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 二人の休みの合う、翌々週の月曜日が約束の日になった。


 秋晴れの昼、真琴は那生駅東口前で神山さんと待ち合わせた。駅前の簡素なロータリーから東へまっすぐ伸びる通りを並んで歩き、神山さんをアパートまで案内した。通りには紅葉したハナミズキの並木が続いていた。


 アパートに着いた。事前に念入りに掃除をし、お香を焚いたリビングへ上がってもらう。神山さんを二人掛けのソファーに座らせてテレビを点け、少し待ってもらった。料理はあらかた下ごしらえしてあって、すぐにできるようになっていた。


 ルッコラと柿のサラダ。スペイン風オムレツ。サーモンのエスカベッシュ。メインに海老のトマトクリームパスタ。飲み物は、近くの足利市にあるワイナリーの白ワインを、よく冷やしたものを一本。


 これらの料理をソファーの前にあるローテーブルいっぱいに並べた。そのローテーブルの周りにクッションを敷き、斜め向かいに座り合った。二人でゆっくり料理を食べながら、なごやかな、とりとめの無い会話をした。話題はコロナワクチンの副反応のこと、好きな映画やドラマ、神山さんの飼っている猫の変な習性、お互いが学生時代に所属していた部活動について、などだった。


 真面目な話もした。


 前菜を食べながら、真琴は(こんなこと普通は美容室の客には決して言わないが)美容師としての自信が無い、と打ち明けた。


「そんなことないでしょう。立派にやってるじゃないですか」


 神山さんは優しく返答してくれる。


「いえ、お客様には分かりにくいかも知れませんが、私この齢になってもカットの腕が全然で。指名客も少ないし、人件費を考えると、私、赤字スタイリストだと思うんです」


「……」


「きっとセンスがないんですよね。……ごめんなさい、こんな話」


 神山さんはサーモンを切るナイフの動きを止め、ナイフとフォークを皿の端に置いて、斜め向かいに座る真琴を見た。


「大学で教えていた時にね」


 神山さんは穏やかに話をはじめた。


「担任したある男子学生なんだが、どうにも光るところの無い、これはとてもコンクールの賞は獲れないだろうな、良く大学の入学試験に受かったもんだ、っていう子がいたんです。真面目に練習はする生徒だったから、私なりに一生懸命指導したんだが、結局コンクールで入賞することもなく、就職先も決まらずに卒業していった。


 それから五年くらい経ってからかな、その元学生がある有名なコンクールで優勝したんです。恥ずかしいことに私はコンクールの優勝者の名前を聞いても、はじめその子だと思い合わせられなかった。思い出したのは、しばらくしてその子が在学時代の指導のお礼を言いに、大学の私の元へやってきてくれた時だった。


 その時その子が『コンクール優勝のお礼に先生に一曲弾きますので、聴いていただけませんか』と言ったものだから、ピアノのある空き教室を借りて弾いてもらった。ベートーヴェン、ピアノソナタ8番『悲愴』、第二楽章。彼が個人的に一番好きなピアノ曲だということだった。


 『悲愴』の第二楽章は、それほど高い技巧を必要とする曲ではない。しかしその彼の演奏を聴いてね、私はひどく驚いた。学生だったころとは全くレベルが違う――深みがあり、オリジナリティに溢れ、どこか扇情的な、つまり聴く者の心を打つ演奏だった。私は彼がコンクールに優勝できたことをようやく納得した。きっとたゆまず練習を続けてきたんだろうと思った。演奏が終わって、彼に今後どうするのか尋ねると、何社か音楽事務所から声をかけてもらっているので、プロを目指しますと言った。これがその子が二十七歳の時のことだった。ピアニストとしては大変な遅咲きだ。


 ――いや、どうもしゃべりすぎるね。つまり私が言いたいのは、才能というのはいつ現れるか分からないということだ。その『悲愴』の彼のような例は、他にも無いわけじゃない。努力さえ続けていれば――オセロの石を置き続けていると、いつかそれが黒から白に一気にひっくり返ることがあるように――ある時突然才能が開花することがある。そしてそれに年齢はあまり関係ない。私は美容師のことはよく分からないが、あなたにもまだ可能性はあるんじゃないかな」


 そこまで話すと神山さんはサーモンの切り身をフォークで刺し、口に運び、咀嚼して、ワインで飲み下した。


「そうじゃないですか?」


 神山さんはそう微笑んだ。真琴はかしこまって返事をしながら、


(そうやってオセロの石を置き続けることをしてこなかったから、多分今の私があるんだけどなあ)


と思っていた。しかし一方で、


(これから週に三――、いや二回でも、仕事上がってからカットの練習をしようかな。今さらだけど)


ということも少しだけ考えた。

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