帰ろう
ナイフは頬を掠め、血で彩られた幹人の顔は少しばかり痛々しくて。
「ほらよ、殺すか殺されるかだろ!」
少女の必要以上の殺意、もっといえば不要な感情によって握り潰されそうでただ苦しくて。
「もう……やめようよ」
逃げる選択、手に取るものはただそれだけ。
「ざけんなよ、のうのうと生きてやがって」
分かり合おうともしない刃物のような少女は再びナイフを振るい、相手の頬に傷をまたひとつ増やして。
もう魔法を使うしかない、決心を固めたその時、頬を打ち付ける熱い感触が走り、気が付けば幹人は地面に倒れていた。
「魔法は使わせねえ」
ビンタ、その一撃は重たくて強くて苦々しい。
――まさか、ここまで
少女が振るう仕留めの一撃、もはや目を見開いて記憶に焼き付ける暇しかなかった。身体の動きは追い付かなくて、頭の動きだけが追い付いていて。
ナイフは迫り来る。近付いて、勢いは緩むこともなくて。
突然少女の腕は流されるように幹人から遠ざかった。少女の意識は腕の方へと奪われて、生まれた一瞬のスキをついて薙ぎ払うように小さな身を吹き飛ばす。
「ふう、間に合ってよかった。ねえ、不幸者さん」
目の前の暗い色に塗れた姿、それは幹人に安らぎを与えてくれた。
「……リリ姉」
「うふふ、リリちゃんだよ」
笑顔で手を振る姿は見間違うことのない、希望の輝き。
「さて、そこの人をどうしましょうか」
少女に向けた貌はこの上なく暗くて昏い闇のよう。
「ねえ、周りを不幸にすることしか能のない人でなし」
そこまで言って首を横に振って言い直す。
「いいや、人だからここまで化け物じみた汚い存在に成り果てられたのね」
魔女の手は冷たい感情と共に少女に向けられていた、少女の目は震える恐怖と共に魔女に向けられていた。
「人の命を奪おうと思ったんだってね、私も人のこと言えないけれど」
そして続けた。
「奪われる覚悟はおありで?」
怯えるままに突き出されたナイフはしかし、相手の元へは届かない。
「覚悟はおありで?」
繰り返される言葉。ようやく言葉で返した。
「全部全部壊しつくしてやるよ」
返事の破壊力の高さを前に魔女の表情はいかにして動くのだろう。
「虚勢くらいは張れて偉いね」
この上なく輝く笑顔だった。
送り付けた表情と感情、少女には笑顔の理由など理解できなかった。表情に隠された感情を見抜く目など持ち合わせていなかった。
「余裕かよ」
「余裕だよ」
肩に乗せていた耳の長いリスのような生き物に一度触れて、幹人の元に向かわせる。次に魔法を撃つ準備を始めた。準備とはいえど迸る波動を前に少女は虚勢をはがされて余裕を浮かべることもできなくて。
「ここで、死ぬのか」
少女は魔法を前に大切なことに思い至る。
「ここで、死ぬものか」
命あればこそ、決して敵わない相手に背を向けて走り去ったのだった。
リリはそれを見送って幹人に駆け寄った。
「大丈夫かい?」
無言で頷く幹人の頬を白くて細い指でそっと撫でる。
「ケガなんかしてしまって。痕が残るのは嫌よ」
そう語りかけながら撫でた頬から傷口は消えてなくなっていた。
「さあ、帰りましょ」
「そうだね、帰ろう」
戦いの跡が残る村の中、ふたりと一匹だけがどこまでも綺麗だった。




