悪党は許さない! ジジ、怒りの鉄拳‼
十章
ダグラスDTはもうずいぶん長い間、北に向かって飛んでいた。ジジは過去の記憶をたどりながら、何とかダグラスを導いていた。夏の夜明けは早い。
周囲はうっすらと明るくなり始め、空は紫色に染まっていた。カーキ色のダグラスも今は紫色に見える。ジジの目の前の伝声管から丈太郎の声が聞こえてきた。
「ジジ、3時の方向を見て」
ジジは言われた方向を見る。ちょうど小高い丘からほんの少しだけ、太陽が顔を出していた。オレンジ色のまだ柔らかい、とても優しい光りだった。すべての生命にとって慈悲深い光りのように見える。
「きれい・・・・・あんなきれいなお日様、初めて見た・・・・・・」
ジジはしばらく朝日に見とれていた。
「ジジ、本当はもっと早く言うつもりだったんだけど・・・・・今のことが全部終わったら、君さえよければ日本に行かないか?」
伝声管から聞こえてくる丈太郎の声は、遠慮がちだが真剣だった。
「飛行機はどこでも作れるけど、僕は出来るなら日本で作りたい。日本はまだヨーロッパやアメリカに比べると遅れてる。それに日本人がどんな人たちなのか、世界には知らない人が多い。だからこそ日本で作って、あの国に飛行機を根付かせたい。日本人が簡単に外国に行けるようになれば、世界の人にもっと日本人のことを知ってもらえる。そうなれば、白人だ東洋人だと言い合うこともなくなるかもしれない。僕はそうなってほしい」
ジジの返事はすぐに返ってきた。
「あたし、ジョーと一緒なら行くよ。それに、日本には会いたい人がいるし」
「会いたい人?」
ジジは少しうれしそうな声を出した。
「あんたのママ。パパが命がけで守った人だもん。きっと素敵な人だと思う。あたしね、あんたから話を聞いて、ずっとパパとママに憧れてたの」
丈太郎は微笑むが少し心配そうな声になる。
「行ったことのない国で不安はない?」
「不安はあるけど大丈夫。だって、あんたが守ってくれるから」
「うん。任せとけ」
ジジは笑顔になった。
「トードー家の男は、女を守るようになってるみたいね」
その時、ダグラスの上空で何かが光った。光は見る見るうちに大きくなり、カーチスR3 C-1になった。カーチスは真上からダグラスに向かって機関銃を発砲した。
丈太郎は間一髪で察知して操縦桿を左に倒し、大きくバンクさせた。機体が横にスライドする。
「つかまってろ! 奴だ!」
カーチスは今までダグラスがいた空間をすさまじい速さで走り抜け、あっという間に見えなくなった。丈太郎は伝声管に怒鳴る。
「ジジ! 奴が見えたら撃ちまくれ!」
丈太郎は素早く周囲を見回した。左下、10時の方向に何かが動く気配を感じる。ダグラスの操縦桿を前に倒すと、丈太郎は右のラダーペダルを踏みながら、操縦桿の最上部にある前部機関銃の発射ボタンに親指をかけた。紫色の空から濃紺のカーチスが向かってくるのが見えた。上昇するカーチス、下降するダグラス、2機は正面から向き合った。
―来い悪党! 度胸比べだ!―
2機の距離はグングン詰まり、両機とも同じタイミングで発砲を始めた。
ダダダダダッ!
丈太郎は真っ直ぐに突き進んだが、カーチスも一歩も引かない。2機は巧みに弾丸をかわしながら、正面衝突寸前まで針路を変えなかった。そして、同じタイミングでバンクして、恐ろしいほどの速さで右と左に分かれた。
―いい度胸してやがる! それに腕もいい!―
丈太郎はダグラスを上昇させてカーチスを探した。カーチスはダグラスのはるか後方で急旋回していた。
「ジジ、気をつけろ! そっちに来るぞ! 来たら撃ちまくってやれ!」
ジジは怒りを込めて叫んだ。
「当たり前よ! 今までの恨みを晴らしてやる!」
カーチスは見る見るうちにダグラスの後方5時の方向に迫ってきた。まだ射撃の距離ではないが、ジジは罵声を浴びせながら機関銃の引き金を引く。
「この野郎! 今までひどい目に遭わせやがって! 思い知れ!」
弾は届かないが嵐のような弾幕で、カーチスは近づけなくなった。進入の方向を変えても、ジジの機関銃はそれを追って乱射する。カーチスは接近をあきらめて左にバンクさせ、大きく旋回を始めた。
カーチスのコックピットでは、フレデリック・レナールがカーキ色のダグラスを冷たい目で見ていた。レナールはダグラスの後部座席で機関銃を撃ちまくっている射手が、飛行帽にゴーグルをつけているジジだとわかった。
―あの女、やっぱり裏切ったか。殺してやる―
レナールはカーチスをダグラスの左後方、8時の方向に持って行き、再度接近を試みた。しかし、ある程度近づくと
ダダダダダッ!
ジジが乱射するため近づけない。前に回れば丈太郎が前部機関銃で立ち向かってくるため、簡単に射程距離まで接近できなくなった。カーチスは少し距離をおいて様子を見る。
丈太郎は徐々に高度を上げていた。伝声管からジジの声が聞こえる。
「ジョー、弾がなくなった! どうすればいいの!?」
「教えたじゃないか! 予備弾倉と付け替えるんだよ!」
「1回聞いたぐらいじゃわかんない!」
丈太郎は周囲を用心深く見回しながら、ジジに弾倉の交換を教える。
「足元にストラップで固定された予備弾倉があるだろ!?」
「どこそれ? ないよ!」
「あるよ! よく見て! 丸い奴だよ!」
しばらくすると伝声管からジジの声が響く。
「あった! これをどうするの?」
「今ついてる弾倉の上にピンがあるから、それをひねって。そしたら外れる。外したら新しい弾倉に換えるんだ! 換えたらピンを元に戻せ!」
ジジは丈太郎から言われた通りに座席から身を乗り出して、弾倉の交換を始めた。その姿をレナールは見逃さなかった。
―しめた! 後部銃座は弾切れだ! ジジ、弾倉の交換はさせないぜ!―
旋回していたカーチスは素早くダグラスの後ろにつき、左、7時の方向から迫った。丈太郎は怒鳴る。
「ジジ早くしろ! 奴が来る!」
「待ってよ! 初めてやるのに、そんなにすぐにできないよ!」
カーチスはグングン近づいてきた。丈太郎は叫ぶ。
「ジジ! 早く!」
「もうちょっと!」
レナールは悠々と攻撃位置につき、照準器に目を当てた。照準器の中にはすでに後部座席で弾倉の交換作業をしているジジを捉えていた。レナールは照準器の黒い十字の真ん中にジジが来るように操縦桿をわずかに引いた。機関銃の発射ボタンにゆっくり指をかける。
―すぐにトードーも送ってやる。あの世で仲良くするんだな―
レナールはついに十字の真ん中にジジを捉えた、その瞬間、弾倉の交換作業を終えたジジは撃鉄レバーを引いて、怒りの形相で怒鳴った。
「クソ野郎! 地獄に落ちろ!」
レナールは恐怖に目を見開いた。ジジが先に引き金を引いたため、レナールは撃てなかった。弾丸は完全に射撃体勢に入っていた至近距離のカーチスに真っ直ぐに飛んでいく。レナールはとっさに操縦桿を右に倒した。機体は右に大きくバンクするが、何発かが翼に当たった。
バリバリッ!
弾丸は左の主翼の先端を引きちぎった。カーチスは弾かれたようにダグラスから離れ、下降していく。
「やった! ジョー、あいつにぶち込んでやった! ざまあみろ!」
「油断するな! 奴はまだ墜落してない!」
丈太郎はダグラスをぐんぐん上昇させた。今までの動きでカーチスR3C-1のスピード、動きの俊敏さは把握した。さすがにシュナイダーカップの優勝機を改造したものだ。いくら爆弾を積んでいないとはいえ、空中戦で爆撃機のダグラスDTが敵うものではない。
だが、今、カーチスは翼に損傷を負っている。しかも、高度はダグラスの方がはるかに上だ。もう一度上昇してダグラスの上位を取って、上から急降下攻撃してくるとは考えられない。ジジが頑張っているので水平攻撃もやりづらい。
そうなれば、レナールに残されているのは下だ。丈太郎はレナールを誘うようにさらに高度を上げた。
レナールはフラつきながら降下するカーチスを何とか立て直そうとしていた。地上がぐんぐん迫ってくる。朝焼けに照らされた地上は緑に輝く広大な草原だった。レナールは何とか姿勢を安定させて、墜落寸前で操縦桿をいっぱいに引いて急上昇する。
しかし、左の主翼の先端を失った機体は思うように上昇しない。はるか彼方の上空にはダグラスが機体下部、腹になる部分を見せて飛んでいた。
―あの女、やりやがったな! 飛行機もろとも火だるまにしてやる!―
レナールは上昇のスピードを上げて、下から真っ直ぐにダグラス目がけて突進した。
丈太郎は全身の神経を集中させてレナールを待った。
―あいつは絶対、下からの一撃離脱の戦法で来る。損傷しているとはいえ、あいつはカーチスの方が圧倒的に有利だと思っている。ダグラスの“特別な仕掛け”を知らずに、そう思い込んでいる―
下を覗き込んでいたジジが叫んだ。
「ジョー! あいつが下から来た!」
スロットルレバーに手をかけ、丈太郎はじっと待った。頭の中ではカーチスの上昇速度とその角度、ダグラスの上昇速度を考慮して、2機の最接近時間を計算している。
レナールはカーチスの上昇力に満足していた。わずかに翼の一部を失い挙動は乱れているが、爆撃機相手にかわされることはない。レナールは残忍に笑った。
―トードー、カバンと引き換えにジジはくれてやる。とんでもない女に惚れて、お前も気の毒な男だ!―
ダグラスの下から射程距離に入ったレナールは、機体の腹に狙いをつけて優越感に浸りながら機関銃の発射ボタンを押した。
弾丸はダグラスの機体下部に吸い込まれる。レナールはダグラスが炎に包まれる姿を頭に浮かべた。だが、火を噴かない。飛行姿勢にも変化はなかった。
―なに!?―
もう一度機関銃を撃った時、ダグラスの腹で小さな火花が散るのを見た。
カンカンカンッ!
丈太郎は機体に軽い衝撃を感じると、スロットルレバーを一気に押した。エンジンは急激にパワーを失い、そのままの姿勢で降下し始めた。
このダグラスDTはフランス航空隊の実験機だった。搭乗員を敵の攻撃から守るため、前後の座席は狭いバスタブのような形の装甲板が囲んでいる。カーチスの機銃弾はその装甲板に弾き返されたのだった。
レナールが愕然としている間に、2機の距離はどんどん縮まっていった。カーチスが上昇しているのに加えてダグラスが下降しているので、レナールの予想以上の速さで接近している。すでに両機は空中衝突寸前だった。
我に返ったレナールは操縦桿を引き、ダグラスの左に逃げようとした。頭の中でカーチスとの距離を計算していた丈太郎は、今が最高のタイミングと判断した。左の主翼の一部を失ったカーチスは右に旋回はしない。操縦桿を左に大きく倒す。
「僕たちの前から消えうせろ!」
ダグラスは急角度で左にバンクし、傾いた主翼はすり抜けようとしていたカーチスの右の水平尾翼をたたき折った。
バキッ!
レナールは恐怖で目が飛び出さんばかりだった。水平尾翼を折られたカーチスは完全にコントロールを失い、きりもみ状態になりながら真っ逆さまに墜落する。丈太郎は遠ざかるカーチスから、かすかにレナールの悲鳴が聞こえたような気がした。
ダグラスも主翼に損傷を負ったが、頑丈な爆撃機はこれで飛行不能に陥ることはなかった。
決死の空中戦が終わり、丈太郎は大きく息を吐いた。次第に全身から冷や汗が噴き出すのを感じる。
カーチスR3C-1はもともとレース用に作られているため、強い負荷がかかる部分以外は機体はさほど頑丈ではない。それに比べるとダグラスDTはすべてが丈夫に出来ている。
世界最強の戦闘機と言っていいカーチスに勝つには、接近してポイントを突いた空中接触しかないと考えた作戦だった。それでも、衝突で勝負を決めるなど尋常ではない。ダグラスが落ちなかったのは、博打に勝ったようなものだった。丈太郎の手はガクガク震えてきた。その時、伝声管からジジの狂喜した声が響く。
「やった! ジョーが勝つって信じてたよ!」
丈太郎は震える声を押し殺し、伝声管に向かってできるだけ平然と言った。
「なに・・・・こんなの朝メシ前さ・・・・・・」
強がっていないと、操縦ができなくなるほど体が震えていた。ジジは伝声管の声が、か細くて震えているのに気づいたが、それには何も言わずに「すごい!」「大好き!」を連発して丈太郎の気持ちを鼓舞した。
丈太郎の通報で緊急出動したフランス警察は、フランス・ベルギー国境近くの草原で墜落したカーチスR3C-1を発見した。コックピットでは全身の骨を折ったレナールが、血の海の中で死んでいた。丈太郎の黒いカバンはコックピット内から見つかった。
パリに戻った丈太郎はカバンを取り返すことができたが、ジジは軍事機密漏洩罪で捜査当局に身柄を拘束された。
しかし、軍事情報を盗み、売りさばいていたレナール一味の壊滅に全面協力したことと、丈太郎の「ジジのおかげでフランスと日本の財産を守ることができた」という説得で動いた古賀大佐の尽力で、減刑が考慮された。
減刑嘆願にはモンパルナスの仲間たちも駆け回った。特にパリの名士に知り合いが多い薩摩治郎八と、ジャン=ピエールから事情を聞いたデ・オン伯爵令嬢、アナベラは有力者たちに情状酌量を訴えた。
結局、ジジは3ヶ月に及ぶレナール一味の壊滅作戦終了後、最後の被害者である日本海軍の身柄引き渡しの要求を受けて、日本への送致処分となった。
日本でジジは海軍の取り調べを受けるが、事件の全容はすでに解明されており、関係者も全員逮捕されているので形だけの取り調べだ。丈太郎と古賀大佐の嘆願により、数週間の拘留の後に釈放されることになっている。もちろん、身元引受人は丈太郎だ。
なお、ドイツのアドルフ・ヒトラーがフレデリック・レナールを操っていたという証拠は、フランス当局の懸命の捜査にもかかわらず発見することができず、外国の政治家ということもあり追求は断念された。
10月中旬、パリ・リヨン駅。
巨大な時計塔が特徴のこの駅は、パリとフランス南部を結ぶ列車の発着駅になっている。ニースなど地中海沿いのリゾート地に向かう観光客が多く利用するため、パリに6つある駅の中でも雰囲気は最も華やかだ。
1階にあるカフェは遊びに行くために、リラックスした服装をしている列車待ちの人たちで、いつもにぎわっている。
鉄骨とガラスを組み合わせて作った大きな駅構内では、パリ発マルセイユ行きの特急寝台列車が発車時刻を静かに待っていた。列車の横にちょっとした人だかりができている。人だかりの真ん中で、第1種軍装(上下紺色の詰襟服。日本海軍の夏以外の制服)に衣替えした古賀大佐はチラリと腕時計を見た。
「そろそろ時間だな。藤堂大尉、少々長引いたが、フランスでの任務、ご苦労だった。参考人の護送も頼む」
そして、苦笑いをした。
「確かに『仕事だけでなく息抜きをしろ』とは言ったが、ここまで派手なことをしろとは言わなかったぞ」
丈太郎は少し赤い顔をしながらサッと敬礼した。丈太郎も紺の第1種軍装姿だ。
「フランスでは本当にお世話になりました。このご恩は一生忘れません」
そして、隣にいるジジを見た。
「参考人は、間違いなく日本まで送り届けます」
ジジはいつものようなフラッパースタイルの上に、白いステンカラーコートを羽織っていた。少し暗い構内でも、ジジの華やかな雰囲気は周辺を明るくさせていた。彼女は古賀に歩み寄り、丈太郎が止める間もなく古賀の頬にキスをする。
「大佐殿、これは助けてくれたお礼です」
そしてウインクした。古賀は頬に赤い口紅をつけたまま、目を白黒させている。周囲にいた見送りの者たちは一斉に笑い声を上げた。
人の輪の中から薩摩治郎八が前に出た。丈太郎に握手を求め、2人はしっかりと手を握り合った。
「私はあなたに災難から逃げろと言いました。しかし、あなたは逃げずに立ち向かい、悪人たちから見事にジジを救い出した。その勇気に心から敬服します。日本に帰ったらいい飛行機を作ってください。あなたなら、きっとできる。私はいつの日か、あなたの作った旅客機に乗りたい」
人の輪の中からキキも歩み出た。目にいっぱいの涙をためている。それを見たジジも目を潤ませた。モンパスナスの“太陽”と“月”は抱き合った。2人の美女の目から涙がこぼれ落ちる。
「ジジ、気をつけてね・・・・・・今までみたいに生意気言わないで、ちゃんと日本の人たちにかわいがってもらうのよ・・・・・・」
「ありがとうキキ・・・・・・大丈夫。ジョーやジョーのママがいるから・・・・・・」
キキは涙に濡れたまま丈太郎の方を向いた。
「ジョー、ジジをお願い。あなた、モンパルナスから“月”を奪い去るんだから、日本でも輝くように大切にしなきゃダメよ」
その時、構内に駅員のアナウンスが響き渡る。
「間もなくマルセイユ行き特急寝台列車が発車します。ご乗車の方は・・・・・・・」
ジジとキキは離れ、ジジはそっと丈太郎の後ろに立った。丈太郎は見送りの輪の最前列にいたジャン=ピエールに向かって敬礼した。
「デュマ大尉、これまで任務へのご協力、深く感謝いたします」
陸軍航空隊の制服を着ているジャン=ピエールも敬礼を返す。
「トードー大尉、参考人の護送、よろしくお願いします」
そして、にやりと笑う。
「そのうち日本に遊びに行くよ。トーキョーで面白いところに案内してくれ」
丈太郎も笑顔を返す。
「ジジやここにいるみんなと出会えたのは君のおかげだ。心から感謝している。日本に来たらいいところに案内するよ。東京に『マリアンヌ』はないけど、面白いところはいくらでもあるから」
急にさっきまで泣いていたジジが手を伸ばして、丈太郎の頬をつねった。
「その時はあたしもついていくからね。あんたたちだけにしとくと、空から悪い女が降ってくるかもしれない」
見送りの人の輪は笑いに包まれた。丈太郎とジジが列車に乗り込み、駅員が発車のベルを鳴らした。列車は汽笛を鳴らして、ゆっくり動き出した。人々は一斉に手を振る。
丈太郎とジジは窓を開けて手を振り返した。キキ、古賀、薩摩、ジャン=ピエール、ピカソ、レイ、ブラック、コクトー・・・・・・・丈太郎がパリで出会った人たちは、丈太郎とジジの未来を心から祝福してくれていた。2人はパリを離れる列車の窓から、みんなの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
寝台列車の食堂車で、丈太郎とジジは素晴らしい夕食をとった。秋のフランスは生ガキ、キノコなど、おいしい食材が豊富に採れるが、特にフランス人が珍重するのがジビエ(野性動物の肉)だ。
そして、ジビエの中でも最高の味覚といわれるのがリエーブル(野うさぎ)だった。南行きの特急列車は裕福な客が多いため、食堂車には一流のシェフを乗せている。豪華な内装の列車とおいしい食事で乗客の心と腹を満たすのが、この路線の一番の売り物になっていた。
丈太郎たちがメインディッシュで食べたのはリエーブル・ロワイヤルという、野うさぎの肉と香味野菜を赤ワインで煮込んだものだ。日本人には少しクセがきついが、パリでフランス人と同じものを食べていた丈太郎は、この料理をとてもおいしいと思った。
2人ともきれいに食事を平らげて、車窓から夜の田園風景を眺めながら食後にコニャックを楽しむ。甘く芳醇な香りがジジをくつろがせていた。
護送任務と言っても、これから横浜までの旅は2人にとって新婚旅行のようなものだ。
ジジは上機嫌だった。
「拘置所で暇な時に日本語の勉強したの。ちょっと聞いてくれる?」
そして、辞書の発音記号を思い出すようにゆっくりと言う。
「オカアサマ ハジメマシテ。ジジト モウシマス」
ジジの日本語はたどたどしくはあるが、独学で勉強したとは思えない正しい発音だった。丈太郎は目を丸くする。
「へー。うまいじゃないか。すごいよ」
褒められてジジは気をよくした。
「まだあるのよ」
そして軽く咳払いする。
「ハイ ジェイ アンド ジー コウギョウデ ゴザイマス」
「ジェイ&ジー工業? 何それ?」
少し恥ずかしそうな顔をして、ジジはそれを隠すように横柄な口調で言った。
「暇だったから、あんたが作る会社の名前を考えてあげたのよ。今のは、あたしが電話番するときの練習」
「ジェイ&ジー工業・・・・・・J(Jotaro)&G(Gigi)・・・・・・そうか! わかった!」
丈太郎はうれしそうな顔をしたが、少し考えると小首を傾げた。
「でもさ、G&J工業の方が語呂がよくない?」
ジジは拘置所の中で読んだ、日本の文化を紹介した本を思い出した。
「だって、日本じゃ女は男の前に出ちゃいけないんでしょ?」
「そんなことないよ。建前はそうだけど、本当はどの家でも一家を支えてるのは女なんだから」
「そっ。じゃあG&Jにしとこうか。G&J工業に乾杯」
2人はブランデーグラスを合わせた。丈太郎もジジも、見つめ合う瞳には幸せがぎっしり詰まっていた。
「僕はこれからの生活がとっても楽しみなんだ。君と一緒に頑張って、速くて安全な旅客機を作って、それに乗って君とまたパリに行きたい。今度は僕たちの子供を連れてね」
ジジは幸せがこぼれそうなくらい瞳を輝かせている。
「あたしも楽しみ。あんたの仕事を手伝って、あんたの身の回りの世話をして、あんたの子供を産んで・・・・・・そんな姿をパリのみんなに自慢しに行きたい」
そして、思い切り晴れやかな顔になった。
「あたし、やっと気づいた。好きな人と一緒なら、何でもないことが幸せなんだ。あんたと出会って、あたしやっと幸せが見えた。大好きな人がいるって、なんて素晴らしいんだろう!」
気持ちが高ぶったジジはテーブルに身を乗り出して、人目もはばからずに丈太郎に熱いキスを浴びせた。丈太郎もそれに応えてジジを抱きしめる。
2人の横のテーブルで食事をしていた家族連れは、あまりに情熱的なキスシーンに戸惑っていた。6、7歳ぐらいの男の子が丈太郎とジジのキスをじっと見ている。すると、父親が彼の目をふさいだ。そして気まずそうにつぶやく。
「お前にはまだ早い」
マルセイユ行き特急寝台列車は満天の星空の下を疾走していた。星たちは丈太郎とジジを冷やかすように、一斉に瞬き始める。星たちの中心で輝く大きな月は、今夜の主役を2人に取られて少し悲しげだった。




