モンパルナスの月に届ける想い
六章
よく晴れた日の午後、丈太郎は日本大使館で報告書の下書きを書いていた。先ほどから難しい顔をしている。フランス陸軍航空隊からもらった資料と自分が調べたことの間に矛盾点があることを発見したのだ。少し考えて、ジャン=ピエールに電話をかけた。
航空隊本部の庁舎内にいたジャン=ピエールはすぐに電話に出た。
「・・・・・・ああ、なるほど・・・・・・たぶん、気象条件の違いが航続距離の食い違いになっているんだと思う。ファルマン機については、本部が条件ごとに綿密に調べた実験データがあるから、こっそり見せてやるよ。ただし、持ち出すことはできないから、こっちまで来てもらわなくちゃならないけど」
いつも遊び優先のジャン=ピエールだが、近頃はとても忙しくて今日も残業になるらしい。彼の都合に合わせて、面会の約束は夜の7時となった。今夜はモンパルナスでジジと、“モンパルナスの太陽”キキ、それにキキの恋人でアメリカ人写真家のマン・レイの4人で会うことにしている。
航空隊本部の遅い訪問時間は気になったが、遊びのためにジャン=ピエールに我がままを言うことはできない。丈太郎は面会をその時間に決めて電話を切った。
―一度ホテルに帰る時間はないな・・・・―
それから日本大使館を出るまでの間、丈太郎はジャン=ピエールに効率よく質問できるよう、いくつかの疑問点をまとめた。
フランス陸軍航空隊本部は、ブルボン宮近くの陸軍省内部にあった。まだ陸軍の一部門扱いだが、7年後の1934年、陸軍より分離独立してフランス空軍が発足する。
丈太郎は凱旋門から地下鉄に乗ってソルフェリーノ駅で降りた。駅から地上に上がれば陸軍省は目の前だ。地下鉄の真上にあるサンジェルマン大通りは街路樹が青々と生い茂り、恋人と歩きたくなるような並木道だった。
まだ夏の7時前なので暗くなるには早いが、人通りはあまりない。この辺りは陸軍省の他にも多くの省庁が立ち並ぶ官庁街なため、昼と夕方以降では人口が極端に違う。日本で言うなら霞ヶ関のようなところだ。
正面玄関はもう閉まっているため、丈太郎は職員用の通用口に回り、航空隊本部の夜間受付でジャン=ピエール・デュマ大尉を呼んでもらった。しばらく待っているとジャン=ピエールはかなり疲れた表情でやってくる。
受付で入館証をもらった丈太郎は迷路のような通路を延々と歩き、豪華な応接室に通された。ジャン=ピエールはマーマレードがたっぷり入った紅茶を入れてくれた。
「お茶で悪いな。本当ならビールかワインを出す時間なんだが」
彼の顔には薄っすらとヒゲが浮かんでいる。丈太郎は近頃勤務時間以外はずっとジジと一緒にいたため、彼と会うのは久しぶりだった。しばらく見ない間に、ジャン=ピエールはやつれていた。丈太郎は気の毒そうな表情を浮かべる。
「こっちこそ、忙しいのに時間を作ってもらって申し訳ない。大変そうだけど、何かあったのか?」
ジャン=ピエールは面倒くさそうに頭をかいた。
「軍事機密だから何も言えない、と言いたいところだが、すでにみんな知ってることだよ。例のマジノ・ラインさ」
納得した顔で丈太郎はうなずいた。
「いよいよ始まるのか?」
「ああ。来年から計画が具体化する。ここんとこ毎日、俺は航空隊が測量した図面や空から撮影した地形写真を企画本部に渡すために、細かく整理してるところだ」
マジノ・ラインとは1922年に構想された、大西洋岸からスイスに至る長大なフランス北部の国境にトンネル型の地下要塞を作るという、途方もない計画だった。
世界大戦で勝利したフランスは、敗戦国のドイツに莫大な賠償金を支払わせている。しかし、ドイツから取り上げる金を当てにすると同時に、実はその報復を恐れていた。そこでドイツの侵入を防ぐために考えられたのがマジノ・ラインだ。
工事が実際に着工するのは1930年からで、完成までの4年間、毎年フランスの年間軍事予算の半分を注ぎ込むという巨大プロジェクトだった。
今、ジャン=ピエールはマジノ・ライン計画を実行に移すため、具体的な作業に動員されており、要塞建設が予定されている土地の資料を準備している。
これだけ大規模な計画になると関わる者の数が多すぎて、秘密裏に進めるなど不可能であり、各国の軍関係者はマジノ・ラインのことはある程度知っていた。
マーマレード入りの紅茶を飲みながら、丈太郎は手際よく疑問点をジャン=ピエールに質問した。ジャン=ピエールはフランス航空隊の実験データを見せながらそれに答えていく。すべての疑問が解決し、丈太郎はホッと息を吐いた。
「いや、どうもありがとう。このまま矛盾点を見過ごしていたら、日本に帰って君に電報を打たねばならなかった」
「気にするな。俺こそ、久しぶりにお前に会えてうれしいよ」
そして、ジャン=ピエールはウインクした。
「なんせ近頃のお前ときたら、いつもジジと一緒で俺なんか都合のいい時しか会ってくれないもんな。今、モンパルナスじゃ、どこに行ってもお前とジジの熱々の話を聞くよ。あんないい女と、まったくうまいことやったもんだ」
丈太郎は少し頬を赤らめる。
「君をないがしろにしているつもりはない。でも、そう思っているのなら謝る・・・・・・」
ジャン=ピエールは笑い出した。
「そうそう。そんな生真面目なところがジジはいいんだろうな」
そう言うと彼はまた笑い出した。そしてしばらくすると、何かを思ったようにジャン=ピエールの笑顔は次第に悲しげな表情になっていった。
「お前、パリにいるのは、あと2週間もないだろ? ジジは知ってるのか? 海軍の連中は『港港に女あり』なんて言うけど、お前を見てると、そんないい加減な気持ちじゃないことはわかる。帰国命令が出たら、すんなり別れられるのか?」
時間はもう夜の9時近かった。常に誰かが詰めているとはいえ、フランス航空隊本部は大半の職員が退庁し、荘厳な石造りの建物は静まり返っている。まるでフランスの空の騎士たちの本拠地には、丈太郎とジャン=ピエールしかいないようだった。
丈太郎は思いつめた表情になり、ジャン=ピエールを見つめた。その目には強い意志が映っていた。
「ここだけの話だが、僕は時期を見て日本海軍を辞めようと考えている。そして旅客機のメーカーを作りたい。その時になったらジジを日本に呼んで、結婚したいと思ってるんだ・・・・・」
ジャン=ピエールは飲みかけの紅茶を噴き出した。あまりの驚きに大声を出す。
「本気で言ってるのか!? 旅客機のメーカーを作るなんてできるのか!? ジジはパリを離れて、日本でお前と結婚してくれるのか!?」
丈太郎はあわてて口に人差し指を当てて、ジャン=ピエールに静かにしてくれるよう懇願しながら、ハンカチでジャン=ピエールが噴き出した紅茶で濡れてしまったフランス航空隊の資料を拭く。
「まだ、僕が1人で考えていることだ。ジジには話してない。だから、ここだけの話にしてもらいたい」
ジャン=ピエールはよくやく落ち着き、丈太郎と一緒に紅茶で濡れた資料を拭いた。
「お前が真剣なのはわかったけど、本当にできるのか? 旅客機メーカーもジジを日本に連れて行くことも、どっちもメチャクチャ難しいぞ。第一、お前とジジとはまだ知り合ってわずかしか経っていない。それなのに、あのジジが結婚などするだろうか?」
丈太郎は少し照れた顔をしながらも、はっきりと言った。
「僕の気持ちが本物なら、どっちもできると思う。飛行機には僕なりの夢があるし、それに、もうジジ以外の女性なんか考えられない。彼女がいてくれたら不可能なことなどないような気がするんだ」
そう語る澄んだ瞳は飛行機に乗る時と同じだった。空の丈太郎は無敵だ。そんな目を見ていると、ジャン=ピエールはだんだん丈太郎が二つの難題をやり遂げそうな気がしてきた。
大急ぎで丈太郎がモンパルナスのカフェ、ラ・ロトンドに入った時、時間はもう9時半を回っていた。ラ・ロトンドは芸術家たちのお気に入りの店の一つであり、店内は相変わらずあらゆる国、あらゆるタイプの人々でにぎわっている。
オーナーのヴィクトル・リビオンは芸術を深く愛しており、金のない画家でもデッサンをカタにツケで飲ませてくれるため、金のある者からない者まで、常に店では芸術家がクダを巻いていた。
店の入り口に立った丈太郎に、客たちの目は一斉に注がれた。どれも怪訝な視線だった。モンパルナスでは軍人はあまり好かれておらず、この街が好きで遊びに来る軍人はそれに気を使って軍服で訪れることはほとんどない。
今日の丈太郎はフランス航空隊本部から直接やって来たので、純白の第2種軍装のままだった。
モンパルナスの住人たちの警戒の目は、白い軍服の男が丈太郎であることに気づくと安堵の色に変わった。入り口近くの席で女友達に自作の詩を詠んでやっていたジャン・コクトーは、おどけた口調で言う。
「何だ、ジョーか。俺はまた、モンパルナスの無法者を軍隊が逮捕しに来たのかと思ったよ」
丈太郎は申し訳なさそうに頭を下げる。その時、店の一番奥の席からジジが大きな声で呼んだ。
「ジョーここよ! 遅いじゃない!」
その声に控えめに手を振り、客たちのいるテーブルをすり抜けながら奥の席に向かった。店の中央に置いてあるビリヤード台まで来ると、ガコン! という派手な音が鳴り響く。
台の横でキューを構えていた黒人ダンサーのジョゼフィン・ベーカーが満足気に微笑んでいた。彼女はアメリカからやって来た超人気ダンサーで、情熱的なトップレスの踊りは、ストリップではなく芸術の域に達していると、パリで高い評価を受けている。
ジョゼフィンはアメリカから伝わった、球を9個使うナインボールというゲームで、勝敗を決める9番目の球を見事に沈めたところだった。
彼女の隣にいた、これもキューを持ったスコット・フィッツジェラルドは渋い顔をして、ズボンのポケットから丸めたフラン紙幣を出してジョゼフィンに渡した。彼女は「してやったり」という表情をしている。そして、ビリヤード台に近づいてきた丈太郎を見た。
「こんばんは、ジョー。今日は珍しいカッコしてるのね。あなたもひと勝負どう?」
フィッツジェラルドは無念そうに首を振る。
「やめとけ。彼女は強い。弱そうなことを言うから勝てると思ったら、俺はその手にひっかかってしまった。無駄づかいするとジジに叱られるぞ」
ジョゼフィンは舌を出して白い歯を輝かせると陽気に笑った。丈太郎は「また今度」とやんわり断り、ビリヤード台を離れる。
ジジたちが陣取っている席は壁際だった。壁際の椅子にはジジと隣にキキ、向かい側にはマン・レイが座っている。彼の横ではこの店のオーナー、ヴィクトル・リビオンも一緒になって飲んでいた。
マン・レイはニューヨークからやって来た写真家で、モンパルナスに着いて間もない頃にいきなり個展を開き、その衝撃的な作品でパリの人々の度肝を抜いた。
最初は自分のことをあまり語らず、人付き合いの悪い男であったが、キキと出会ってから彼女の大らかさが伝染したようで、口数こそ少ないものの周囲に親しまれる存在になっている。
壁際の席には久しぶりにモンパルナスの“太陽”と“月”が並び、店全体が華やかな空気に包まれている。二つパリの花が自分の店に咲いたことに気をよくした、オーナーのリビオンは、ジジたちに酒をおごっていた。
「ジョー、何やってたの? なかなか来ないから、少し酔っ払っちゃったじゃない。あたしがベロベロになったら、あんたのせいだからね」
そして、丈太郎の姿を品定めするように見る。
「へー。制服姿、初めて見た。結構イケてるじゃない」
そんなことを言って丈太郎をからかいながらも、隣の席から余っている椅子を引き寄せて彼の席を作ってやり、丈太郎が座ると白い軍帽を取って丹念にしわを伸ばしてやり、壁に作り付けのコートかけに吊るす。
「キキ、ムッシュ・レイ、遅くなって申し訳ない。ムッシュ・リビオン、こんばんは」
リビオンは愛想よくあいさつして、ウェイターに丈太郎のビールを持ってこさせた。
キキとレイには丈太郎は以前会ったことがあるので、特に気を使う2人でないことは知っている。
さすがに“モンパルナスの太陽”と呼ばれるだけあって、キキは外見の美しさもさることながら、内面からにじみ出る明るい魅力を持っていた。気難しい顔をしていたレイがキキの前では優しい笑顔に変わるのもよくわかる。
それに1人でも充分美しいジジの顔が、キキの輝きに照らされて今夜はさらに美しく見えた。キキはジジのゴロワーズに火をつけてやりながら、丈太郎に微笑む。
「海軍の人だって聞いてたけど、ジョーはちっとも軍人さんらしくないから、わたし、少し疑ってたの。でも、本当に海軍さんだったのね。じゃあ、飛行機を開発しているのも本当なんだ」
丈太郎は苦笑いした。
「マドモアゼル、何で僕が嘘をつくんだい。僕は正真正銘、さえない飛行機屋だよ」
横からジジが口を出す。
「そうよ。あたしが拾ってやらなきゃ、こいつは死ぬまで飛行機だけに愛を語ってたかもしれないんだから」
レイは彫りの深い顔に薄っすら笑みを浮かべた。
「なに? マニー(マン・レイの本名の愛称。マンはペンネーム)、面白い?」
ジジの問いかけにレイは顔をほころばせる。
「ああ、面白いよ君たちの関係は。力は圧倒的にジジの方が上に見えるけど、肝心なところではジジはしっかりジョーを立てている。まるで下町の気の強いおかみさんと、気のいいダメ亭主を見ているようだ」
「ちょっと。“ダメ亭主”ってのはひどいんじゃない?」
「ほら、そんなところが面白い」
リビオンを含めた5人は大声で笑い出した。
それから5人は他愛もないおしゃべりをしながら、酒を酌み交わした。相変わらずジジは丈太郎を笑いのネタにしながらも、まだ食事の済んでない彼のためにリビオンに店の特製料理を頼んだり、料理のソースが白い制服に飛び散らないように上着を脱がして、きれいに畳んで自分の膝の上に置いたりしている。
急にキキが何かを思いついた顔になる。
「そうだ。マニー、カメラ持ってるでしょ? ジジとジョーを撮ってあげて。ジョーがわたしたちと一緒の時に制服を着るなんて滅多にないから、いい記念になるでしょ?」
レイは快くうなずいて、バッグからライカのカメラを出した。丈太郎はあわてて上着を着る。
「2人とも、もっと寄って。もっと。もっとだよ」
ジジは丈太郎を強引に引き寄せて、腕を組んでピッタリと体を密着させた。
「これならいいでしょ?」
レイはうなずいてシャッターを押した。
「こんなにくっついた写真って、何だか恥ずかしいなぁ」
丈太郎がそんなことを言っていると、突然ジジは立ち上がった。
「あっ、ジーナ! 久しぶり!」
新たに店に入ってきた客の中に友達を見つけたようで、そちらの方に走っていく。そんな後姿をキキは微笑ましく見ていた。
「ジジはあなたと付き合うようになってから変わったわ。前からきれいな子ではあったけど、今ではそれだけじゃなくて、とてもかわいらしい。これまでいろいろ苦労してきたみたいで、ジジは寂しい部分がある子なの。ダンスをやめてどうやって食べているのか、わたしにも教えてくれない。でも、あなたならジジの寂しいところを埋めてあげられると思うの」
そして、離れた場所で友達と楽しそうにおしゃべりしているジジから、丈太郎に瞳を移す。
「あなたほど真っ直ぐにジジを愛している人はいない。あの子のこと、これからもお願いね」
丈太郎は真剣な顔でうなずいた。
「僕にできることは何でもしたい。ジジとずっと一緒にいたいから」
キキだけでなく、世界中の人にそう誓いたい気分だった。