風の神
神話の一部の作り話。それは無知故のものもあれば何かしらのメッセージを加えていることもある。性教育を後ほど楽にするためにでっち上げられたこと、神話の竜自身がそれを聞いたとしたらどのような貌をするのだろう。誰にも想像がつかない。人の心、他人はおろか自身のものすら完全には理解できない人間という生物。人の心である限り、他の種族など遠すぎて理解できるはずもなかった。
黙り込み考え込む幹人から発せられる沈黙のオーラに触れて、しばらくは合わせ沈黙していたリリ。しかし、ただ黙り続けているわけにも行かなくて。
頃合いを計って口を開きだす。
「そうだ、幹人」
「どうしたの?」
幹人は顔をリリの方へと傾ける。のどかな田畑、空も大地も植物も、みながみなして聞き耳を立てて、内緒話を遮るものなどなにもなかった。
「さっきの神話でも少し出てきたのだけど、人々がある国から洞窟に移住した理由の飢饉」
幹人は一言一句を噛み締めて愛しいきみの声を耳に留め続け、想いのみなもにうっすらと輝く波を広げ続けていた。
「あれは恐らく実際にあったこと。風使いの魔女がある国へ行った時、非常に強い憎悪と激しい非難の雨と鉄の連撃を背にして逃げたのだそうだ」
幹人の魔法もまた、風属性。他人事ではないのかも知れない。帰れなければ確実に通る道だった。
「風の神を悪しき神として扱う神話について知ってることはその時に話すから、そこでは例え魔物が出たとしても風魔法だけは使わないこと、いいね?」
「分かった、約束するよ」
風の神は悪しき神という信仰もあるのだろう。理由を気にしつつも幹人はそっと仕舞っておいて今は前を向いて進み続けることにした。
ふたりきりが破られたそこに待ち構える光景は心の底から楽しそうに笑って駆け回るアナの姿だった。
「ちょっ触らせろよ。別にいいだろそのくらい」
駆け回るアナの目の先にいたのは妙に耳の長いリスのような魔獣のリズだった。手を伸ばして捕まえようとするものの、するりと手を抜け腕に小さな足をついて飛び跳ね離れてアナはそれを目で追い新たに手を伸ばす。その繰り返しでじゃれ合っているようにしか見えなかった。
しばらく追いかけられて弾むような動きで避け続けていたリズだったが、アナが伸ばした手に遂に乗って収まるように丸まり始めた。
「カワイイな、柔らかいな」
アナの手つきに従い思い思いのままに揉まれ続けてリズの身体は力なく伸びきっていた。その表情は安らぎに充ちていた。
思いのほか素早く行われた進展、その神話から読み解くことのできるものなど限られていた。
「幹人を帰す方法については手がかりひとつないみたいだね」
そう、ひとつも引っかかる情報がないのだった。この世界から向こうの世界への移動の手がかりになりそうなものといえば行方不明や誰も知らないことを知る人物、どこから現れたのかすら分からない救世主など。そういった情報が現れ次第調査に取り掛かろうとしていたが、今回はそう簡単には行かせていただけないそう。
「さあて、これからどうするかねえ」
一度大きく腕を空へと伸ばして欠伸を噛み殺し、進み始めた。
広がる畑は緑の絨毯、空はこの世で最も大きなカーテンを思わせる。そこにリリたち以外の人間など農作業をする者しかいなくて、この世の余計な有象無象には興味など一切示していない。
――生きるのに必死なんだろうなあ
幹人は思い返す。明らかにここまで必死に生きたことなどただの一度もなかったということを。
誰も歓迎しなければ誰を追い出すこともない畑を通っているところ、畑の中に立つ異様なものを見た。両手を広げて一本足で立ち続ける何か。見るからに滑稽な顔立ちをして日差しにも負けずに立ち続ける姿は幹人も良く知るものだった。
「案山子? なんでこんなとこに」
あまりにも阿呆な面を与えられたそれは一種の芸術作品のようにも思えた。リリは面と向かって呆れの表情を浮かべていた。
「なにこれ、どうして幹人は名前を知ってるんだい? ……知り合い?」
「初対面の知り合いです」
冗談はそこまでとしておいて、日本のカラス避けと簡単に説明していた。
「ふぅん」
半分閉じられたような呆れの目でしばらく見つめ合っていたものの、幹人からの「なににらめっこしてるんだよ、リリ」の言葉でふと我に返って再び歩き出そうとした矢先の出来事だった。
「よお、久しぶり。相変わらずブサイクなツラしてんな」
アナの反応に幹人は分かり切った違和感を覚えた。
「久しぶりって、アナは案山子知ってるのかな」
アナの目つきは案山子を見ているような別の何かを見ているような不思議なもので、幹人の目にはとても異様なものに思えていた。
アナは目を見開いて幹人の方へと不思議そうな顔を向け、困惑の感情を浴びせる。
「あれ、私、なに言ってんだろうな」
「俺に訊かれても」
もしかすると日ノ出ズル東ノ国と何か関係があるのかも知れない、そう考えながらようやく「進もう」のひと言で歩みを進め始めた。
太陽の輝きの中、眩しい景色の中、畑を抜けたそこでようやく幹人たちは農作業を営む者以外の人間をその目に捉えた。




