いろいろ悩んでも、美女の裸を見ればすべてが吹き飛ぶ!
五章
月明かりの下でキスをして以来、2人の距離は急速に縮まった。丈太郎とジジの姿はモンパルナスのヴァヴァン交差点付近に広がる、ル・ドーム、ル・セレクト、ラ・クーポールなどのカフェを中心に、毎晩のように見られた。
これまでジジが男と仲良くしている姿など見たことのないモンパルナスの住人たちは、彼女が見慣れない東洋の男と一緒に食事をしたり、笑ったりしている姿に仰天した。そして、2人の仲はあっという間にモンパルナスの噂になった。
しかし、噂は丈太郎にとって決して愉快なものではない。パリでも際立って美しいジジに比べて、丈太郎は頼りない容姿に財布の中身は人並み。何か人を引き付けるところがある訳ではない。むしろ性格的にはジジにリードしてもらうことが多い。
それにジジは常にハイヒールを履いているため、丈太郎と並ぶとジジの方が背が高かった。2人は“デコボコカップル”と陰口をたたかれ、『普通の遊びに飽きたジジが変わった奴をからかってるだけさ。どうせジジはすぐに飽きるだろう』と言われていた。
マイペースなジジは陰口など完全に無視しているが、丈太郎は悔しかった。だが、噂する者の気持ちもわからなくはない。
―さえない僕と“モンパルナスの月”とじゃ、全然釣り合わない。月とスッポンとは、まさにこのことだ―
丈太郎が悲観的に考える原因はジジの態度にもあった。あの夜以来、確かにジジは一緒にいてくれるし、キスをすることもある。しかし、彼女は丈太郎との間に目に見えない一線を引いているような気がしてならなかった。
今でも昼間に何をしているのか、幼い頃はどんな暮らしをしているのかなど、プライベートな部分を一切教えてくれないし、何かの拍子でたまに見る、悲しい目の理由を語ろうともしない。丈太郎はジジとの付き合いに戸惑い、『マリアンヌ』で出会った夜以降、一度も彼女を抱いてはいなかった。
ある日の夜。2人はモンパルナスでとても流行っているというカフェで、一緒にワインを飲んでいた。流行の発信源、モンパルナスで注目されている店だけあって、店内はパリのファッションの最先端を行く男女が楽しげに食事や酒を楽しんでいる。
薄暗い中で各テーブルの上には、白い擦りガラスで囲んだロウソクが置かれており、華やかな男女たちの顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。どのカップルもこの店を出てから“どうする?”という、虚虚実実の駆け引きをしている。
まさに“ベッドインのための交渉の場”のような店内で、丈太郎はジジの態度に大いに困っていた。今日のジジはなぜかとても機嫌が悪い。夕方待ち合わせした時から面白くなさそうな顔で、丈太郎に絡んでくることばかり言う。丈太郎はなだめるように聞いてみた。
「何かあったの? 昼間、嫌なことでもあった?」
だが、ジジは丈太郎の顔など見ようともせずに、ワインに飽きると薄暗い店内で火をつけたライターを振ってウェイターを呼び、スコッチウィスキーを持ってこさせる。そして、それを1人でグイグイ飲んでいた。
「あんたには関係ない。うるさいこと言うなら他の席に行ってくれる?」
「そんなこと言うなよ」
「この前、あんた言ってたじゃない。『言いたくないことは言わなくていい』って。あれは嘘?」
「そうじゃないけど・・・・・」
ジジの返事は悲しかった。それでも丈太郎は何とか彼女を元気にさせようと、楽しくなりそうな話を慣れない頭で懸命に考える。
「そうだ。たまに行くル・ブルージュ飛行場の民間エリアには、飛行スクールの体験コースがあるんだ。今度行こうよ。操縦は僕がするから君も飛んでみようよ。楽しいぞ。空から見るフランスはとってもきれいだから」
しかし、ジジは水を飲むように派手にスコッチを飲んでいる。
「嫌よ。変な奴と変な乗り物に乗って、何が楽しいわけ?」
「変な奴なんて・・・・・そうだけど・・・・・」
「うるさいのは嫌い。黙ってて」
きつい声でピシャリと言うジジにはお手上げだった。これ以上彼女を刺激するのはやめようと、丈太郎はもう自分から話をするのを控えた。周囲にいる客の中にはそんな2人の嫌な空気に気づき、「やっぱりジジは、あの東洋人をからかってるだけさ」とせせら笑っている者もいた。
しばらくすると1人ハイペースで飲んでいたジジは相当酔ってしまい、丈太郎がタクシーで送る時には車の中で寝てしまっていた。
モンマルトルのアパルトマンに着くと丈太郎はジジを起こし、運転手に「彼女を部屋まで送ったら戻るから、しばらく待っていて」と伝えた。
だが、眠りから覚めたジジはもう少し付き合えと言う。仕方なくタクシーを帰した丈太郎は「また絡まれるのか・・・・・」と憂鬱な気持ちでジジの部屋に入った。
自宅に戻ったジジはハイヒールを脱ぎ捨て、フラフラとベッドに倒れ込んだ。そして、丈太郎を呼ぶ。
「ジョー、胸が苦しい。服脱がせて」
そう言ったまま動かない。見かねて丈太郎はワンピースの背中のファスナーを開けてやる。ブラジャーが丸見えになり、思わず彼は目を伏せた。
最初の夜、酒の勢いでしかジジを抱くことができず、これまで自分ではその機会も作れなかったくせに、彼女が酔っているのをいいことに肌を見るのは嫌だった。
丈太郎は今ではジジのことを本気で愛している。しかし、彼女の方はどうなのか正直なところよくわからない。街で言われている2人の噂は悔しいけど、それをはっきり否定できない丈太郎は、ただひたすら、真面目にジジを愛そうと決めていた。
飛行機の知識以外、誇れるものがない彼にとって、『誰よりもジジのことを大切にする男』になることだけが、唯一、ジジの恋人としての資格だと思った。そんな男になって、ジジもそれを認めてくれた時こそ、彼女は心ごと自分に抱かれてくれると信じたい。
世界で最も進んでいる1927年のパリ。街を包む空気は新しくとも、丈太郎は劣等感を自分の想いの強さで克服しようともがく、女性に奥手で恋に生真面目な明治生まれの男なのだ。
顔をそむけてジジの下着姿を見ないよう、ワンピースを脱がせた丈太郎をベッドに横たわっていたジジは突然腕を伸ばして抱きしめた。抱き寄せられてあわてている丈太郎に挑発的な目を向ける。酔いもあって、ゾクッとするほど艶めかしい目だった。
「どう? 久しぶりに」
だが、丈太郎はドギマギしながらもジジの目をじっと見て、色気の奥にある“何か”を感じ取り、急に悲しそうな顔になった。ゆっくりとジジを引き離す。瞬く間にジジの目には怒りが浮かんだ。
「何よ、あんた? ここまで来て何なのその態度は? ヤリたくて部屋まで来たくせに」
丈太郎はベッドの端に座った。その背中は寂しくて途方に暮れていた。黙っている彼にジジはますます苛立つ。
「黙ってないで何とか言いなさいよ。ヤリたくないわけ!?」
丈太郎は苦い、やるせない思いだった。
「ヤリたいよ。でも、今は嫌だ。何があったかは聞かないけど、君は嫌なことを紛らわすために僕と寝ようとしている。そんなふうに僕には見える。それじゃ嫌だ。僕は心ごと、君を抱きしめたいんだ・・・・」
そして、ジジの目を見て想いを込めて語った。
「美しい君と僕とじゃ全然釣り合わない。でも、今より君をもっともっと好きになって、絶対に『誰よりも君のことを大切にする男』になる。だから、そうなったら、僕を本当の恋人と認めてほしい。そう思ってくれるまで君に手は出せない」
丈太郎の心を探るように見ていたジジの目は、次第に怒りが消え、時間をかけてゆっくりと潤んできた。急にベッドから立ち上がり、下着姿のまま台所に消えて行った。そして、しばらく戻ってこない。
丈太郎は不安になった。
―ジジは怒っただろうか。でも、やっぱりできない。彼女の目の中に“悲しみ”があるうちは、僕はジジを抱けないような気がする―
残された丈太郎が落ち込んでいると、ジジはコーヒーカップを2つ持って戻ってきた。芳ばしい香りが漂ってくる。1つを丈太郎に差し出した。ジジの顔は穏やかだった。泣いてきたように目が少し赤い。ジジは熱いコーヒーを1口すすった。
「ちょっと悪酔いしちゃった。もう遅いから、これ飲んだら帰った方がいいよ。明日も仕事があるんでしょ?」
ジジは優しかった。そんな彼女に安心して、丈太郎は黙ってコーヒーを飲んだ。彼女が淹れてくれたコーヒーはとてもおいしかった。ジジもベッドの端に座っている丈太郎の横に座り、静かにコーヒーを飲んでいた。
ふいに下着姿の自分を見ないように微妙に体をねじっている丈太郎に気づき、「バカね」と笑いながらガウンを羽織る。会話はないけど、2人の間の空気は先ほどまでとは全然違う、穏やかで温かいものだった。
コーヒーを飲み終えて丈太郎が帰ろうとすると、玄関まで見送りに出たジジは少し恥ずかしそうな顔になった。
「あんたさ、言いたいことは、もっとはっきり言った方がいいよ。あたしの前で堂々としてていいんだから。ちゃんと認めてるって」
そして「お休み」と言いながら、さっさとドアを閉めてしまった。ジジの最後の言葉が丈太郎は信じられなかった。遠慮がちにドア越しに言う。
「ジジ、聞いてる? 『ちゃんと認めてる』って、どういう意味・・・・・・?」
ドアの向こうからジジの照れた、しかし、うれしそうな声が聞こえてきた。
「あんたは、あたしのカレっていう意味」
その一言で、丈太郎の頭から今日あった嫌なことがすべて吹き飛んだ。
そんなことがあってから数日後のこと。その夜2人は久しぶりにカフェ『マリアンヌ』に来ている。ジジはもともとキキと一緒に踊っていたダンサーだし、体を動かすことが大好きだ。
それに丈太郎もこの店が嫌いではない。最初は驚いたが活気溢れる店内は心が弾むし、気持ちよさそうに踊っているジジを見ているのは楽しい。
ただし、一つだけ気になってしょうがないことがあった。台の上で踊っているジジの華やかさは他の女性を圧倒して、七色の照明の中で光り輝いている。そんな彼女の脚や短いスカートの中を見ようと、台の横のテーブルには男たちが群がっていた。
当のジジはそんなことを全然気にしていないが、丈太郎はそうではない。少し離れたテーブルでビールを飲んでいたが、ついに我慢できなくなり、ジジに歩み寄ると手をつかみ台から下ろした。
「踊りはもういいだろう。一緒に飲もう」
「何で? まだ踊りたい」
無言で自分のテーブルに連れて行こうとする丈太郎の手を振り払い、ジジは眉を吊り上げた。
「まだ踊りたい! 飲みたいなら1人で飲んでればいいじゃない」
ジジは丈太郎の目も怒っているのに気づいた。じっと目を見ると、だんだん顔を近づける。周囲の者たちは、そんな2人に注目した。そして、無遠慮に意地悪なことを言っている。
「見ろよ。あの2人、なんかモメてるぜ」
「ジジはもう飽きたのか? とうとうあいつ、捨てられるのか?」
「5分以内にジジが1人で店を出て行くのに10フラン賭けるぜ。誰か乗らないか?」
「よし、俺は3分以内に15フラン賭ける」
「いや、俺は2分以内で20フランだ」
大音量の音楽の中ではそんな周囲の声も2人には聞こえない。ジジは形のいい唇を少し歪めて丈太郎の目をじっと見た。挑むような顔だった。
「あんた、もしかして、スカートの中を覗き込んでる男たちに焼きもち焼いてるの?」
丈太郎は口を固く結び、さっと顔をそむけた。しかし、ジジは丈太郎のそむけた顔に回り込み、彼の目を覗き込む。今度は反対側に顔をそむけるが、ジジの顔はまたそちらに回り込む。そして意地の悪い声で言った。
「へー、焼いてるんだ。自分はあたしの下着姿見ようともしないくせに。訳わかんない意地張っちゃって」
「・・・・・・・」
ジジは突然、にっこり笑った。とてもうれしそうな笑顔だった。
「わかった! もう踊らない」
そして丈太郎の首に腕を回し、何とも情熱的なキスを浴びせた。ハイヒールのせいでジジの方が背が高いため、きつく抱きしめると丈太郎はのけ反ってしまう。ようやくジジは唇を離して丈太郎の腕を抱いた。そしてピッタリと腕を組んだまま、満面の笑みでささやく。
「思っていることは、はっきり言った方がいいって言ったでしょ。『お前の裸を見るのは俺だけだ』ぐらいのこと言いなさいよ」
丈太郎は照れていたが、満足そうに微笑む。2人は笑顔のまま『マリアンヌ』を出て行った。2人に注目していた者たちはしばらく唖然とし、それから口々に叫びだした。
「ジジは本気だ! 本気であいつに惚れてるぞ!」
「すげえキスしてた! 別れる気配なんか全然ない!」
「どうしてなんだ!? 何であいつなんだ!?」
しばらく『マリアンヌ』は騒然としていた。
それからというもの、ジジはこれまでとは違う輝きを放ち始めた。相変わらず気まぐれで丈太郎をからかったりハラハラさせたりしているが、時には彼に甘え、ひと気のないところで熱いキスを交わすこともある。
今までの“近寄りがたい美女”とはまったく違う“恋をしているかわいい女”だった。モンパルナスの住人たちは、もう「ジジが暇つぶししている」とは言わない。そして、丈太郎がジジを変えたとささやき合った。
『マリアンヌ』では、テーブルから転倒しようとしたジジを丈太郎が助けたことで2人は出会ったという話が伝説となり、男たちはジジのような女性を手に入れようと、ダンスタイムが始まってもじっと椅子に座ったまま、美しい女性が落ちてくるのを待っていた。
7月に入ったある夜のこと。丈太郎とジジは、たまに立ち寄るモンパルナスのビストロで夕食をとっていた。小さな店だがなかなかの人気店で、夕食には少し遅い時間にもかかわらず店内は満席だった。
浅草の庶民的な料理屋が実家の丈太郎にとっては、サン・トレノ街の高級レストランよりこういう店の方が落ち着ける。
ジジの希望で鴨のローストを1羽丸ごとオーダーして、2人はそれにかぶりついた。夏場で鴨は若干脂が落ちていたが、それでも食べ応えのある上質の肉であった。
ジジは細い体に似合わず食欲は旺盛で、メニューによっては丈太郎より食べることもあった。
今夜の彼女は特に食べていた。鴨だけでなく添え物のキノコやサヤインゲンのソテーに、ローストの焼汁で作ったソースを絡ませて、すべてをきれいに食べてしまった。
―やっぱり、フランス人は女性でもよく食べる―
丈太郎がミネラルウォーターを飲みながら感心していると、店の入り口から黒髪の目つきの鋭い男が入ってきた。男に気づいたジジは軽く手を振る。
「こんばんは、パブロ」
パブロ・ピカソは親友のジョルジュ・ブラックとともに、丈太郎たちのテーブルにやってきた。彼らはジジの友人で、丈太郎もジジを介して何度か会ったことがある。
「やあジジ。こんばんはジョー」
ピカソは店内を見回して、少し気の毒そうに言う。
「席がいっぱいで座るところがないようだ。君たちさえ良ければ相席させてもらえないかな?」
ブラックも「邪魔をして悪い」という顔で頭をかいている。
この時期、ピカソはブラックとともにキュビズムを追求した後、シュルレアリスムに取り組んでいた。
芸術家としての精神を重んじるピカソは、芸術論の論客としても知られている。丈太郎も他の店で別の主張を持つ芸術家を論破している姿を見たことがあった。
ピカソとブラックは夏の旬、スズキのムニエルとガーリックバターを塗ったパゲットを注文し、「相席のお礼だ」と言って白ワインをおごってくれた。丈太郎とジジは食事を終えていたが、話し上手のブラックのおかげで食後の楽しいひと時を過ごした。
次第にワインの酔いが回ってきたピカソは、お得意の芸術論を披露し始める。モンパルナスの芸術家たちは皆、最初は自分たちの友人である“モンパルナスの月”が軍人を恋人にしたと聞いて幻滅していたという。
創造することが仕事の彼らと、破壊することが仕事の軍人では、対極にあるようなものだからだ。「是非、話がしたい」と喜んでいたのは、勇ましいことと海が好きなヘミングウェイぐらいなものだった。
だが、ジジを通して実際に会ってみると、丈太郎の目指す仕事は銃や大砲の撃ち合いではなく、飛行機の開発だと知ってクリエイターとして受け入れてくれた。芸術家たちは飛行機を単なる機械ではなく、新しい時代の象徴として見ていたのだ。
モンパルナスを頻繁に訪れる丈太郎は次第に芸術家たちの友人が増え、何度か彼らの議論に付き合ったこともあった。
ピカソはワインに酔いながらひとしきり自論をぶつと、丈太郎をジロリと見る。
「ところでジョー。私は君のことでずっと気になっていることがある。聞いてもいいかな?」
この頃すでにピカソは気鋭の芸術家として名を成していた。そんな彼に気に留めてもらえるとは丈太郎にとって意外であり、うれしいことでもある。
「どんなことでしょう? 何でも聞いてください」
ピカソが丈太郎に何を聞きたいのかは、ジジも興味があった。少しグリーンがかった黒い大きな瞳で、じっとピカソを見る。ピカソはグラスに注がれたワインを飲み干した。すかさずジジが空のグラスにワインを満たしてやる。
「君は飛行機を開発したいんだったな? 空を飛ぶのは人類の長年の夢だった。人類はその夢を叶え、君はさらに高いレベルの夢を実現しようとしている。これは立派なことだ。だが、安全に速く飛ぶ飛行機を作るだけならいいのだが・・・・・」
急に厳しい目になった。
「海軍にいる君が作るのは戦闘機だ。人を殺すことが目的の飛行機なのだ。君には人類の夢を叶えようとするクリエイターの顔と、効率よく人を殺そうとする殺人者の顔との二つの顔がある。一体、君の本当の顔はどっちなんだろう?」
丈太郎は胸を突かれたような思いだった。これは実はたまに自問自答する問題であり、考えるたびに、途中でどうしていいのかわからなくなる難問であった。論客のピカソに変な言い訳は通用しないと思い、丈太郎は正直に答える。
「・・・・・・機械が進歩するには、戦争が大きく関わっています。自動車、飛行機、船、潜水艦・・・・・これらが急速に性能を上げたのは、軍の要求と援助があったからです。民間の力だけでこれらの乗り物が急激に発展したとは思えません」
「では君は、近代文明は暴力的な要求によって進歩すると言うのか?」
ジジの眉間には次第にしわが寄ってきた。ブラックは丈太郎がどう答えるのか、興味津々で見ている。
「そういった面は否定できないと思います。それに、軍隊は人を殺すだけの組織ではなく、戦争を抑止する力を持っているとも思っています。強力な軍隊を持っていれば、他国は簡単に戦争を仕掛けてきません。そんな意味で、高性能の戦闘機は平和を守る役目も担っている、と僕は考えています」
ピカソは首を振った。
「それは詭弁だ。強力な軍隊を持つ国は、必ず他国に戦争を仕掛ける。戦争を仕掛けるために強力な軍隊を持つと言ってもいい。君は軍の広報官の言い分を鵜呑みにしているのか? 君は大量殺人マシーンを作る可能性があり、そのことを理解した上で、戦闘機とどう向き合っているのかが私は聞きたいのだ」
ピカソの言葉の勢いに丈太郎は圧倒されていた。発する言葉がなくなっていく。
「僕は大量殺人マシーンを作るつもりはありません。ただ、自分の作った飛行機が世の中の役に立ってほしいだけで・・・・・」
「そんな曖昧なことじゃダメだ。君はいつの間にか無責任に、世界を破滅に導くことになるかもしれないんだぞ。新技術の研究者が悪人にならないためには、やって良いことと悪いことを見極めるための、高い道徳心が必要だ。それがないと君は悪魔になるかもしれない」
「やめて!」
ジジの怒りを込めた大声が店内に響いた。ジジはピカソをにらんでいた。
「なんでジョーが悪魔になるの? この人は優しいし頭がいいんだから。あんたほどバカじゃないのよ!」
驚いたピカソはジジの剣幕に目を伏せ、少し息を吐いた。彼女の一喝に恐れをなしたようだった。ジジは天才との呼び声高い、天下のパブロ・ピカソを叱り飛ばしたのだ。
「すまん。言い過ぎた・・・・・」
ジジは丈太郎の手をつかんで立ち上がる。
「ジョー、行こっ!」
丈太郎は無言でピカソとブラックに頭を下げ、ジジに引っ張られるようにビストロを出た。後ろからブラックが声をかけてくる。
「気にしないでくれ。悪気はなかったんだ」
だが、ジジの怒りはまだ収まらない。丈太郎は無気力に夜空を見上げた。空には両端が鋭く尖った三日月が輝いていた。
パブロ・ピカソはこれから十二年後に始まる第二次世界大戦で、ヨーロッパを制圧したナチス・ドイツに猛反発し、ゲシュタポに目を付けられても主張を変えなかった。
ピカソとの会話で、すっかりふさぎ込んでしまった丈太郎をジジはモンマルトルの自分のアパルトマンに誘った。アパルトマンに帰ってくると、すぐにジジはシャワーを浴びた。丈太郎はその間、ジジのベッドに大の字になって、ピカソの指摘を思い出していた。
―高い道徳心がないと、僕は悪魔になってしまうのか・・・・・・?―
ジジが浴室から出てきた。バスタオルでボブカットの髪を拭きながら、この頃ではとても珍しい冷蔵庫からビールの瓶を出す。栓を開けてグラスに注ぎ、それを丈太郎に差し出した。自分は瓶ごとラッパ飲みする。
「あー、おいしい。あんたもシャワー浴びたら?」
「うん・・・・・まだ後でいい」
丈太郎はベッドから上半身を起こし、グラスのビールを一気に飲んだ。開け放っている窓から、涼しい夜風が入ってくる。ジジは裸にバスローブを羽織ったままで窓辺に置いてある椅子に座った。ベッドの上の丈太郎には背中を向けていることになる。
「ジジ・・・・・さっきのムッシュ・ピカソの指摘は正しいと思う・・・・・・僕は単に飛行機が好きで、難しいことなど考えずに今の世界に入ったんだ。僕のような金のない家の子供が飛行機のことを学ぶには、学費の心配がない軍の学校しかなかったから。でも、学校を卒業して任官されたら、戦闘機の意味がわかってきた。銃口の先では人が死ぬんだよ。そして、僕はどうやったら確実に銃口が人に向けられるかを研究している・・・・・・・」
窓から吹き込む風が急に強くなった。カーテンがバタバタとなびくので、ジジはそれを止めようと立ち上がった。その時、強い風でジジのバスローブの前は開き、美しい裸体があらわになった。
「きゃっ!」
窓辺に立っていたジジはあわてて後ろを向いた。すると、今度は丈太郎の目の前で裸をさらすことになる。丈太郎はとっさに横を向いた。横向きの顔が赤くなる。そんな様子を見たジジはバスローブの前を合わせながら、無邪気な声で笑い始めた。
「どんなに難しい話をしてても、女の裸を見ればおしまい。ジョー、物事はもっと簡単に考えなさい」
そして、ベッドで半身を起こしている丈太郎に、自分もベッドに上がって膝でゆっくり近づく。
「あんたは飛行機が大好き。でも、海軍の言うような飛行機を作ることには疑問を持っている。そうでしょ?」
「・・・・・うん」
「だったら、海軍を辞めて、戦争とは関係ない会社で飛行機を作ればいいじゃない」
丈太郎は力なく首を横に振った。
「無理だよ。日本には軍とまったく無関係に飛行機を作ってる会社なんてないんだ」
しかし、ジジは平然と言った。
「そんな会社がないんなら、あんたが作ればいい」
ジジの発想に唖然とした。そんなこと、今まで考えたこともない。
「飛行機の開発には莫大な資金がいるんだ。僕なんかにはできない」
ジジは自分の鼻が丈太郎の鼻にこすれるほど顔を近づけて、丈太郎のこめかみを人差し指でつつく。
「金持ちに話を持ちかけて、資金を出してもらうのよ。もっと頭を使いなさい」
「そんなこと言ったって・・・・・」
「大丈夫。あんたの考える飛行機が人の役に立つのなら、お金を出してくれる金持ちが必ずいるって」
丈太郎はジジの言葉をゆっくり考えた。途方もないアイディアだが、ジジが言うと何となくうまくいきそうな気もする。次第に柔らかい表情になってきた。
「そんな人、いるかな?」
「いるよ。絶対いるって」
戸惑いながらも、ジジの自信に満ちた表情につられるように、丈太郎の顔は笑顔になっていった。
「いたらいいな」
「いるって言ってるじゃない。パブロにはあんたは頭がいいって言ったけど、あたしの方がもっと頭がいいみたいね」
ジジも笑っていた。いつの間にか2人で声を出して笑い、丈太郎はジジを抱きしめた。
「君はすごい。天才だよ」
2人は自然に唇を重ねた。ジジはキスを続けたまま丈太郎の服を脱がし始める。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。そういうことはロマンチックな雰囲気を盛り上げて・・・・・・」
しかし、ジジの手は止まらない。彼女の目は熱を帯びていた。
「バカね。今、あたし盛り上がってるんだから」
「でも、僕はシャワーも浴びてないし・・・・・・汗臭いかも・・・・・」
「じゃあ、後で一緒にシャワーを浴びましょ」
抵抗も空しく、丈太郎の服は全部脱がされてしまった。ジジは部屋の明かりを消して、自分もバスローブを脱ぎ、丈太郎の手を取りベッドに横になった。月明かりに照らされて、ジジの長いまつ毛が影を作っている。
「ジジ・・・・・きれいだ。胸が苦しいほど好きになってしまった・・・・・・」
「おしゃべりはここまで。盛り上がりが冷めちゃうでしょ・・・・・」
丈太郎はジジの瞳の中に、彼女を見つめる自分を見た。ジジの瞳には丈太郎だけしか映っていなかった。彼のためらいはきれいになくなり、両手で滑らかな肌を抱きしめた。