感謝
貧しい家の中で出されたキャベツと豆を蒸した簡素な食事を勢いよく平らげる少女は心の底からの感謝を声に出して。
「サンキュ、マーガレット」
いえいえ、いいんだよ。たくさんお食べ―― どちらも負けず劣らず底なしの明るさを表情にして輝かせていた。花が咲いたらきっとこのような華やかさなのだろう。ふたりして明るさに充たされた小さな世界に見惚れていた。
「可愛いと思わない? 幹人」
「確かにね」
邪な想いも嫉妬の感情も通らない、澄んだ水のような世界、いつまでも触れていたいあの世界。リリはいつも通りの行動に出られずただただ見守り続けるだけ。幹人にとっては癒しだけでなく救いでもあった。あの影と湿り気に侵された薄暗い梅雨の夜のような感情に身を浸け溺れることもないのだから。
朝ごはんはまだ続く。豆と肉と魚を煮込んだスープが出来上がり、運ばれてきた。
「ジェロードありがと、さっすが私の素敵な夫。今日も輝いてる」
「は、恥ずかしいって。マーガレットは今日も子どもたちに教えるのか」
もちろんだよ、将来みんな都に出られるようにね。回答、女の野望、実に大きな張り切りだった。
ジェロードはひとりで農作業をしているのだそう。夕方からは漁に。学校の休日は朝から昼までマーガレットと猟に出るのだそうだ。まさかの肉体派デートである。
「そういえば休日っていつなの?」
もはや休日が存在しないジェロードに幹人は訊ねていた。ジェロードはしっかりと答えていた。
「休日? そんなのないが?」
――さすが農作業で生活担ってる村、365日営業だ
マーガレットの回答によれば『神すら休む祈りの日』とのこと。どうやらこの国の向こうに広がる森の中にある異種族の国を抜けた更にその先、森の果て辺りに待っている国、川がこの国とは異なる方向へと流れている国に伝わる創世神話によって割り当てられた七曜なのだという。
――日曜日みたいなものか、異界に行っても付きまとうのかな
冒険、計画の探索に休日などあるはずもなく、人々の休日のゆったりしたぬるま湯のような空気にねじ込まれる日もあるのだろうか。
――でも休むとは限らないか
農村の様子、例の王都では曜日らしいものはどこにも見当たらなかったという事実、それだけでも曜日の普及と休日としての役割の浸透具合いはまだまだ分からないことだらけなのだと確認していた。
朝食を終えて、リリの手招きにおびき寄せられて、幹人は歩き出す。なにも考えないでただついて行くのみ、向かった先、それは海の前の崖だった。例の島が沈んでいる海を見つめてリリは言う。
「結局島の正体は異界関係じゃあなかったようだね」
海を見つめる瞳、期待の色にまみれてた輝きは失われ、そこに映されるものは美しい海へのささやかな想いだけとなっていた。
これからどこへ向かうのだろう、どこへ導かれるのだろう。考えようにもその全てが海の向こうへと流されて。なにもかも見失ってしまう。異界へと繋がる橋となる何かはどこに隠されているのだろう。ヒントもなければ解法も公式もそんざいしない問題にどう答えるのだろう。途方もない問題に惑いを持つものの、どこの世界にも模範解答などないものはいくつでもあって、幹人はそれに気が付くこともないまま、行き場のない不安を優しく揺れる海の中に見ていた。
そうした気持ちは隠し通されたのだろうか、リリからかけられた言葉が答えになっているのかどうか。
「ふふ、海に見惚れてるね。発展した国の海はいつでもどこでも汚いのかな」
否定はできなければ肯定もできない。どのような意味でも踏み出すことのできない不思議な今。幹人の底では妙なさざ波が他では見ることもできないリズムと色で揺れて彩られて気持ち良さと心地悪さ、頭を揺さぶる感情への想いの陰と陽。
――凄く苦い
潮の香りはほろ苦くて噛み締める度に顔をしかめたくなるような味がした。辺りを吹いて回る風は冷たくて生きた心地を刻み付けていた。隣に立つリリは甘い笑顔を漂わせて迎えているようだった。
――リリ姉も……リリ姉もこんな想いを抱いたことあるのかな
ほろ苦い不安に落ち着かないことはありますか? 訊けるはずもなかった。この甘い笑顔を崩すことなど、負の色で染め上げることなど誰に出来るだろう。留めて仕舞って蓋をして。そこで自身が蓋の内側にいるのだと気が付いて。
笑顔のキミもこの感情に締め付けられたことがあったのだろうか、その時なにをしていたのだろうか、俺はこれからどのように動けばいいのだろうか、それを知ってそのまま動くのだろうか
分からない分からない分からない分からないワカラナイワカラナイ…………わからない
動きたくて動きたくなくて、永遠にそこにいたくてすぐにでもふたり別の場所に行きたくて。
声にしない本音と分からない本心。不透明でガサガサとザラザラと擦られた何かは痛みなのか喜びなのか。
「リリ姉」
「なあに、かわいいキミの言葉のひとつひとつ全部聞かせて」
考えもなしに呼んでしまった名前、どのような言葉を紡いで行けばいいのか、迷いつつも、言葉に彷徨うことが気まずくて、ただひと言、声に出していた。
「一緒にいて」
少しでいいから、そんな想いはどこまで伝わったのか、リリの笑顔は優しく崩れて、朝のような爽やかな香りを運んでいた。
「うれしいな、そう言ってもらえたら、恥ずかしさで嬉しくなちゃうね」
結局のところ、ごくごく普通に受け入れられていつも通りに包まれていた。なにも分からないのはこの異界に迷い込んでから、否、異界に行く前は『わからない』ことすら分かっていなかっただけなのかもしれない。今でもまだ、自身の心すらよく分かっていなくて。それでもひとつだけしっかりと分かっていることがあった。幹人はその想いをしっかりと抱き締めた。決して離さないように、目の前の魔女とともに。
うれしさも悲しさも苦しみも楽しさも全部リリと一緒に――
次幕予告
竜の少女を信仰するこの国を出た三人。
彼らを待ち受けるはケモ耳の国と、幹人にとってはあまりにも大きな驚きを持った存在だった――
次幕、大四幕 「異種族の人さらい」
書き終わり次第投稿予定!




