シナリオ通りにいかない恋
四章
パリで1、2の人気を誇る高級レストラン、ヴォワザンは、ちょうど夕食時の時間帯ということもあって満席だった。無頼漢たちまでも受け入れるモンパスナスのビストロと違い、高価なインテリアがバランスよく置いてある広い店内では、スーツ、ドレス姿の紳士や淑女たちが和やかに食事を楽しんでいた。
サン・トレノ街の近くには海軍省や会計検査院など大きな役所があり、国際的に展開している大企業の本社も立ち並んでいる。そのため、客層はそんな場所を表すようにかなりハイグレードであった。店のグレードを表すように、メニューの値段も目が飛び出るほど高い。
しかし、こんな一流のレストランでも今のパリの経済状況を示すように、客はパリの名士だけでなく外国人も多かった。店内ではフランス語の他に英語、スペイン語、オランダ語が飛び交って、やはりパリの景気は外国資本が支えていることを実感させる。
客の中でも一際派手に見えるのは、テーブルの上を豪華な料理で飾り立て、どこかから用意してきた接待要員の美女をはべらせて、招待したアメリカの投資家をおだてているフランス人のビジネスマンたちであった。
彼らは外国の投資家や実業家の接待に、会社の経費を湯水のように使う。利益が見込めるのなら、客に『飲ませ食わせ抱かせ』の大サービスを行うのだ。それも1927年のフランス経済界の戦術の一つだった。
丈太郎は電話で予約を入れる際にいい席を取ろうと、「日本大使館の藤堂」と名乗っていた。おかげでボーイから案内されたのは奥の方にある広いテーブルだった。席まで丈太郎が腕を組んでジジをエスコートしていく途中で、男性客たちの多くは黒いドレス姿のジジを振り返って憧れの目で見ていた。丈太郎はかなり得意げだった。
予約したときに料理も伝えていたので、テーブルにつくとすぐに食前酒のシェリー酒が出てくる。続いて出てきたオードブルを食べながら、丈太郎はジャン=ピエールから教えてもらった通り、“デート用の会話”を始めた。
ジャン=ピエールによると、ジジの話をよく聞いてやって“聞き上手の話しやすい男”になることが大切だという。
そして、さりげなく嫌味に聞こえないように自慢を織り込み、ところどころでポイントを稼ぐことも重要だと聞いていた。
だが、丈太郎は最初からつまずいた。
「ここのブシェルはとてもおいしいそうだ。楽しみだね」
ブシェルとは、1920年代のパリで大流行している新しいフランス料理だ。仔牛のレバー、リ・ド・ヴォ(仔牛の胸腺)、ヤマドリダケ(フランスの代表的な茸)を具材にした濃厚なクリームシチューにマディラ酒を混ぜ、これをカリカリに焼き上げたパイケースに盛り付けて、おろしたパルメザンチーズを振りかける。そして、最後の仕上げにオーブンでこんがり焼き上げたものだ。
この時期にパリを旅したものは、地元に帰って語り草にしたというほど有名な料理である。
丈太郎の言葉にジジは素っ気なく返した。
「知ってるよ。何回か食べたから。あんたは初めて?」
―しまった。僕が背伸びしていることを見透かされているのか・・・・?―
心の動揺を隠して丈太郎は意味もなくうなずく。
「僕は、食べたことあるような、ないような・・・・・まあ、料理のことは出てきてからのお楽しみだ。ところで、君は夜のモンパルナスでは有名人だけど、昼間は何をしているの?」
ジジは躾の行き届いたウェイターが優雅な足取りで運んできた、アンティチョークのサラダを興味なさそうにフォークでつついた。
「何も。あたしのこと話しても、つまんない」
ジジは自分のことをほとんど話さなかった。幼い頃のことなどを聞いても、さらりと話題を変えてしまう。かろうじて「亡くなった親類の遺産があるから、当分は働かなくても食べていける」という話を聞きだしだけだ。
丈太郎はそこから会話を広げようと思った。
「じゃあ、君はお金持ちのお嬢さんなんだね」
しかし、ジジは不機嫌そうな顔になる。
「別に」
そして、形のいい唇を大きく開けて、アンティチョークを乱暴に頬張った。
―まずい。会話が楽しくないぞ―
焦り始めた丈太郎の気持ちに気づいたのか、それとも少しはリードしてやろうと思ったのか、ジジは丈太郎に生い立ちを話せと言ってきた。
会話を盛り上げることができず、仕方なくジャン=ピエールに教えてもらったデートマニュアルを放棄して、ジジが求めるままに自分の身の上話を話し始めた。
「・・・・・・ふーん。じゃあ、あんた、もしかしたら料理人になってたかもしれないんだ」
「うん。子供の頃は本気でオヤジのあとを継ごうと思ってた」
丈太郎の実家は浅草に店を構える小さな料理屋だった。もともと両親は関西の出身だが、料亭で修行中の板前見習いだった父と、ある財閥の創業家の娘であった母は、身分の違いを超えて恋に落ちてしまった。
悩んだ末、2人は思いを遂げるために駆け落ちして東京にやって来たのだ。
父と母は悪戦苦闘しながら浅草に店を出して1人息子の丈太郎を育て上げた。しかし、4年前の関東大震災で店舗兼住居は倒壊し、父は建物の下敷きとなって死んでしまった。
丈太郎はその頃、霞ヶ浦の飛行場で輸入したアメリカ機の実験に没頭していたため、被害に遭わずに済んだが、知らせを聞いて浅草に戻った時には崩壊した街に愕然とした。
ジジは丈太郎の話を聞くと気の毒そうにつぶやいた。
「ママ、かわいそう。駆け落ちするほど惚れた男が死んじゃったんだから・・・・・」
だが、丈太郎は穏やかな顔で首を振る。
「その時は悲しかっただろうけど、今は違うよ。板前を雇って店を再建して、いつも笑顔でいる」
そして、優しく何かを見つめるような目になった。
「両親は一緒に建物の下敷きになったんだ。オヤジは倒れかけている柱を体全体で支えながら、お袋に『早く逃げろ』って言ったそうだ。お袋が『1人じゃ行けない』と拒むと、オヤジは『お前の笑顔は俺の宝だ。宝は命に代えても絶対に守る』って言ったそうだよ。その言葉に押されてお袋は瓦礫の下から這い出した。お袋が逃げ出すのを見届けるとオヤジは力尽きて、家は完全に潰れた。だから、お袋はオヤジのために笑顔を絶やさないんだ。宝物をあの世のオヤジに見せてるんだろうね」
ジジはアンティチョークをつついていたフォークを止めて、真剣に聞いていた。そしてポツリとつぶやいた。
「“俺の宝”か・・・・・素敵な男・・・・・・」
そのとき、ウェイターがメインディッシュを運んできた。2人の前に置きながら言う。
「当店自慢のブシェルでございます。ソースが熱くなっておりますので、お気をつけください」
丈太郎は明るい声を出した。
「何だか湿っぽい話になっちゃった。さあ、食べよう。実は僕は初めて食べるんだけど、評判通りおいしそうだ」
そう言って料理にフォークをつけようとした時だった。テーブルの横を通り過ぎようとしていた、上等なスーツを着た背の高い男が立ち止まる。30代後半ぐらいの、いかにも金を持っていそうな男だった。男はジジを見ると目を丸くし、唇を歪めた。
「これは驚いた。お前、まだパリにいたのか」
ジジは男を見上げて少し驚いたような表情になり、すぐに不愉快そうに顔をそむけた。男は無遠慮にジジと丈太郎を見比べる。
「ほー、新しい獲物を見つけたか。まったく、お前は何人の男に嫌な思いをさせれば気が済むんだ?」
ジジは大きな目で男をにらみつけた。
「いい加減なこと言わないで。さっさと自分のテーブルに戻りなさい」
周囲のテーブルはジジと男の間にある不穏な空気を感じて、皆、食事の手を止めて2人の会話に聞き耳を立て始めた。男は今度は丈太郎に向かって、そんな周りの人々に聞こえるような声で言う。
「君にいいことを教えてやる。この女はとんでもない奴だ。美しいのは外見だけさ。そのうちひどい目に遭うから、そうなる前に逃げた方がいいぞ」
男をにらんだまま、ジジは押し殺したような声で言った。
「あんた、ここで騒ぎを起こしたいの? そうなったら、あんたも困るんじゃない? さあ、早く消えなさい」
男は肩をすくめた。そして、「お前とは二度と会いたくないもんだ」と捨てゼリフを残して立ち去ろうとした。今まで黙っていた丈太郎はスッと立ち上がる。
「待て」
丈太郎は滅多に見せない怖い目をしていた。自分からケンカをするような性格ではないが、多くの人の前でジジが恥をかかされたことは我慢できない。
相手の男は自分より体が大きく、それなりの身分がありそうだ。しかし、そんなことは関係ない。今日の自分にはジジを守る義務があるのだ。丈太郎は立ち止まった男に歩み寄る。
「あなたは私と一緒にいるレディを侮辱した。謝罪してもらおう」
今や周囲の客は食事そっちのけで3人に注目していた。男は冷ややかな目で見下ろした。丈太郎より頭一つ分も背が高かった。
「謝罪だと? 私を誰だと思っている。東洋人からそんなことを言われる筋合いはない」
丈太郎の目に本格的に怒りの炎が見え始めた。
「あなたが誰だろうと知ったことではない。それに、東洋人が相手だと謝罪できないと言うのか? 私は大日本帝国在フランス大使館付け海軍大尉、藤堂丈太郎という者だ。あなたから一緒にいる女性を侮辱される覚えは一切ない」
男は頭に血が上りかけている丈太郎の様子を見て、彼の身元の重要度を素早く頭の中で計算した。彼は白人至上主義者で日本にも丈太郎にも敬意を払ってはいない。
だが計算結果は、ここ十数年で急速に力をつけてきた、極東の国の海軍関係者ともめ事を起こすのは得策でないと出た。だから、態度を一変させて作り笑顔を見せ、深々と頭を下げる。そんなことが簡単にできる男だった。
「これは失礼しました、大尉殿。お楽しみのところ邪魔をして、大変申し訳ありませんでした。この通りです。お許しください」
しかし、丈太郎の怒りは収まらない。
「私に謝罪してほしいのではない。彼女にしてほしいのです」
男はさっと作り笑顔をしかめた。明らかに拒否の顔だった。緊張した空気の中、ジジはナフキンをテーブルの上に放り投げて急に立ち上がる。
「もういいよ」
そして歩き出すと眉間にしわを寄せ、険しい表情になった。しかし、どことなく寂しい目で丈太郎と男の横をすり抜けた。丈太郎はあわててジジを追う。
「まだ食事の途中じゃないか。落ち着けよ」
「つまんない。帰る」
そう言い残し、振り向きもせずにジジは店を出て行った。丈太郎は店のマネージャーに勘定を渡し、釣りも受け取らずにジジを追いかけた。
残された男は周囲に向かって肩をすくめ、さっさと自分の席に戻っていった。人々は何もなかったように和やかな夕食を再開した。
ジジはサン・トレノ通りからマドレーヌ大通りに抜ける石畳の道を、ハイヒールの音を響かせて歩いていた。周りには華やかな色のネオンがきらめいている。だが、周囲を見ることもなく、ただ前を見て黙々と歩いていた。
道行く男たちは1人で歩く極上の美女を見つけて振り返るが、人を寄せ付けない刺々しいオーラを身にまとったジジに話しかけることはできなかった。
丈太郎はようやくジジに追いついた。何か言おうとしたが、ジジのきつい表情を見て口をつぐむ。そして、しばらくそのまま並んで歩き続けた。
「ねえジジ。このままモンマルトルまで歩いて帰るのかい? その靴じゃ無理だと思うけど・・・・・・」
ジジはキッと丈太郎をにらんだ。
「嫌なら、あんた1人でタクシーで帰れば? あたしは歩きたいの」
それっきり、またジジは黙り込んだ。仕方なく丈太郎も無言で彼女の隣を歩く。
1キロ近くは歩いただろうか。いつの間にか2人は賑やかな場所を通り過ぎ、ひと気のない道に出ていた。たまにすれ違う者は、男も女も何だか物騒な雰囲気だ。ジジは突然、立ち止まった。
「ジョー、疲れた。タクシー呼んで」
だが、こんな場所にタクシーが通るはずない。
「無理言うなよ。タクシーなんかいないよ」
「何とかしなさいよ。あたし、もう歩きたくない」
丈太郎はため息をつき、「しょうがない」と言ってジジの前に背中を見せて座り込む。
「背中に乗って。タクシーじゃないけど、歩くよりはいいと思うよ」
ジジは少しためらったが、丈太郎の背中に抱きついた。丈太郎は両手でジジの両脚を抱えて、そのまま立ち上がった。ゆっくりした足取りで前に進む。しばらくはジジの気持ちをなだめるように黙って歩く。
「これ、日本で“おんぶ”って言うんだ。どう?」
丈太郎の背中はジジが思っていたよりずっと広く、そして温かかった。その温もりで、ジジは苛立っていた心が次第に安らいでいくような気がした。両腕を彼の首に回して、耳元に小さな声で言う。
「悪くないね・・・・・・」
丈太郎はひと気のない道を歩き続けた。道の両側にある建物の間から見える夜空には、丸く青白い月が浮かんでいる。まるで、2人の成り行きを見守っているようだった。
「さっきの男と何があったかなんか、僕は聞かない。君の言いたくないことは言わなくていい。ただ僕は、君と一緒にいるだけでいいんだ。今夜のことに懲りずに、また食事に付き合ってくれないかな?」
ジジは丈太郎の首に回した腕に力をこめた。丈太郎の体温を通して、真面目で嘘のない心が伝わってくる。ジジは丈太郎の耳元に顔を寄せた。
「うん。またね」
これまでのように素っ気なさも刺々しさもない、素直なささやきだった。2人の間には、また沈黙が流れた。だが、それは先ほどの気まずい沈黙ではなく、静かで心地いい時の流れだった。少々危ないこの通りが、いつの間にか月明かりに優しく照らされたロマンチックな場所に変わっていた。
丈太郎は月明かりに気づいて空を見上げる。月は清らかに白く、柔らかだった。さしかかった路地から気持ちいい風が吹いてくる。風に誘われるように、丈太郎の口からは昼間、日本大使館で仕事をしながら考えていたことが自然に出てきた。
「ジジ、君は正直言って話しかけにくい時もある。怖そうに見える時もある。でも、本当はとっても繊細な人なんだと思う。だって・・・・・・」
途中で口をつぐんだ丈太郎にジジは続きを促した。
「だって?」
「・・・・・・・」
ジジは少し笑った。
「何よ、言いなさいよ。そこまで言ったんだから」
丈太郎は顔が赤くなった。
「・・・・・・だって、僕には君の怒った顔が、悲しそうに見えるから」
そして、迷いながら小声になる。
「僕は、そんな君の心を抱きしめたい」
丈太郎の背中からジジはおどけた声を出した。
「抱きしめるのは体じゃなくて心でいいの? そんなこと言う人、初めて」
再びジジは笑った。その笑いにはどことなく自嘲めいたところがあったが、決して不愉快な響きではない。丈太郎は思ったことを正直に言ったとはいえ、茶化されたことが恥ずかしくなって黙って歩き続けた。しばらくすると、ジジはポツリと言う。
「あんた、やっぱり優しいね」
丈太郎はどう答えればいいかわからず、少しぶっきらぼうな声になった。
「そうかな」
「そうよ」
月明かりはそんな2人を柔らかく包んでいる。ジジは月と丈太郎に癒されているような気がした。自然に丈太郎のうなじに頬を寄せる。
「あたし、“モンパルナスの月”って呼ばれてるの。知ってる?」
「うん」
「ホントはあんまりうれしくない。だって、月って悲しいもん。暗いところでしか輝けない。太陽みたいに、みんなから必要とされている訳じゃない」
丈太郎は切なくなった。“モンパルナスの月”と讃えられるこの美女は、本当は寂しいのだ。外見ばかりが注目されて、心まで見てくれる者がいない寂しい月。そんな気持ちでいるジジがたまらなく愛おしくなった。
「僕は太陽より月の方が好きだ。太陽のようにいつも明るいと、僕のような陰気な男は疲れてしまう。月の方がいいな」
ジジはクスクス笑った。
「あんた陰気なの?」
「陰気だよ」
「変な奴」
今まで吹いていた風が急にやんだ。とたんに辺りは静寂に包まれる。眠らない街、パリのど真ん中にいるのに、このとき喧騒はピッタリと止まり、2人にはお互いの心臓の鼓動しか聞こえなかった。
ジジは丈太郎が自分の心の中を見ようとしてくれているのがうれしかった。これまで容姿を褒められたことは何度もある。しかし、心を労わってもらったことはない。すべて自分が悪いのだが・・・・・
夜空の星たちは、ジジの次の言葉をじっと待っているように瞬いていた。
―もっと見てほしい。外見じゃなくて、あたしの心を見て・・・・―
ジジは意を決した。恥じらいを隠す横柄な口調になる。
「ジョー。あんた、あたしのことを好きになりなさい。あたしもあんたのことを好きになってあげるから」
「えっ!?」
丈太郎はジジの乱暴な愛の言葉に驚きながらも、正直に答えた。
「もう、なってるよ・・・・・・」
ジジは恥ずかしそうに微笑んだ。
「そっ。じゃあ、右を向いて」
丈太郎が言われた通りに右を向くと、唇にジジの柔らかい唇が重なってきた。丈太郎は歩みを止めて、しばらくそのままジジの甘い吐息を吸った。夜空に浮かぶ月はまるで照れているように、いつの間にかほんのりと赤く染まっていた。