突然降ってきたモンパルナスの月
二章
ジャン=ピエールが丈太郎とともに入ったのは、『マリアンヌ』という名の店だった。中はかなり広いが、基本的にはカフェのようだ。だが、カフェにしては窓が1つもない。それに、天井のいたるところにムーラン・ルージュなどのキャバレーで見かけるようなミラーボールが付いている。
店内は全体的に薄暗く、まるで開演直前のコンサートホールのようであった。ボーイに案内されてテーブルにつくと、ジャン=ピエールはテーブルに置いてあった食事のメニューを取り上げた。
「メシまだだろ? 何か食おうぜ。早く食わないと、そんな暇なくなっちゃうから」
そして、丈太郎の返事も待たずにステックフリットステーキを2人前、それに赤ワインをフルボトルで注文した。ステックフリットステーキとは、ステーキにフライドポテトを添えただけのシンプルな料理で、フランス人はこれが大好物だ。
丈太郎が珍しそうに店内を見回していると、あっという間にステーキとワインが運ばれてきた。ジャン=ピエールはワインをゴクゴク飲みながら、ステーキとポテトを交互に口に運ぶ。丈太郎は「少し肉が固いな」と思いながらステーキをゆっくり噛んだ。
「ジャン=ピエール。ここはどんな店なんだ? 何だか作りが変わってるし、テーブルも普通じゃない」
丈太郎の指摘通り、テーブルはがっしりとした作りで床に固定されている。まるで大勢の人が上に乗っても耐えられそうだった。それに、店の至るところで食器棚より少し背を低くしたような台がいくつも並んでおり、それも床に固定されていた。
ジャン=ピエールは大量のポテトを頬張りながら答える。
「言葉じゃ説明できない。でも、今、パリで一番面白いところなのは間違いないぜ」
その時、丈太郎たちのテーブルの前で立ち止まった男がいた。丈太郎は男を見上げて微笑む。
「これは薩摩さん、こんばんは」
男の名は薩摩治郎八。木綿を扱う神田の豪商の三代目で、ずい分長い間パリで遊学している。丈太郎の1つ年下の27歳のはずだ。
莫大な仕送りを背景に湯水のように金を使って盛大に遊ぶことから、パリの人々は薩摩のことを“バロン”と呼んでいる。
この物語の2年後の1929年から始まる世界恐慌で、神田の実家は倒産するのだが、それでも薩摩は日本に帰ろうとせず、第2次世界大戦が始まってもパリに居座って、1951年に無一文となって帰国するまで、約30年をパリで過ごした。
彼がパリで使った金は今の価値に換算すると、600億円にも上るという、ある意味では豪傑だ。特に何かをした人物ではなく大金持ちの放蕩息子といえばそれまでだが、明るく社交的で、いろんな方面に人脈が広い。パリに住む怪人物の1人と言ってよかった。
丈太郎とはモンパルナス以外の店でも何度か会ったことがあり、同じ日本人ということで簡単なあいさつを交わす仲になっている。
薩摩はいつものように美しい女性を両脇に連れて、楽しげな笑顔を浮かべていた。
「大尉さん、こんな店にもいらっしゃるんですね。よかった、私はそんな人が大好きなんです」
丈太郎は何となく薩摩から冷やかされているように感じた。
「いいえ・・・・・・今日が初めてなんです。この店、少し変わっているように思うのですが、何か特別な楽しみ方があるのなら教えてください」
薩摩はにっこり笑って首を振った。
「この店に特別な楽しみ方なんかありませんよ。気の向くまま、体の向くままに楽しめばいいのです」
そう言って会釈して、美女を引き連れて奥のテーブルに消えて行った。丈太郎はよくわからないといった表情になる。
「ジャン=ピエール。一体ここはどんな店なんだ? 薩摩さんはなぜ、あんなことを言うんだろう?」
ジャン=ピエールは最後の肉片を口の中に放り込み、それをよく噛んで飲み込んだ。
「バロンも言ってただろ? ここでは難しいこと考えずに、気の向くまま、体の向くままに楽しめばいいんだよ」
彼の言葉が終わらないうちに、店内の客たちがざわめきだした。しばらくすると入り口から2人組の若い女性が現れる。ざわめきの原因は、どうやらこの2人のようだった。
歳の頃合はどちらも22、3といったところ。女性たちはモンパルナスでよく見かけるブルネットのボブに派手なワンピースのフラッパーであったが、その美しさは女性たちの中でも群を抜いていた。
フラッパーに尻込みして近づかない丈太郎でさえ、しばらく2人の美しさに見とれる。
高いハイヒールをはいた2人は背筋を伸ばして颯爽と歩き、ボーイに案内された少し影になった場所のテーブルについた。だが、陰になった場所でも彼女たちの華やかさは消えることがなく、暗い部分が一気に明るくなったように感じる。
ジャン=ピエールは小さく口笛を吹いた。
「こりゃあ今夜は運がいい。モンパルナスの“太陽”と“月”を同時に拝めるなんて」
口笛で我に帰ると、丈太郎は彼に尋ねる。
「あの2人を知ってるのか? とても美しい人たちだ。安い舞台の女優や歌手など太刀打ちできるもんじゃない」
「当然さ。あの2人はおそらく、パリで一番美しい」
ジャン=ピエールは自分のことのように自慢げだった。
「向かって左側の女性はキキ。以前はテアトル・デ・シャンゼリゼで踊っていたダンサーだそうだが、今はモンパルナスの芸術家たちのモデルをしている。とにかく人気モデルなんだ。芸術家たちに言わせると、キキは外見の美しさもさることながら、絵を描いたり写真を撮ったりしているうちに、内面から次から次に光のような魅力が溢れ出るそうだ。彼女がいるだけで周囲が明るくなって心地いいから、“モンパルナスの太陽”と呼ばれている」
キキは運ばれてきたワインを飲みながら、連れの女性と仲良くおしゃべりしていた。確かに眩い美人といった感じで、周りを照らす華やかさを持っている。
それに比べると、右側の女性はキキに負けないくらいの美女なのだが、ツンと上を向いた鼻や気の強そうな大きな目が、どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「そして、右の女性はジジ。以前はキキと一緒に踊っていたダンサーだったらしいが、あれだけの美人なのに謎めいたところがあって、簡単に男を寄せ付けないんだ。ジジに憧れてる男は大勢いるけど、恋人がいるという話は聞いたことがない。いつも男たちに笑顔を振りまいているキキとは対照的で、でも、普通の男にはやっぱり手が届かないっていう意味で“モンパルナスの月”と呼ばれている。確か歳は2人とも22だったと思うよ」
丈太郎はキキとジジを見つめた。ジャン=ピエールの言っていることが、よくわかる気がする。2人のことを知ったのは今日が初めてだが、それでも、なぜキキが太陽と呼ばれ、ジジが月と呼ばれるのかが直感で理解できた。
その時だった。ふいにジジの視線が丈太郎の方に流れ、一瞬だが2人の目が合った。ジジの黒い瞳は丈太郎を射るように真っ直ぐ見つめた。強い視線の中には、なぜだか悲しそうな色があった。
彼女の瞳に丈太郎は息が詰まりそうになる。急に頬が火照り、胸がドキドキしてきた。こんなことは生まれて初めての経験だ。
ジジの視線はすぐに丈太郎から離れた。ハンドバッグからゴロワーズを取り出し、長く細い指で口に運ぶと、そばを通りかかった男が、すかさずライターで火をつけてやった。男はジジに何か話しかけたが、追い払うように吹きかけた煙草の煙でジジの顔が霞んだ。
立ちのぼるゴロワーズの煙を見つめながら、丈太郎は思わずつぶやいた。
「・・・・どうして?・・・・君は何が悲しいんだい・・・・?」
そんな丈太郎の言葉などジジにはまったく届かず、彼女はワインを飲みながら煙草の煙をくゆらせていた。
店内がほぼ満席になった頃、店の中央にモンパルナスの前衛的な芸術家張りの格好をした、若い男が出てきた。
男の登場に合わせて、店の隅に設置している低いひな壇に、お揃いの服を着たジャズマンたちがゾロゾロと上がってくる。20人近くはいるだろう。
この頃はまだジャンルとしては確立していなかったが、人数や楽器から見てビッグバンドの編成に近い。芸術家張りの男はジャズマンたちが位置に付いたのを確認すると、張りのある元気な声を出した。
「みなさま、お食事はお済みですか? ほどよく酔っ払ってきましたか? そろそろ時間もいい頃合になって参りましたので、いよいよ当店名物のダンスタイムを始めたいと思います。私たちもドンドンやりますから、みなさまも音楽に合わせてガンガン踊って、ズッポリ濡れてくださいね」
そして、ジャズバンドに向かって腕を上げた。
「それではみなさま、『マリアンヌ』のダンスタイム! 存分に楽しんでちょうだい!」
男が言い終わり腕を振り下ろすと同時に、ドラムが強烈なビートを刻み始めた。スティックの動きが見えないほど速い。そして、ビートを追うようにピアノがすさまじい速さで乾いた連続音を立てる。
次の瞬間、一斉にギター、ベース、トランペット、サックス、トロンボーンがアップテンポのジャズを演奏し始めた。ミュージシャンたちはニューヨークからやってきた本場のジャズマンで、アンサンブル、ソロ、アドリブで、ノリのいい曲はすべてこなせる。
トランペットがアドリブでソロを始めた時だった。座っていたフラッパーたちが次々に立ち上がり、店内にいくつもある背の低い食器棚のような台やテーブルの上に乗って、腰を振りながら踊り始めた。音楽に合わせて奇声や叫び声を発している。その光景に丈太郎は心底驚いた。
―何だこの騒ぎは!? 浅草の三社祭りよりすごい!―
轟音に近い音楽、台やテーブルに上がったフラッパーたち、天井から吊り下げられたミラーボールに反射する何種類もの光、そして、その光の中で炸裂する奇声・・・・・『マリアンヌ』とは女性客が自発的に踊り子になって、エネルギーを爆発させるという、新しいスタイルのキャバレー&ダンスホールだった。
この時代、このような型破りの店は、世界中を探してもモンパルナス以外では考えられない。
ジャン=ピエールは無遠慮に、テーブルに乗ってきた女性たちの短いスカートの中を覗き込んでいたが、丈太郎は恥ずかしくてそんなことはできない。だが、普通にしていても女性たちの脚が目の前にあるので、何かの拍子に太ももぐらいまでは見えてしまう。目のやり場に困ってひたすらワインを飲み続けた。
ジャン=ピエールは急に立ち上がり、音楽に負けないくらいの大声で言った。
「向こうのテーブルに好みの女を見つけた! 行ってくるから待ってろ! 収穫があったらお前の相手も調達してやるよ!」
そう言ってジャン=ピエールが席を離れていくと、丈太郎はいよいよ何をしていいのかわからなくなった。突然、頭上から若い女の大声が降ってくる。
「ジジじゃない! 久しぶり! しばらく見なかったけど何してたの!?」
丈太郎はできるだけ女性たちの脚を見ないようにうつむき加減だったが、声に反応して少しだけ顔を上げる。すると、いつの間にか隣のテーブルの上に乗って踊っているジジを発見した。ジジは声をかけた女性に手を振っている。
先ほどよりずい分近くで見た彼女は、遠くで見るよりさらに美しかった。肩まではかからない黒い髪が揺れて、ほっそりした頬を伝う汗がミラーボールの光に反射して七色に光っている。瞳は黒いが少しグリーンがかっているように見えた。
ジジは友達に向かって大声を張り上げる。
「ちょっと待って! あたしもそっちに行くから!」
そして、ひらりとジャンプして隣のテーブルから丈太郎のいるテーブルに飛び移った。だが、着地のときに高いハイヒールが災いして、彼女は足を滑らせてしまった。空中で横倒しの姿勢になると、そのまま床に落下しそうになる。
「危ない!」
丈太郎は椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、テーブルから転倒したジジを抱きとめた。
「きゃっ!」
ジジの友達を含めて周囲にいる者は一瞬息を呑んだ。しかし、ジジが無事に丈太郎に抱きとめられるとホッとして、再び踊りの陶酔の中に戻っていった。
丈太郎の腕の中でジジは目を見開いていた。しかし、自分にケガのないことがわかると、ゆっくり微笑んだ。生意気そうな、だが、全身の力が抜けてしまうような魅力的な笑顔だった。
「ありがと。もう大丈夫だから、降ろしてもらえる?」
「あっ! これは失礼!」
丈太郎はあわててジジを降ろす。並んで立つと、ハイヒールの分、ジジの方が少し背が高かった。ジジは丈太郎に体を寄せて自分から彼の首に両腕を回した。目の前にジジの整った小さな顔がある。それに、細い体なのに大きな胸が丈太郎の胸に当たった。彼の心臓は高鳴った。
「これは助けてくれたお礼」
そう言ってジジは丈太郎の頬にキスした。丈太郎は信じられない思いだった。頬とはいえ、こんな美女にキスをしてもらったのだ。カチコチに固まっている丈太郎にジジは言った。
「あんた、1人で来たの?」
「いや・・・・・友達と来たんだけど・・・・・・」
モゴモゴという丈太郎にジジは怒鳴った。
「なに!? 音楽が大きくて聞こえない!」
「友達と来たんだ! でも、どこかに行っちゃった!」
ジジは少し笑った。
「そっ。あたし、さっきので足をひねったみたい。しばらく踊れないから休憩に付き合って」
そして、少し足を引きずるように壁際の目立たない席に歩いていった。丈太郎はあわてて後を追う。ジジが座った席は前に大きな柱があって若干音が遮断されるため、大声で話さなくてもいい場所だった。
「あたし飲みたい。冷たい白ワイン、ボトルで持ってきて」
丈太郎は客席を歩き回っているボーイを呼び止めて、ワインとチーズを注文した。
ボーイが去ると、改めてジジに向き直る。ジジはボーイと会話している丈太郎の顔をずっと見ていたようだった。
「あたし、ジジ。あんたは?」
「僕はジョータロー」
「ジョータロー? 何だか言いにくい名前ね。ジョーにしときなさい。東洋系みたいだけど、どこの国の人なの?」
「日本人だ。日本という国を知ってる?」
「聞いたことはあるけど、よく知らない・・・・・」
丈太郎は苦笑いした。一般的な欧米人にとって、つい60年ほど前に開国した東洋の島国のことなど、理由がない限り興味の対象にならない。
だが、日本人にとってはプライドを傷つけられる会話でも、ジジが相手だと心が躍る。彼女が発する言葉は内容というより音自体が、とても耳に心地よかった。
千載一遇のチャンスを得たとばかりに、丈太郎は何とかジジを楽しませようと懸命に会話を続けた。だが、話は全然盛り上がらない。
「この店、初めて来たけどすごいね」
「初めてだからそう思うんだよ。しょっちゅう来てれば大したことない」
「・・・・・そうだ、君はモンパルナスの有名人なんだよね?」
「別に。みんなが勝手にあたしとキキにあだ名を付けてるだけ」
「・・・・・そ、そういえば、さっき、君がこの店に入ってきてすぐ、目が合ったね」
「そうだっけ? あたしのこと見る男は多いから、いちいち気にしてない」
「・・・・・・」
―ダメだ。彼女、退屈そうだ。何とかしないと・・・・・―
苦し紛れに月並みなことを言ってみた。
「・・・・しゅ、趣味はなに?」
―僕は何をバカなことを聞いてるんだ!―
予想通り、ジジは軽いため息をついた。しかし、とりあえず答えてはくれる。
「趣味? 別にないけど、強いて言えば人間観察かな」
―やった! どうにか話がつながったぞ!―
「人間観察か。じゃあ、僕はどう見える?」
ジジは丈太郎を見つめると少し考え込んだ。
「・・・・・そうね。何か得意なことはあるのかもしれないけど、全体的に見ると平均点以下。特に女についてはモテたことなんか、ほとんどない。ホントなら、こんな店で初めて会った女を口説くタイプじゃない。男友達相手にマニアックな話をしてる方がお似合い、ってとこかな」
丈太郎は少しムッとした。
―何だこのコは。まだ出会ってから数分しか経ってないのに、キツいことズバズバ言いやがる。外れてはいないけど・・・・・―
しばらく無言になってしまった丈太郎に向かって、ジジは小首を傾げると微笑んだ。
「急に黙らないでよ。図星だった? 気に障ったんなら謝る。ごめんね」
その笑顔に丈太郎の心はとろけそうになった。
―何てきれいなんだろう。彼女なら、何を言っても許せる・・・・・―
気を取り直した丈太郎は頭をかいた。
ぎこちないながらも、どうにか会話になり始めた頃のことだった。何かのはずみでジジが飛行機の話をしたことで、突如丈太郎の目は輝いた。
「・・・・・・・ホントだって。あたし、パリからベルギーまで飛行機で行ったこともあるんだよ。その頃遊んでた男がパイロットだったんだもん。そいつ、シュナイダーカップにも出たことあるし。あたし、練習なんかも見に行ったことあるんだから」
「な、なに!? シュナイダーカップ!?」
飛行機が何より好きで仕事にまでしている丈太郎にとって、シュナイダーカップの話はただ事ではなかった。
通称シュナイダーカップ、正式にはシュナイダー・トロフィー・レースと呼ばれるこのレースは、フランス人の大富豪、ジャック・シュナイダーの主催によって1913年から開始された水上機のスピードレースだ。
エントリーできるのは個人や航空機メーカーではなく、国単位であり、航空機先進国のイギリス、フランス、イタリア、アメリカの4カ国が国家の威信をかけてこのレースを競っていた。
3大会連続で優勝すれば、シュナイダー・トロフィーを優勝国が永久保管するルールで、それをもってこのレースは『航空機の発展に寄与する』という使命を終えて開催を終了することになっている。
スピードレースを重いフロート(舟)を付けた水上機で行うのは合理的でない発想だが、これにはちゃんと理由がある。飛行機の速度を上げるには、どうしても翼の断面積を小さくしなければならない。しかし、そうすると揚力が発生しにくくなり、機体を空中に浮かび上がらせるには長い距離を滑走しなければならない。
そのために長大で、敏感な翼をしならせない滑らかな滑走路が必要となるのだが、当時の道路舗装技術では、そんな滑走路を作るのは非常に難しかった。そこで考え出されたのが、穏やかな湖面や湾内の水面を滑走路に使うという方法だ。つまり、1920年代に地球上で最も速い乗り物は水上飛行機だったのだ。
シュナイダーカップは1931年にアメリカの3大会連続優勝で幕を閉じる。その後は舗装技術が進歩して滑らかな滑走路を作ることが可能になったため、地球上で最も速い乗り物は陸上の飛行機に移り変わった。
丈太郎は目の前にジジという大変魅力的な女性がいるにも関わらず、口説くなどよりシュナイダーカップの話が聞きたくなった。
「君はシュナイダーカップを見に行ったことがあるのか?」
ジジはゴロワーズをくわえて促すように丈太郎を見た。丈太郎は視線の意味に気づき、あわててマッチをすって火をつけてやる。ゴロワーズに火がつくと、ジジはゆっくりと煙を吐いた。
「本番は見たことない。練習だけ。だってそのときの開催地、ハンプトンロードっていうアメリカの田舎町だったのよ。いくらなんでも、そんなところまでは行けないじゃない」
話に丈太郎は目を輝かせた。
「じゃあ、去年の話だね。確かその年の優勝はイタリアのマッキM.29だった」
「そう。あたしの男友達のチームメイトが優勝したんだって。あんた、飛行機詳しいのね。好きなの?」
「そりゃあもう・・・・・・」
丈太郎は自分が飛行機の開発に携わっていることや、飛行機の素晴らしさ、シュナイダーカップの意義を熱く語った。
「数年前に翼に取り付けるフラップという部品が開発されたんだ。これで着地速度を低速にコントロールすることが可能になって、飛行機は短い距離で安全に・・・・・」
「・・・・・・・・」
ジジは飛行機の種類や構造などにはまったく関心を示さない。だが、丈太郎が飛行機から見たフランスの眺めを絶賛すると、それには興味を持った。
「へー。フランスの街や海って、そんなにきれいなんだ。あたし、気づかなかったなぁ。地上で見てると何でもない風景だけどね」
「うん。風を切って空から景色を眺めることが、こんなにも素晴らしいものかと感動してしまうよ。神様が創った大地は本当に美しい」
何を思ったのか、急にジジは意地の悪い目になった。
「そんなに地上はきれい? でも、空から見えないところには醜いものがたくさんあるんだよ? 森の中には狼がいて、街には泥棒も人殺しもいる」
だが、丈太郎の目の輝きは消えない。
「それでもきれいだと思う。街も、野山も、海も、いいところもあれば悪いところもある。でも、一つでも素晴らしいところがあれば、やっぱり素晴らしいよ。例え悪いところがあっても、僕はそれをひっくるめて好きになれる」
ジジは丈太郎の目をじっと見つめた。これまでとは違う、何か丈太郎の心を見透かそうとしているような目だった。彼女はフッとそらす。グラスに満たされたワインをゴクリと飲んだ。
「あんた、優しいんだね」
そして、ニッと笑った。
「あたしもそんな優しい人に出会ってたら・・・・・・なんてね。難しい話はいいや。今日は飲も」
それから丈太郎はジジにすすめられるままに酒を飲んだ。ワインがなくなるとボーイにスコッチウィスキーをボトルで持ってこさせ、それもすさまじいペースで減っていく。
丈太郎も酒は強い方だと思っていたが、ジジの飲みっぷりは恐ろしいほど豪快だ。彼女に合わせて飲んでいるうちに、いつの間にか丈太郎は意識が朦朧としてきた。丈太郎が最後に覚えているのは、ジジの艶めかしい唇だった。
次の日の早朝。丈太郎は真っ白なシーツを張った寝心地のいいベッドの上で目覚めた。天井の柄が毎朝見ているホテルのものと違う。
―・・・・・ここはどこだ・・・・・・?―
その時、すぐ横で誰かが動く気配がした。驚いて気配のした方を見ると、何と眠っているジジが寝返りを打っている。ジジの胸は薄い夏布団に覆われていたが、胸の谷間がはっきり見えて、明らかに服を着ていないのがわかる。
「わっ!」
丈太郎は飛び起きた。ベッドから出ると自分も何も服を着ていないことに気づく。ベッド脇の床には、自分とジジの服や下着が散乱していた。丈太郎はジジの黒いシルクの下着の下から、自分のパンツを探し出し、あわてて身につける。そんな気配に目を覚ましたのか、ジジがベッドの上でムクッと身を起こした。
「・・・・・・朝、早いんだね・・・・・・もう服着ちゃうの・・・・・・?」
あくびをしながら言うジジに、動揺した丈太郎は声を裏返しながら聞いた。
「あの・・・・・ここはどこ? 僕は一体何をしていたんだろう・・・・・・?」
ジジはまだ眠そうに目をこすった。
「ここ? ここはモンマルトルのあたしのアパルトマン。あんたは夕べ、あたしと寝たの。覚えてないの?」
丈太郎は記憶の糸を懸命にたどった。その頃になって二日酔いからか、頭がズキズキ痛み始めた。痛みを振り払うように急いで服を着る。
「・・・・・・あの・・・・・・覚えてないんだ・・・・・・でも、あの・・・・・・その・・・・・・」
急に丈太郎は深々と頭を下げた。
「酔った勢いとはいえ、僕は君にとても失礼なことをしてしまったんじゃないのか?」
女性経験が極めて少ない丈太郎は、自分のしたことがとんでもない無作法だと思っていた。だが。ジジはポリポリ頭をかきながら、大きなあくびをする。
ベッドの横に置いてある小さな丸テーブルの上の水差しからグラスに水を注ぎ、それを少し飲んだ。そんな仕草で胸までかけてあった布団がズレて、美しい乳房があらわになった。
「なに謝ってんの? 別に失礼なことなんかしてないよ」
丈太郎は少し頭を上げたが、ジジの胸がむき出しになっているのを見ると、再び深々と頭を下げる。
「記憶がなくなるまで酒を飲んで、女性の部屋に泊まるなんて初めてだから・・・・・僕は酔ったはずみに、君に乱暴なことはしなかっただろうか? 本当に君と同意の上でこうなったのだろうか・・・・・?」
ジジは声を上げて笑った。
「なに? あんた、乱暴にするのが好きなの? もしかして、そんな趣味だった?」
頭を下げたままの丈太郎の顔は、見る見るうちに赤くなった。
「いや、そういう趣味はない・・・・ただ、君とこうなるなんて信じられなくて・・・・・」
笑いがおさまると、ジジはもう一口水を飲んだ。
「大丈夫よ。あたしとあんたは、ちゃんと同意の上で愛し合ったの。そうでなきゃ、何であんたを自分の家に入れるの」
そう言って、ジジは布団をめくりベッドから降りた。予想通り、彼女は全裸だった。丈太郎は頭を上げようとしたが、ジジの裸を見て再度頭を下げる。そんな様子をジジは面白そうに笑う。
「今さら何恥ずかしがってんの。何時間か前に全部見たじゃない。いつまでも頭下げてると頭に血が上るよ」
クローゼットからガウンを取り出し、ジジはそれを無造作に羽織った。ようやく丈太郎は頭を上げる。窓から差し込む朝日に照らされたジジは、昨夜とは違う美しさを放っていた。
ブルネットの髪が陽の光に照らされて少しグリーンに見える。気の強そうな大きな目とツンと上を向いた鼻は変わらないのに、何だか昨日より優しく見えた。丈太郎は心から美しい女性だと思った。そして、さえない自分が“モンパルナスの月”をこの手で抱いたことが信じられなかった。
ジジはドレッサーの前の椅子に座り、鏡を見ながらブラシで髪をとかしはじめた。
「あんたが起きたから、あたしも目が覚めちゃったじゃない。謝るぐらいなら朝ごはんおごって」
朝が来てもジジと一緒にいられると思うと、丈太郎は例えようもなく幸せな気分になった。しかし、今日は平日だ。もうすぐ日本大使館に出勤しなければならない時間だった。
「ごめん。朝ごはんを一緒に食べたいのは山々なんだけど、僕はもう行かなきゃ」
鏡の中のジジは丈太郎を見ることもなく、髪をとかしたまま言う。
「じゃあ、もうこれでお別れ?」
丈太郎は一瞬迷った、つもりだった。だが、間髪入れずに言葉が出る。
「いや、朝は無理だけど夕食をどう? 今夜、仕事が終わったら迎えに来るから」
ようやく鏡の中のジジは丈太郎と目を合わせる。そしてニッと笑った。
「そっ。じゃあ待ってる。おいしいもの食べたいなぁ」
「うん・・・・・どこか考えとくよ」
そうして、丈太郎は慌てて服を着てジジの部屋を出ようとした。玄関のドアノブに手をかけたところで振り向く。戸惑い気味の表情だった。
「なぜ君は僕と・・・・その・・・・こうなったんだい?」
まだドレッサーの前で髪をといていたジジは、鏡越しに小首を傾げた。
「さあね。頭の中に飛行機のことしか詰まってないあんたに、他のことを教えたくなったからかな」
丈太郎の顔にようやく笑みが広がった。
ジジの部屋はモンマルトルの豪華なアパルトマンの2階だった。階段を降りて建物の玄関を開けると、外はすでに明るい太陽が輝いている。まだ時間が早いので決して暑くはなく、とても気持ちのいい朝だ。
木々に止まっている小鳥のさえずりがすがすがしい。ジジのアパルトマンはモンマルトル・アベス広場の近くにある閑静な地域にあった。
地下鉄のアベス駅の近くには朝食を出す店がたくさんあるため、近くまで来るとカフェ・オ・レやクロワッサンの香りが漂っている。しかし、丈太郎の頭の中はジジでいっぱいだった。
―僕はなんて幸運なんだ。まだ夢を見ているみたいだ・・・・・・―
丈太郎は穏やかな青空を見上げた。戸惑いとともに微笑が入り混じった表情になった。二日酔いで頭が痛いはずなのだが、ジジのことを考えると痛みは吹き飛んだ。