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文化の最先端、モンパルナス!

 一章


 ル・ブルージュ飛行場から大使館に戻った丈太郎は、フランスで集めてまわった資料と書きかけの報告書の下書きを大きな黒いカバンに入れて、海軍武官室の金庫に保管し、大使館近くのギヨマン公園の向かい側にとっているホテルで私服に着替えて街に出た。

 目指す場所はセーヌ河の向こう側にあるモンパルナスの街だ。


 世界大戦で国土が戦場となったフランスは、1920年代になってもまだ戦争の荒廃から立ち直っていなかった。しかし、人々は平和な時代に希望を求めて、文化面だけは大いに発展していた。

 25年にパリで開催された『現代装飾美術・産業美術国際博覧会 Exposition Internationale des Art Decoratifs et Industriels modernes:通称アール・デコ博』によって19世紀末から続いていたアール・ヌーヴォーは完全に終わりを告げ、デザインの世界はパリを中心にアール・デコという新しい時代に突入していた。

 アール・デコの息吹を求めてパリには世界中から人が集まり、物価が戦争前の3倍というインフレにもかかわらず、人や文化の流入に期待した、海外からの莫大な投資で街は賑わいを取り戻している。

 そして、その賑わいは芸術も刺激し、モーリス・ユトリロ、マリー・ローランサン、ジュール・パスキンなどの若い画家は独特の作風を生み出して、画壇からエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれていた。日本からも藤田嗣治、佐伯祐三らが渡仏し、エコール・ド・パリの一員として活躍している。

 また、この頃は戦争で経済的に没落したヨーロッパに代わって、アメリカが台頭してきた時期でもある。

 為替レートが1ドル=50フランということもあって、アメリカからは経済人だけでなく夢や野望を持った若い芸術家が大挙してやって来ていた。アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタインなどはその代表的な存在だ。

 そんな、輝く明日を夢見て世界中から集まった者たちが、毎日苦悶しながら創作したり、仲間と芸術を議論したり、若さに任せて乱痴気パーティを繰り返しているのが、ソルボンヌ大学がある文教地区、カルチェラタンの南に位置するモンパルナスだ。

 モンパルナスには前衛的なブティック、オシャレなレストランやビストロ、大騒ぎしてもウェイターが怒らないカフェ、金がなければデッサンでも飲ませてくれるバー、家賃の安いアパルトマンなど、若者が欲しがるものが何でもあった。

 丈太郎が最初にジャン=ピエールに連れられてこの街に来た時、あるカフェに入ると、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラック、藤田嗣治らが殴り合わんばかりの熱い芸術論を交わしていた。

 隣のテーブルではアメデオ・モディリアーニが自分の運命を罵りながら酔いつぶれ、さらに隣のテーブルでは、陽気で金回りの良さそうな紳士が飛び切りの美女たちを両手に派手なパーティをやっていた。

 そんな客たちを気にするふうでもなく、黒人のジャズマンは騒々しくピアノの鍵盤をたたいている。無茶苦茶な光景であり、非日常であり、しかし現実でもある。天国のようでも地獄のようでもある街。藤堂丈太郎が滞在している1927年のパリ・モンパルナスは、熱気と活気と狂気が溢れる街であった。


 モンパルナス大通りから裏通りに入り、丈太郎はディンゴバーというバーに入った。カウンターしかない小さな店で、アメリカから来た文学者たちのお気に入りの場所らしい。

 ここはモンパルナスで丈太郎がジャン=ピエールと待ち合わせする時に使う店だった。ジミーと呼ばれているスコットランド人のバーテンが声をかけてくる。

「今日はどうしますか?」

 バーテンは人相は悪いが、人なつっこい笑みを浮かべている。ジミーは元プロボクサーで、若い頃は相当バカをやったと聞いたことがある。彼はアーネスト・ヘミングウェイの良き話し相手でもあった。丈太郎はジミーの笑みに応えるように笑顔になる。

「ビールをください。今日は暑いですからね」

「そうですね。今まで6月の下旬だっていうのに何となく涼しかったけど、今日は急に暑くなっちまいましたね。神様は夏が近づいてることをようやく思い出したんでしょうか」

 そんなことを言いながら、ジミーは手際よくグラスにビールを注ぎ、丈太郎の前に置く。丈太郎はサンチーム硬貨(フラン紙幣の補助通貨)と引き換えにグラスを受け取り、喉を鳴らしてビールを飲んだ。

 勤務時間外の今、丈太郎は海軍の制服ではなく季節に合わせて白いシャツにベージュのコットンパンツをはいていた。フランス人男性に比べると小柄な上に、東洋人は白人より若く見えるため、とても海軍士官とは思えない。

 ドアを開け放ち外から丸見えのカウンターにもたれていると、表を2人組みの派手な服を着た若い女性たちが通り過ぎていった。女性の1人がチラリとディンゴバーを覗き込む。彼女と丈太郎は目が合った。女性はウインクしながら言う。

「ムッシュ、1人で飲んでないで彼女でも連れて歩きなさい」

 そして、笑いながら去っていった。丈太郎は苦笑いした。

 ―女性か・・・・・パリの女性は本当に美しい。でも、僕にはちょっとね―

 この頃、パリの女性のファッションはフラッパーというスタイルが大流行していた。

 フラッパーとは、従来のように髪を長く伸ばして後ろで結んだりロールさせたりはせず、自分の好きな長さで断髪ボブカットして、丈の短い体の線がはっきりわかる派手な色のワンピースなどを着るスタイルを指す。

 ファッションスタイルの一種だが、髪型や服装だけでなく、古い習慣にとらわれず、自分の意見をはっきり主張する女性自身のことまでをいう。

 今、丈太郎に声をかけてきた女性もフラッパーだった。活発で美しいと思うのだが、丈太郎は「どうも個性が強すぎて自分には・・・・・」と臆してしまう。

 日本でもロクに女性と付き合ったことなどないのに、世界で一番物事をはっきり言うパリの女性など、飛行機のこと以外何も知らない自分がついていけるはずがない。だから、ジャン=ピエールと遊びに行っても、彼が口説くようなフラッパーとは話したことがなかった。

 ―パリにいるのもあと1ヶ月ぐらい。今から恋人など作ってもしょうがないさ・・・・・・―

 少し寂しくそんなことを考えているうちに、ジャン=ピエールがやって来た。彼も昼間の飛行隊の制服から着替えて、白い麻のスーツに身を包んだオシャレなパリの男になっている。

「悪いな、待たせて。じゃあ行くか、こっちだ」

 そう言ってジャン=ピエールは丈太郎の腕をつかみ、さっさとディンゴバーを出て行った。丈太郎が出て行き際に振り返ると、バーテンのジミーは人相の悪い顔に穏やかな笑みを浮かべて「またどうぞ」と言っていた。


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