アカモウオ
魔女が少年の唇を奪い去っているそんな時、アナは市場に心を奪われていた。レンガ造りの街は全てがアナにとっては新鮮で美しい。濃い青を持つ海と薄い蒼に塗りつぶされた空はそれぞれに異なる美しさを奏でていた。
――ああ、疲れてんだな私
降り注ぐ陽光を跳ね返しながらゆらゆら揺れ、きらきら輝く海に身を委ねながらふわふわ漂う綿のようなひつじのような真っ白な雲の上で眠りたい。眠りながら市場を渡り回って好きなように食べ物を頬張りたい、そんな欲に駆られていた。
しかしながらそのようなことは叶うこともなくて、それでもアナは心を躍らせ青に挟まれたこの景色の下で足取り弾ませながら歩いていた。
この前の竜の肉の煮込みに飛びつくように店に駆け寄ってひとつ、向かいで蒸した豆を頼んでふたつ、イノシシの肉の焼ける香りに引き寄せられてみっつ。口に入れて胃を満たして心を充たして。
次に通った店に並べられたあるものを目にして好奇心だけで動いていた。
アカモウオの塩漬け燻製
聞き慣れない名前にアナの身体は言うことを聞かないままに動き出していた。
「それくれ」
「へいへい、銅貨三枚な」
しっかりと払い、小さな壺を手渡され、それを不思議そうに眺める。上から見下ろして顔を動かし左右から覗き込み、下から見上げて。その様子を見ていた店員は微笑ましいなと言いながら手を振っていた。
壺をひたすら眺めていたアナだったが、遂に意を決して蓋を開いた。そこに入っていたものは赤い身体の魚たち。ひとつ取り出して眺める。
――これって……見たことあるし違う名前あった……よな
思い出せない、盗賊として動いている間に確実に目にしていたはずがその名を思い出せないでいた。
名前はいいや、大事なのは味だ味。豪快な声で豪快に口を開き一尾口に放り込む。観賞魚にちょうど良い色と大きさを持ったそれは塩がよく効いていて魚本来の味わいと混ざり合う。
「ウメエ」
そのひと言に尽きた。語彙力など知ったことではなかった。食に対する細かな感想など必要としない人生を走り抜けてきた少女の今の感情はひと言に集約されていた。
あいつらにも買って帰るか。そう呟きながらもうひとつ、先ほどの出店に戻って男から例の壺を買った。それらを持って歩いて宿へと向かう、楽しみは、足を速めていた。
☆
リリから授かった任務を遂行するために動くカイコガと妙に耳の長いリスのような魔獣。森の中は様々なかたちを持った葉で溢れかえっていた。森を調べる、なにを調べろというのかいまいち分かっていないリズはメイアとじゃれ合いながら楽しそうに駆け回っていた。
遊びこそが本命、その姿勢で跳ね回っていたリズだったが、長い耳をぴくりと揺らして突然動きを止める。地面の揺れは細かくてゆっくりと響いていた。リズとメイアは離れてリズは木にのぼって枝に立ち、メイアは押し込めるように縮こまるように草の影に隠れる。
揺れは少しずつ大きく強く育ってそこにいる全てを脅かす。やがて現れたそれは巨大なトカゲ。大きな体は重いのだろうか、動きは恐ろしく遅く、脚の動きは草木を踏みつぶす過程を丁寧に示しており、あまりにも禍々しい。
――幹人に会いたいわ
リズの思考は現実逃避気味でしかし竜のことは隅々までしっかりと見届けていた。太くて短い脚は大地を揺らして、大きく開かれた目は何を考えているのか全く見通すことを許さない。
このサイズのトカゲは恐ろしくてたまらなかった。
竜が歩く中、揺れに立ち向かう人物たちがいた。それは鎧を纏った騎士。公によって作り上げられた竜狩りの職業。竜の周りを駆け回る。その瞬間、竜の動きが速くなった。先ほどまでとは異なる存在のように思えるその動きにも構わず騎士たちは駆け回って竜を紐で縛り付けていた。
「縛ったぞ、今だ」
竜と対面する男の叫びを合図に騎士たちは竜を斬りつけてゆく。激しい地鳴りのような声を上げながら、地を踏み鳴らしながら藻掻き続ける竜の姿になど何一つ感情を抱かないままに斬りつけ続ける。
叫びも動きも細かく激しくなって、いよいよ竜の身体も心も終わりを迎えようとしているのが目に入った。
リズはただその様子を眺め続け、竜の痛々しい悲痛な訴えに耳を塞いでいた。聞きたくもない、そんな感情私は知りたくないの。そう言いたげな表情を浮かべ続けていた。
やがて命の廃棄が終わり、竜の身体を引きずり運ぶ。
「どこかの店に売りつけるぞ」
「この前の煮込みの店がいい、金がたくさん入るからな」
あそこは美味いだのソテーのとこは最低だっただの、どうでもよいことばかりが言葉に出されていった。
リズはメイアに耳を振って合図を出し、素早く森を抜け出した。




