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伯爵令嬢大暴れ!「ダンスは格闘技ですのよ!」

 八章


 ジジと別れた夜以来、丈太郎は日本大使館と滞在しているホテルの間を無気力に往復するだけの日々を過ごしていた。大使館に行っても、もうやる仕事はない。だからといってル・ブルージュ飛行場に行って飛行機に乗る気も起こらない。

 仕方なく三等書記官たちの雑用を引き受けて、体を動かすことで気持ちを紛らわせた。夜になればホテルに引きこもり、もうモンパルナスの街に行くことはなかった。

 丈太郎はジジが許せなかった。

 ―彼女は僕のことが好きだった訳じゃない。ただ、僕が持っている基地の情報のために近づいただけなんだ。ジジは色気を武器にする女スパイだったんだ。そんな女と結婚を考えるなんて僕はおめでたい・・・・―

 丈太郎の心は激しく傷ついている。ジジをひどい女だと思っている。だが、二度と会いたくない許せない女だと思っても、脳裏に浮かぶのは自分に向かって微笑む優しい顔や、月明かりに浮かぶ美しい顔ばかり。

 憎もうとすればするほど、心の底から好きだった気の強そうな大きな目や、ツンと上を向いた鼻を思い出してしまう。そんな自分が情けなかった。

 しかも、本来ならば古賀大佐に、自分が集めた情報をジジが狙っていた可能性が高いと報告しなければならない。そして古賀の判断次第では、フランスの捜査当局にも通報しなければならない。

 だが、どうしてもそれはできなかった。重大な職務違反とわかっていても、ジジを警察や憲兵隊に引き渡すことはできない。心の葛藤から丈太郎は、すっかりやつれてしまった。

 革命記念日前夜祭の前日。丈太郎は滞在しているホテルのレストランで、1人で夕食をとっていた。食欲はないが何か食べないと病気になってしまうと思い、蒸し鶏のマスタードソース添えにコンソメスープを注文した。

 このホテルのレストランは派手さはないが、宿泊客以外にも食事に訪れる人がいるほどで、味はなかなかのものだ。だが、今の丈太郎には何を食べても味気なく感じた。

 隅の席で1人でモソモソと食べていた時、急に店内がざわつき始めた。丈太郎が気にもせずに蒸し鶏をフォークでつついていると、突然、目の前の席に誰かが座った。顔を上げた先にはキキの笑顔があった。

 店内がざわついていたのは、店に入ってきた絶世の美女に男性客やウェイターたちが騒いでいたからだった。“モンパルナスの太陽”は地味なレストランを一気に華やかな場所に変えていた。

「こんばんは、ジョー。お元気? ・・・・・・でもないみたいね」

 丈太郎が料理をあまり食べていないのを見て、キキはウェイターを呼んで自分の分のフォークとナイフを持ってこさせる。

「せっかく頼んだのに、食べないともったいないじゃない。残すんなら、わたしが手伝ってあげる」

 そう言って蒸し鶏の乗った皿をテーブルの中央に引き寄せて、丈太郎と一緒に食べだした。キキは丈太郎の目を覗き込む。

「ジジとケンカしたの? あなたも落ち込んでるけど、あの子もひどいわ。アパルトマンに閉じこもりっきりで電話をしても出てくれない。一体、ジジと何があったの?」

 丈太郎は旺盛な食欲のキキにムキになって、食欲もないのに先ほどより速いペースで食べ始めた。

「君はジジが何をしていたのか知らないのか? 彼女は大変なことに関わっているんだぞ。僕はそれに巻き込まれかけたんだ」

 キキはしばらく黙々と食べた。あっという間に蒸し鶏を平らげて、アイスクリームを3つ注文した。ウェイターがアイスクリームを運んでくると、ウェイターに一つを自分に、あとの二つを丈太郎の前に置くように言う。

「あなたは二つ食べなさい。アイスクリームは栄養があるのよ。食欲のないときはこれが一番」

 蒸し鶏をほとんどキキに食べられてしまい、ヤケ食いのようにアイスクリームをかき込んだ。そんな丈太郎をキキは見つめた。

「ジジは大切なことは誰にも言わない。全部1人で決めちゃうの。あの子に初めて会ったのはまだお互いにダンサーをしてた頃。ジジはいつも幸せになることを夢見てた」

 彼女を無視するようにアイスクリームを食べている丈太郎のために、キキは自分の分もスッと彼の方に押しやった。

「あの子は幼い頃に両親が亡くなって、田舎の修道院で育てられたの。でも、そこの暮らしが合わなくて14歳の時に飛び出したそうよ。それからパリに出てきて、ずっと1人で生きてきた。女の子が1人で生きてきたんだもの。それは苦労してきたと思う。だから、あの子は人一倍幸せになりたいって願ってた」

 アイスクリームをかき込みながら、丈太郎は黙って聞いていた。

「ある日、ジジは簡単でお金になる仕事を見つけたと言ってダンサーをやめた。仕事の内容は教えてくれなかった。それからジジは何をやってるのかわからない生活を始めたの」

 丈太郎は瞬く間に2人分のアイスクリームを食べてしまった。キキが前に置いたアイスクリームに手をつける。キキはそんな丈太郎を見て少し寂しそうに微笑む。

「怪しいことを始めてからジジはお金は持ってたけど、楽しそうじゃなかった。でも、あなたと出会ってからジジは変わったわ。本当に楽しそうに笑うようになった。ジジは本当にあなたが好き。だから、あの子が大変なことに関わっているのなら、あなたが助けてあげて。わたしじゃできないけど、あなたならできる。だって、女の子は好きな人のためなら何でもできるから」

 キキは丈太郎の目をじっと見つめていた。その目は心から友達のことを心配する、温かい目だった。丈太郎は友人のことを思うキキの真心に、つい目をそらしてしまった。意識して意地の悪い声を出す。

「ここだけの話だが、ジジはフランスにも日本にも害をなす犯罪者なんだ。僕のことが好きだった訳じゃない。僕が持っていたものが欲しかっただけなんだ。本当ならジジは今頃、刑務所に入ってなきゃならないんだ」

 挑むような目でキキは丈太郎を見た。

「じゃあ、なんで警察に通報しないの? そんなに悪い女なら、早く警察に捕まえてもらうべきじゃない。ジジは今もモンマルトルのアパルトマンにいるのよ」

 言葉に詰まり返事ができなかった。それができるなら、こんなに苦しくはない。キキは静かに目を伏せた。

「ジジが悪いことをしてたとしても、それは仕方なくやったの・・・・・あなた、パリがどんなところだか知ってる? この街はにぎやかで華やかで、意地悪で冷たい。寂しい時に抱きしめてくれる人がいればいい。でもいないと、パリは人の心の隙間につけ込んで、弱い者いじめをする。寂しかったジジは、この街の意地悪に振り回されてるだけ」

 キキの言うことを振り払うように、丈太郎は声を絞り出した。つらく悲しく、助けを求めるような声だった。

「もういいよ。やめてくれよ。僕はだまされたんだ・・・・・・ジジは僕のことなんか好きじゃなかった・・・・・・」

 だが、キキははっきりと否定した。

「違う。ジジはあなたが好き。あの子が好きでもない人の前で、あんな顔で笑うはずがない。それより、あなたはどうなの? 好きな人が苦しんでる時、助けてあげるのが恋人なんじゃないの? ジジは苦しんでいるのよ?」

 胸がいっぱいになり、答えることができなかった。いつの間にか、テーブルの上のアイスクリームは溶けてしまっていた。何もかもがどうしていいのかわからず、ただ無言でうつむくだけだった。

「ジジがどんなに悪いことをしていようと、あなたが好きでいてくれれば、あの子は絶対に立ち直れる」

 キキは無言の丈太郎を残して静かに席を立った。キキが立ち去るとレストランは急に光を失い、もとの地味な店に戻った。

 再び1人になり、丈太郎はジジと別れた夜よりもっと息苦しくなった。



 革命記念日の前夜。丈太郎はサン・ルイ島にあるシャルル・デ・オン伯爵の屋敷を訪れていた。

 サン・ルイ島はセーヌ河に浮かぶ中州で、隣にはやはり中州のシテ島がある。シテ島はノートルダム大聖堂が有名な観光地だが、サン・ルイ島の方はパリで最も高級な住宅街として知られている。

 高級住宅街と言われる街はパリにいくつかあり、16区などはその代表的な場所だ。だが、これらは高級と言っても一般市民が頑張れば、何とか家を建てられるところだ。しかし、サン・ルイ島は別格だった。

 昔から貴族や代々続く大富豪の豪邸が立ち並び、どんなに頑張っても庶民に手が届く場所ではない。フランスは革命を起こし王を処刑して共和国を作るほど市民の力が強い国だ。それでもサン・ルイ島のたたずまいは、フランスに依然として特権階級が存在し、市民と明確な線引きがあることを意識させる。

 デ・オン邸では革命記念日の前夜祭として、毎年盛大なダンスパーティが催されていた。もともとこのパーティは伯爵が2人いる娘のために数年前から開催しているのだが、社交的で楽しいことが好きな伯爵は娘たちのためだけでなく、パリの若い紳士、淑女に出会いの場を提供しようと広く開放しているのだった。

 伯爵の長女は2年前に、このダンスパーティで知り合ったフランス政界のプリンスと結婚し、今ではパーティの主役は次女のアナベラに移っている。

 ジジとの別れの理由を語らず、見かねるほど無気力に陥っていた丈太郎を元気づけようと、ジャン=ピエールは丈太郎をこのパーティに誘ったのだった。

 仕事より夜の街の方が好きなジャン=ピエールだが、実はこれでも貧乏貴族の次男坊で、デ・オン家のパーティに参加する資格を持っている。

 ジャン=ピエールに引きずられるように屋敷に入った丈太郎は、その荘厳さに圧倒された。パーティ会場の大広間にはいたるところにルネサンス時代の絵画や彫刻が飾られており、見上げれば格式の高い教会にも負けない天井画が施してあった。

 広間の隅には音楽を奏でるオーケストラが控えていて、長く広大なテーブル上は、いつでもつまめるように、豪華な料理や新鮮なフルーツが山のように積み上げられていた。

 そして、美しく着飾った男女たちの間をウェイターがトレーを片手に優雅に歩いており、合図をすればすぐにシャンパンやワイン、コニャックなどを運んでくれる。

 モンパルナスの騒々しいパーティと種類は違うが、これはこれで夢と現実が交錯する、心躍る空間だった。


 今日のジャン=ピエールは陸軍航空隊の礼装を着こなしている。ウェイターからシャンパンを満たしたグラスを二つもらい、一つを壁にもたれている丈太郎に差し出した。

 丈太郎も今夜は伯爵家のパーティという場所に合わせて、純白の軍装に金モールをつけ、腰には礼装用のサーベルを吊るしている。

「どうだ、すごいだろ? モンパルナスのパーティもいいけど、こんなパーティもまた味がある。まあ、これこそフランスが世界に誇る栄華ってところかな。それに女たちを見ろ。どの子も着飾って『今夜が勝負だ!』って顔してる。パリの美人はモンパルナスだけじゃないんだぜ」

 ジャン=ピエールの言う通り、豪華なイブニングドレスを着た女性たちはみな美しく、彼女たちがワルツを踊る様は、まるで日本のおとぎ話に出てくる天女の舞いのようであった。

 だが、丈太郎は髪が肩ほどまでのブルネットの女性を見かけるたびに、知らず知らずにジジと比べていた。そして、そんな自分に気づき情けなくなった。

 パーティも盛り上がってきた頃、ブランデーグラス片手に女性を物色していたジャン=ピエールは、急に居住まいをただす。横の丈太郎を肘でつついた。

「おい、ちゃんとしろ。伯爵令嬢のマドモアゼル・アナベラだ」

 華やかな女性たちのドレスの中でも一際目立つ、鮮やかな真紅のイブニングドレスを着た、金髪の美しい女性がジャン=ピエールと丈太郎の前にやって来た。彼女はジャン=ピエールに、にっこりと微笑みかける。

「お久しぶりです、ジャン=ピエール。楽しんでいただけていますか?」

 シャルル・デ・オン伯爵の次女、アナベラ・デ・オンは金色の長い髪を後ろに結い上げ、大胆に胸元が開いたドレスを見事に着こなした、目の覚めるような美女だった。ブルーの瞳は光り輝き、気品ある魅力はハリウッド女優など敵わない。大きなエメラルドのペンダントが輝く胸の谷間から、ほのかにバラの香りがした。

 ジャン=ピエールはアナベラの手を取り、手の甲に軽くキスする。

「こんばんはマドモアゼル。相変わらずお美しい。思わず見とれてしまいます」

 そして、丈太郎の方を向いた。

「こちらは私の友人で、日本海軍のジョータロー・トードー大尉です。この通り見かけは冴えない男ですが、パイロット、そして航空エンジニアとしては超一流なんですよ」

 そう言って、ジャン=ピエールは愛嬌のある笑みを浮かべて丈太郎を紹介した。丈太郎は少し照れながら帽子を取って深々と頭を下げる。

「ジョータロー・トードーです。お会いできて光栄です」

 丈太郎には女性の手を取ってキスをするなど、そんな気の利いた真似はできない。相手に敬意を表し、できるだけ丁寧にあいさつをするだけだった。アナベラは微笑みながら少し小首を傾げる。

「・・・・・・ジョータロー・トードー・・・・・・どこかでお聞きしたような・・・・・・・」

 そして、急に目を輝かせた。

「思い出したわ! あなた、ジョーでしょ? “モンパルナスの月を夢中にさせた男”でしょ?」

 この頃のパリではモンパルナスは文化の発信源だった。流行はモンパルナスから始まり、若い男女にとってあの街の出来事は関心の的だ。それは、貴族の令嬢でも例外ではない。アナベラは形のいい唇をうれしそうに広げた。

「『見た目は物静かだけど胸の内は情熱的で、心に決めた女性を一途に愛し抜くサムライ』ね。そんな素敵な方にお会いできるなんて、今夜はなんて運がいいのでしょう!」

 丈太郎は自分の評価が1人歩きしているようで、複雑な心境だった。それにしても自分が有名人になっているなど、思いも寄らなかった。アナベラは通りかかったウェイターのトレーからシャンパングラスを取り上げ、丈太郎に差し出した。

「私のグラスを受け取っていただけるかしら?」

 アナベラの関心が丈太郎に集中してきた。ジャン=ピエールは「まあ頑張れ」といった様子で、さりげなくどこかに消えていく。

 アナベラと丈太郎がどうなるかは別として、これで彼が元気を取り戻してくれれば、自分の役目は終わったと思ったのだ。それにジャン=ピエールはアナベラを美しいとは思っていても、美しすぎて自分の手が届く存在とは考えていないので、別に丈太郎と彼女を取り合う気にもならない。彼の目当ては“自分の手が届く範囲”のかわいい女だ。

 アナベラは丈太郎とグラスを合わせて、おいしそうにシャンパンを飲んだ。

「ジョーとお呼びしてもよろしいかしら、ムッシュ?」

「ええ、どうぞ。お好きな名前でお呼びください」

 そう答えながら、丈太郎は少し胸が痛んだ。“ジョー”と呼び始めたのはジジなのだから。

 アナベラが楽しそうに丈太郎から、モンパルナスの芸術家たちとの交流の話を聞いている時だった。パーティ会場が少しざわめいた。楽しげなアナベラの笑い声で丈太郎は気づかなかったが、いつの間にかざわめきの原因となっている1組の男女が静かに丈太郎の前に来る。

 男性の方は“モンパルナスの王子”と呼ばれるパリ画壇きっての色男、ジュール・パスキンだった。黒髪をオールバックになでつけ、普通の男では着こなせそうもない薄いピンクのスーツを着ていた。

 そして彼と腕を組んでいるのは、何とジジだった。今夜のジジは肩が大きく露出した黒いイブニングドレス姿で、ふんわりと広がったスカートで歩けば、まるで床の上を滑るようだった。

 歩くたびに首につけたダイヤモンドのネックレスがキラキラ輝いている。人々はこのため息が出るような美男美女の組み合わせにざわめいていたのだった。

 パスキンはアナベラと丈太郎ににこやかに微笑む。

「こんばんは、マドモアゼル。こんばんは、ジョー」

 そしてアナベラの手にキスすると、爽やかな笑顔を見せる。

「ジョー、マドモアゼル・アナベラとご一緒とは、また、とんでもなく美しい女性にお相手してもらってるね。君は美女にもてる才能があるのかな? うらやましい限りだ」

 そして、思わせぶりにウインクした。

「今夜のジジの相手は僕だ。そこは、お忘れなく」

 パスキンの隣にいるジジは丈太郎の方を見ようともしなかった。

「では失礼。マドモアゼル、お話中に申し訳ありませんでした」

 パスキンはジジをエスコートして、大広間の反対側に消えていった。アナベラは興味津々といった顔で丈太郎を見る。

「今の方、ジジさんでしょ? 一緒にいるのはムッシュ・パスキン。本来ならジジさんは、あなたと一緒にいらっしゃるべきではないのですか? ケンカでもしたのですか?」

 丈太郎は力なく笑みを浮かべた。

「僕はもう“モンパルナスの月を夢中にさせた男”ではありません。ジジにフラれたんです」

 しかし、アナベラは納得のいかない顔で少し考え込む。

「そうかしら? ジジさんの態度は妙によそよそしくて、明らかにあなたを意識してらした。フッた相手があんなに気になるかしら・・・・・」

 丈太郎は近くにいたウェイターを呼んで、コニャックのグラスを二つ取った。一つをアナベラに差し出す。

「もう済んだことです。今夜は僕と飲んでいただけないでしょうか?」

 2人はしばらく一緒にコニャックを飲んでいたが、アナベラは少し酔ってきたらしく、前にも増して陽気になってきた。宴もたけなわの頃、隅の方で待機していたオーケストラがワルツを奏で始める。ワルツの定番、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』だ。滑らかなバイオリンに誘われて、何組かの男女が広間の中央で踊り始める。

 アナベラはそれを見て心を躍らせた。

「ジョー、私と踊ってくださらない?」

 だが、丈太郎は気まずそうにモジモジしている。

「ダンスパーティに来たのにお恥ずかしい話なのですが、僕はワルツを踊ったことがありません。ダンスは他の方と・・・・・」

 しかし、アナベラは丈太郎の手を取った。

「大丈夫。私の言う通りに体を動かしてください。ワルツなんて簡単ですのよ」

 そして、広間の中央に丈太郎を引っ張り出した。バイオリンの柔らかな調べとともに、丈太郎の耳元で歌うように言う。

「アン(1)、ドウ(2)、トロウ(3)・・・・・・右足を前に、右手を出して・・・・・・そうそう。三拍子のリズムに乗せて体を動かせば、ワルツなんてすぐにできるでしょ?」

 アナベラの見事なリードのおかげで、丈太郎のダンスは次第に様になってきた。その時、後ろから丈太郎の肩に強く当たってくる者がいた。ショックで丈太郎はよろける。力の強さからいって明らかに故意だ。

 ホルンが高鳴った時、丈太郎は当たってきた相手を見た。隣にいたのは困惑した顔のパスキンと踊っているジジだった。ジジは澄ました顔で丈太郎とは反対の方向を見ている。

 アナベラは不敵な笑みを浮かべた。彼女はパリの社交界でも、1、2を争うほど気の強い令嬢として有名だった。

「あら。あの方、そういうおつもりね。いいわ、受けて立ちましょう」

 そして、彼女は今までより速いテンポで踊りだした。

「アン、ドウ、トロウ・・・・・・いいジョー? 私にしっかりついてきてね」

「マドモアゼル・・・・・ちょっと・・・・・・」

 曲に合わせ、アナベラは丈太郎をリードしながら軽やかにターンした。そして、ドレスの下から足を伸ばしてジジのドレスの裾を踏んだ。ジジはよろめいてパスキンがいなければ転びそうになる。

 体勢を立て直したジジはアナベラをにらみながら鮮やかなターンを決め、ドレスの中で折り曲げた膝で、すれ違いざまに丈太郎の膝を蹴り上げた。丈太郎の腰はガクンと落ちる。

「なかなかのお手並み」

 アナベラは丈太郎の腰に当てた手に力を込め、崩れそうな彼の体を引き上げる。そして、さりげなく肘を張り、弦楽器が多重奏になった時、ステップを踏んでジジの背中を突いた。ジジは前につんのめる。

「マドモアゼル、もうよしましょう」

 なす術のない丈太郎にアナベラは平然と言い放つ。

「ダンスは“格闘技”ですのよ。挑まれた勝負は受けないと女がすたるわ」

 丈太郎が懸命に三拍子のリズムについて行っている間、2人の女は闘志むき出しの“格闘技”を繰り広げていた。ジジの標的は丈太郎、アナベラの標的はジジだった。唯一、戦いに無関係のパスキンは、いたたまれないという表情でジジに引きずられている。

 ジャーン!

 ようやく『美しき青きドナウ』が終わった時、丈太郎はヘトヘトだった。打撲で体のあちこちが痛い。ちらりとジジを見ると、ジジも肩で息をしていた。一瞬、丈太郎とジジは目が合った。彼女は丈太郎をにらんだが、その目は潤んでいた。

 ―ジジ・・・・・・・―

 しかし、彼女はすぐに目をそむけ、パスキンの腕を取って中庭へと続く大きなドアの方に消えていった。

 踊り終えたアナベラは額に薄っすらと汗をかいている。広間の隅に置いてある椅子に座り、陽気に丈太郎に語りかける。

「あー、楽しかった。あんなダンス、久しぶりです。ジジさんも相当なものね」

 丈太郎はアナベラの額の汗を見て、気の毒そうにハンカチを差し出す。

「すみませんでした。僕のためにあんなことになって・・・・・・・」

 アナベラは化粧が崩れないように気を使って汗を拭く。

「気にしないで。それより私、喉が渇いた」

「あっ、今、飲み物を持ってきます」

 その場を離れようとする丈太郎の手にアナベラはスッと触れる。そして優しく微笑んだ。

「飲み物はジジさんに持って行ってあげて。あなたはフラれてなんかいない。あの方は、今でもあなたのことが大好きよ。見ていればすぐにわかるわ」

 丈太郎はジジの潤んだ瞳を思い出した。寂しげで、何かに悩んでいるような目だった。しかし、丈太郎は動かなかった。胸の内にはつらい気持ちがよみがえる。

「もういいんです。彼女とは終わってますから」

 アナベラは丈太郎の顔を覗き込むように見た。

「終わってる? 何が?」

 黙っている丈太郎にアナベラは少し怖い顔になった。

「ジジさんはあなたが好き。あなたはどうなの?」

 ―ジジは僕のことなんか好きじゃない。彼女は情報が欲しかっただけなんだ―

「どうなの?」

 アナベラの問いに、丈太郎の心は大きく揺れ動いた。自分をだました女スパイなど、好きなはずがない。何度考えても腹が立つ。だが、なぜだか『嫌いだ』と言えない。頭が言おうとしても、口が拒否している。

 答えられずに立ちすくんでいる丈太郎をアナベラは伯爵令嬢にふさわしくない、荒っぽい口調で叱り飛ばした。

「どうなのよ!? さっさと答えなさい!」

 丈太郎の脳裏にジジの顔が浮かんだ。笑った顔、怒った顔、澄ました顔、月に照らされる優しい顔・・・・・・醜い顔は一つもなかった。どの顔も全部好きだった。ジジは自分をだまし、傷つけたひどい女だ。それなのに、頭に浮かぶのはジジのかわいい顔ばかり。憎めない理由は一つしかなかった。

「・・・・・・僕は・・・・・僕は・・・・・・やっぱりジジが好きです! どんなにひどい目に遭おうが、やっぱりジジが好きです!」

 怖かったアナベラの顔がスッと笑顔になり、青い瞳でウインクする。

「じゃあ、早く行きなさい。彼女に嫌なところがあったって、そんなに好きなら許せるはずよ」

 丈太郎はアナベラの青い瞳を見て、迷いを吹き飛ばすように一礼した。

「マドモアゼル、どうもありがとう。心から感謝します」

 丈太郎はジジとパスキンが去っていった方向に駆け出した。アナベラは丈太郎の背中を見守りながら大きなため息をついた。

「このパーティの主役は私なのよ。どうしてキューピット役をしなくちゃならないの?」

 だが、アナベラは幸せな気分だった。

「でも、まあいいわ。ジョーとジジ・・・・じれったいけど、とっても素敵な恋をしている2人に出会えたから」

 オーケストラは新たなワルツを奏でていた。何組もの男女が踊りの輪に加わる。パーティの盛り上がりは、まだ、これからだった。


 中庭に出る大きなドアの前で、両手に冷たいシャンパンを満たしたグラスを持ったパスキンが、外に出ようとしていた。丈太郎は後ろから声をかける。

「ムッシュ・パスキン」

 振り向いたパスキンは苦笑いをした。

「いや、参ったね。あんなに激しいダンスを僕は初めて見た。ジジもすごいが伯爵令嬢もすごい」

「すみません。パスキンさんにもご迷惑をおかけして」

 丈太郎は深々と頭を下げて、真摯な態度で言った。

「今夜の僕の立場は充分理解しています。しかし、少しの間だけ、ジジと話をさせてもらえないでしょうか」

 パスキンはじっと丈太郎の目を見ると「やれやれ」という顔をする。そして、シャンパングラスを差し出した。

「これは君が持って行け。悔しいけど、ジジはずっと君のことばかりを考えている。僕が何を話しかけても上の空だ。僕なりに今夜は期待してきたんだけど、どうやら期待はずれのようだ」

 グラスを丈太郎に持たせたパスキンは、「目標変更!」と言わんばかりに軽やかな足取りで大広間に戻っていった。


 デ・オン邸の中庭はきれいに手入れされた木々がバランスよく点在した、とても美しい空間だった。夜見てもそう思うのだから、昼間見れば感動するような美しさに違いない。

 しかし、今は大広間でダンスの真っ盛りなので中庭には誰もいなかった。ただ1人の人影を除いては。

 ジジは全身に青白い月の光を浴びていた。黒いドレスを月明かりで白に染めて、まさに1枚の絵画のような光景だった。丈太郎は高鳴る胸を押さえながら近づく。

「ジジ・・・・いいかな・・・・・・」

 振り向いたジジはシャンパンを持って来たのが丈太郎だとわかると、あからさまに嫌な顔をした。

「この前言ったこと忘れたの? もう、見かけても話しかけないでって言ったはずだけど」

 丈太郎の手からシャンパングラスをひったくるように取り、ジジはシャンパンを一気に飲んだ。

「あんたとは、もう終わったの。さっきの金髪のお嬢さんのお尻でも追っかけてたら?」

 だが、攻撃的な言葉とは裏腹に、ジジの声は苦しそうだった。背の高い庭木の向こうから、セーヌ河を渡る艀のタンタンタンという音が聞こえてくる。夜空に浮かぶ明るい月は丈太郎の言葉を固唾を飲んで待っていた。

「僕なりに考えたんだ・・・・・・やっぱり、君が好きだ。君が何をしているのか想像はつくけど、進んで悪いことをしているとは思えない。だから、今の状況から助けたい。君の力になりたいんだ」

「あたしを助けたい? 何を偉そうに。もうすぐ日本に帰るあんたに何ができるって言うの!?」

 ジジの言葉は怒りのこもった、突き放すような口調だった。だが、丈太郎はそれを全身で受け止めた。何を言われようとジジなら許せる。彼女のためなら、どんなことでもできる。心の中はジジで溢れていた。

「君は悪いことができる人じゃない。ただ少し、道を間違えただけなんだ。君のためなら僕は何でもする。だから、一緒に間違った道から抜け出そう」

 あくまでも優しい丈太郎の言葉に、ジジは胸が詰まりそうになった。今まで押さえていた丈太郎への気持ちがどんどん膨らんでいく。だが、想いとは裏腹に、胸が張り裂けそうな悲痛な叫びしか返せなかった。

「あんたが思ってる通り、あたしは汚いスパイよ。男と寝て欲しいものを盗むのが仕事。今まで、あんたが想像もできないくらい卑しいことをしてきたんだ。あんたはいいよ。もうすぐ家に帰れる。パパが命をかけて守った素敵なママのところに帰れる。でも、あたしには帰る場所なんかない。これからも、この訳わかんない街でずっと生きていかなきゃならないんだ! あたしを置いて帰るくせに、助けたいなんて調子のいいこと言わないで!」

 彼女の両目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。持っていたシャンパングラスを芝生に叩きつける。ジジの心はきつく張り詰めていた。彼女も丈太郎を心から愛している。

 今までフレデリック・レナールの命令に逆らえず何人もの男に抱かれたが、自分から抱かれたいと思ったのは丈太郎だけだ。もてはやされる外見だけでなく、自分の心も愛してくれた男は丈太郎だけだった。

 しかし、丈太郎の帰国が近いことをジジは知っていた。だからレナールから逃げて、丈太郎に助けを求めることが怖かった。丈太郎に頼ってしまうと、彼の帰国によって愛する人を失う孤独と、裏切りに対するレナールの報復という二重の絶望を味わわなければならない。

 ジジはこの二つが怖くて、ただ震えているだけだった。丈太郎が自分にプロポーズして、日本で一緒に暮らすつもりだったことなど知らずに・・・・・

 丈太郎は真っ直ぐジジを見つめた。ジジのすべてを受け入れる目だった。

「君は汚くなんかない。卑しくなんかない。お願いだから自分をそんなふうに言わないで」

 ついにジジの目から大きな涙が溢れ出た。唇が震えていた。

「・・・・・あたしのこと、なんにも知らないくせに・・・・・」

 丈太郎は白い軍装の胸につけていた金モールをつかむと、突然、それを引きちぎった。ジジに向かって両手を広げる。

「僕が1人でどこかに行くことはない。僕は君の言うように海軍を辞めて、旅客機のメーカーを作る。そして、君とずっと一緒にいる。僕が一生かけて君を守る。ジジ、結婚してほしい。僕は誰よりも君のことが好きな男だ」

「・・・・・・結婚・・・・・?」

 ジジには信じられない言葉だった。幼い頃からずっと幸せに憧れてきて、それなのにいつの間にか、冷酷な武器商人の手先となって汚いスパイに転落してしまった。

 そんな自分をこの男は誰よりも好きだと言ってくれる。一生守ると言ってくれる。ジジは今まで視界をおおっていた霧が晴れたような気がした。いつもどこかで自分を見張っているような気がしていたフレデリック・レナールの気配が、フッとなくなった。

 今、ジジは自分のみじめなところを承知の上で、そんな自分に精一杯の愛情を注いでいる丈太郎に、優しく見つめられていた。

 ジジは丈太郎の両手を広げた胸に飛び込んだ。

「・・・・・お願い、ずっと一緒にいて・・・・・もう寂しいのはいや・・・・・・」

「約束するよ」

 月に照らされて芝生の上に伸びた2人の影は、唇を重ねて一つになっていた。ジジの影の方が少し背が高いはずなのに、丈太郎の影がジジを包み込んでいた。

 2人はしばらくの間、隙間もないほど固く抱き合っていた。だが、突然、ジジは後悔の滲んだ顔を上げる。

「ジョー、行かなきゃ! 日本大使館が危ないの!」

「大使館が!?」

 ジジは驚いている丈太郎の手をつかみ、中庭を通り抜けてデ・オン邸内を駆け巡り、玄関前に出た。玄関前では、伯爵家の使用人が来客の乗ってきた車を移動しているところだった。

 ジジはエンジンのかかっていたベントレーにドレスの裾をなびかせて飛び乗り、唖然としている伯爵家の使用人に向かって怒鳴る。

「ごめんなさい! この車貸して! もし壊したら日本海軍が弁償するから!」

 助手席に乗り込んだ丈太郎はどうしていいかわからず、何とも間抜けに使用人に敬礼した。ベントレーのギアをローに叩き込み、ジジはハイヒールのままアクセルを踏み込んだ。ベントレーはタイヤを鳴らしながら猛ダッシュして、革命記念日前夜祭に浮かれる夜のパリに消えて行った。


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