中にて
椅子とテーブル、リリと幹人、ふたりと一匹。幹人は笑顔でリズを優しく揉み続け、リズは安らかな顔をして耳を心地よさそうに揺らし続けていた。
「この子、妙に幹人に懐くじゃあないかい」
リリのひと言に幹人は笑って答える。
「可愛いよね」
リズが船にいるのだというこの状況、まさかの法律違反の寸前、時は近くへと迫っていた。
立派な船だったが銅貨6枚で乗ることができた、そのことをリリは喜んでいた。
「ご覧、あの政策を打ち出して以来、異邦から渡ってくる人も異邦へと旅立つ人も少なかったものだから船賃がお安く済んでいるようだ」
王都だったころの税収、それがよほど響いていたのだろう。旅に出ようキャンペーンと名付けて薄利多売の商法に出たのだそうだ。実際に効果はあったのだろうか。今回の航海最後の乗船客たちが疑う姿はさぞかし滑稽に映っただろう。
ふたりは荷物を置いて部屋を出て、甲板へと足を踏み入れる。脚を伸ばし歩く姿に幹人の目はくぎ付けだった。
長くて細い脚、全体的に痩せていてすっきりとした体型に綺麗な雰囲気を感じていた。
「なにかな、そんなにじっと見つめられたら恥ずかしいや」
落ち着いた声はいつになく浮ついた調子、寄り添いながらただずっと広がる海と空を眺める。境界線の曖昧なそれを目にして話していた。賑やかな甲板はそんなふたりの声の広がりを狭い範囲にとどめて打ち消して。賑やかなそこはふたりだけの世界と呼ぶにふさわしい場所と化していた。
「人、多かったね。リリ姉」
「ふふ、よかったじゃないか。楽しい旅になりそうで」
波に揺られる船はようやく陸地から離れ始めた。海に浮かぶ孤独の島のよう、動く孤島。これからなにがあっても救いは外からは向かってこない。
美しい海を充分に堪能して、部屋へと戻る。荷物置きに載せられた木の箱に手を伸ばす。
「これ、なにが入ってるんだろ」
全くもって予想の付かない物、服の貸し出しでもやっているのだろうか。気になって触れた途端、箱は激しく揺れ始めた。
「嘘……だろ」
拉致、閉じ込め、捨て子。不穏な単語ばかりが幹人の頭の中を渦巻く。目の前の得体の知れない箱はひたすら揺れ続け、内側から殴りつけるように叩く音までもが聞こえ始めていた。
その様子を見ているのは幹人だけではなかった。共に目にしていたリリもまた、目を見開いて開いた口が塞がらないでいた。つまりはそれほどまでに予想外なことなのだった。
しばらくは見つめ続けていたものの、ようやくリリは言葉をひねり出す。
「そうだね、謎に揺れる箱、船の中で揺れる箱がありました。自然に揺れるものとは異なる異常な揺れ、ネズミや犬のせいだとは思えないようなそれに恐怖して船の怪現象としてこの風聞は広がることでしょう」
完全にうわさ話として閉じるつもりらしい。そうして話している間にも箱は船の揺れ以上の動きを続けていた。
「流石におかしい。開けた方がいいんじゃないかな」
気を付けて行こう、心からの言葉は現れて幹人の意見は実行に移された。容赦なく揺れる箱の天板にかけられた錠を開いたその瞬間、勢いよく蓋は開かれた。飛ぶような勢いで開いた箱、驚きを隠せずに開いた口が塞がらない。
「ふう、死ぬかと思った、出してくれてサンキューな」
そう言って出てきた人物に更に驚いて今にも飛び上がってしまいそうだった。その姿は見間違えることもない、なんとあの盗賊の少女だったのだ。
「はあ、死ぬかと思った。おかげさまで生きてられる」
相手を確認することすらないままに恩を告げていた。
「にしても死ぬかと思った、ホントさんきゅ……って、はあああああ!?」
ようやく箱の鍵を開けた人物の正体を確認したそうで、素っ頓狂な声を上げ、目を思い切り見開いてその姿が幻でないことを確認していた。
「てめえらかよ! ついてねえな」
リリは引き攣らせるように瞼を動かしながら文句をつけていた。
「助けてもらってそれはないんじゃない?」
そんな言葉もどれほどの効き目があっただろう。少女はそっぽを向いていた。
「素直になれば可愛らしいのだけど」
明らかなお世辞、幹人はそう読んだ。少女の方はきょとんとして言葉も出なかった。
「ふふ、慣れない反応、いいと思うわ」
お世辞お世辞お世辞お世辞……幹人は全力で言い聞かせて。しかしながらそんな言葉のひとつすらもが耳に残って仕方がなかった。
リリは少女の名を訊ねるものの、少女はその名を追憶の底に落としてきてしまったらしい。なにひとつ思い出せない、自分の事、大切なこと、本当の母親。何もかもが頭には残っていないのだという。
そんな少女の頭を撫でて、リリは励ましていた。
「そう、小さい頃から攫われていたのでしょうね、大変だったね」
この魔女の優しい一面、それが幹人以外の人物にも向けられることがあるのだと知って、嫉妬の中に少しだけ安らかな気持ちを織り交ぜた微笑みをこぼした。




