白身魚
森を抜け出す直前に軽い獣の匂いと人の匂いの混ざったようなものを鼻で感じつつも目も耳もくれず構わずリズは走る。
――もう竜に会うのは御免だわ、ここ嫌!
リズの想いはメイアを引っ張りともに都へと向かっている。森を抜けて通りかかったそこには見ていられないような光景の跡地が広がっていた。
落ち葉や枯れ果てて朽ちた植物を肥料に育つ植物、何かが建っていたような窪みは削られて元々何が建っていたのか見通すことも難しくなっていた。
壊れかけの家からは植物が顔を覗かせていて、またある家は木が貫通していて身を保つが関の山。この状態でどうにか残っているそれぞれの家に混ざるシミ、よくよく見てみるとそれは暗い赤みを帯びていて、物騒な想像を呼び起こす。
赤いそれはまさに、人の血の跡だった。
☆
日は沈み、薄暗くなっていた。空の活気は静まっておやすみなさいと告げようとしていたが、海のざわめきに風の歌声、人の活気は黙ることを知らなくて。
向かい合って座るリリを眺めている。この魔女には暗闇が良く似合っていた。そんな魔女は空に微笑みを浮かべながら鮭を食べていた。
「やっぱり鮭は美味しいね」
頷いて、同意を言葉にして。それから沈黙を喧騒を溶かしながら空白を過ごして言葉を続ける幹人。
「そういえば鮭って白身魚なんだけど知ってる?」
「あらら、そうなんだ」
反応として見せた貌は普段からの色っぽい表情たちに覆い隠されていてなかなか目にすることもないものだった。戸惑いを混ぜた可愛らしい表情は何よりも明るくてついつい笑ってしまう。素敵なものを堪能して心の中に輝きを鮮やかな思い出にして仕舞い込む。
いつまでも引き延ばしているとその機嫌に霞が張って曇り空と成り果ててしまいそうで、幹人は説明を続けた。
「そうだよ、元々白いんだけど、食べてるエビとかカニとか……ちっちゃな生き物をエサにしててね。それの色が染み込むんだ」
小さな少年のどこかぎこちなくてあどけない説明を耳にしてリリは周りには到底見せられないようなだらしない笑顔を浮かべて幹人に顔を近づけていた。いつのまにやら鮭は平らげてしまっていた。
「じゃあ、幹人をいただけば私も幹人みたいに」
「ならなくていいからっ!!」
突然強く現れた照れを押し込めるような必要以上の大きな声、迷惑になるだろうかと思い周囲を見渡すも、声は喧騒の一部に化けて闇の中へと昇って無事に消えて行ったそう。
それよりもいつまでも近づけて離れない大人のオンナの顔に惑わされ続けていた。動揺は収まることを知らなくて、心が弾んで踊って愉快で心地よい熱の波に打たれ続けていた。
「私の知らないこと、もっと教えてほしいね」
そう語りながら幹人の脚に小さな膝を優しく当てて、顔は平然としていて。幹人のざわめきは大きく強くくっきりはっきりと濃く分かりやすく。桃色の感情は続いて。
「ふふ、良い貌。大好き」
リリの表情は再びいやらしいニヤけを浮かべていた。幹人は立ち上がり、魔女から顔を背けて歩き出す。
「いくよ、リリはホントいつでも」
いつでも……その続きは奇麗な星空の中へとそっと隠し置いて。口の中に仄かに残るパンの香りと乾いた感触を反芻しながら歩き続ける。隣を歩く魔女の顔など見てはいられなかった。振り向こうとしただけでも感情が大きく振り回されて内側は甘い痛みに支配されて恥ずかしい。
「おーい、もっとこっち見て欲しいな。キミが帰ってしまっても色んな表情を思い出したいんだ」
いずれは訪れる終わり、そこを既に見ていた。幹人が決して見つめたくないところ、今の心で振り返る景色とこの旅の果て。
結局のところ、少年は前を向いてなどいないのだった。
進んで戻って元の宿、そこでみんなの到着を待つ。待ち続ける。やがて現れた小さなふたつの影、宿の壁にかけられた灯火に伸ばされたふたつの大きな影が近づいてきた。
「おやおや、アナよりも先に帰ってきたようだね」
魔獣のリズとリリの眷属のメイア。互いに身を寄せ合ってじゃれ合いながら戻ってきたのだった。そこからメイアはリリに状況を報告して、今日のことを全て余さずに伝えていった。
「なるほど、竜狩りの騎士に壊れた集落……流石に500年前の跡地じゃあないだろうね」
朽ちた家がそんなにも長く残っていられるはずがなかった。リリもまた、メイアに今日の成果を報告した。
「大したことはなかったよ、竜の神話については全く知ることが出来なくてね」
明日都の外れまで行って調べるよ、そう締められた。
報告が終わるか終わらないか、その機会に背の低い少女が戻ってきた。
「ただいまー、いいもの買って来たぜ」
「宿に戻ってから見せて」
不服な感情を露わにしたあどけない少女に構わず話題は一旦断ち切られ、宿に入って受付の札をリリが提示する。レンガの破片になにやら記号が書かれていた。受付の女性は腰を深く曲げて奥の方へと手を指し伸ばした。
帰ってきた。休みの時が訪れていた。レンガの札と同じ記号の書かれた部屋へと戻るとリリはアナが買ってきた品をテーブルに置いたのを見て切った話の続きを紡がせた。
アナが持ってきた壺、それを揺らして耳を当てる。
「おかしなものが入っていたりはしないだろうね」
「んなもの買わねえよ!」
さあどうかしら。呟きを引き摺りながら壺の蓋を開く。幹人も離れていた。蛇でも出てきたら、独の煙が噴き出てきたら。想像は止められない。
やがて開かれた壺のなか、そこにあるものは赤い身体をした魚の塩漬け燻製だった。
「あら、アカモウオ」
「な? 怪しくもなんともなかっただろ?」
満天の笑顔には穢れのひとつも見当たらなかった。




