられたご令嬢もいて、その子、リュドヴィックのファンだったのに今ではあなたのファンなの。リュドヴィックとあなたはお似合いだってサロンで熱く語っていたそうよ。リュドヴィックから遠慮せず色んなところで話してくれって公認までもらったみたい」


 貴族令嬢を助けたことも確かにあったけれど、まさかそんなことになっているとは。


「リュドヴィックは最初から、あなたを逃がすつもりはなかったということね」


 外堀とは、気づいた時にはすでに総出で埋められているものである――と、ラシェルは学んだのだった。


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