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ノスタルジー

真夏の帰省 

作者: mizuki.r

 この短編は、2000年前後を背景に書いたものです。

 通信事情やコンテンツなどもだいたい当時のものになっています。

 


 それは愛らしい茶トラの子猫だった。 

 夏休みの最初の一日を丸々費やして婚約者の墓参りを終え、部屋に戻ると、ドアの前で鳴いていた。

 暢気そうな面構えが死んだ陽介(ようすけ)に似ている気がする。なんとなく放っておけない気分になり、牛乳を持って行ってあげると、嬉しそうに一鳴きして舌を伸ばした。ちらちらとピンクの舌がひらめいて白い牛乳を絡め取っていく。

 さして猫好きでないわたしでも、どきどきするくらい可愛い。

 とはいえ、もちろん飼うつもりはなかった。一人暮らしだから仕事に行っている間は家に誰もいないし、旅行や帰省の度にいちいち預け先を考えなきゃいけなくなるのも面倒くさい。

 そのままドアを閉めようとした。

 ところが、それまですっかりミルクに夢中になっているものとばかり思っていた子猫は、わたしの横をすり抜けて部屋に飛び込んできてしまった。

 あわてて掴まえようと後を追う。

 猫はベッドに飛び乗ろうとして、猫とは思えない不器用さで足を滑らせ。

 ぺたん。

 と床に落ちた。その間の抜けた感じが、やはりなんともいえずに彼に似ている。

 久々に彼のご家族に会ってきたせいもあり、ついついそんなことを考えてしまったのだろう。

 追いかける勢いが止まってしまったのに気づいたのだろうか、猫は足下に体をすり寄せてくる。そうされるとやはり愛らしくて、邪険に追い払うことができなかった。

 うっかり頭を掻いてやって、あわてて言い訳のように付け加える。

「あのね。飼ってあげられないの」

 猫は首をかしげてわたしを見上げると、粛々とした足取りで玄関の方へ歩き始めた。

 一瞬、話が通じたのかとぎょっとする。

 だが、そいつは玄関マットのところにたどり着くとうずくまった。すっかりそこに落ち着く体勢だ。

 ああ、やっぱり可愛い。

 しかし、今の生活で猫を飼うのはどうしたって無理だ。わたしは覚悟をきめて近づいていく。このまま抱き上げてドアから出してしまおう。そう思ったのだ。

 しかし、猫はふっと私を見上げ。寂しげに一声鳴いた。

「みゃあ」

 脳天に突き刺さるほどの愛らしさだった。しかもどこか眠そうに聞こえるのんびりとした鳴き声は、やはり陽介に似ている。

 突然、なぜだかものすごく腹が立ってきた。

 似ているからほっとけないと思ったそれ以上に、陽介とよく似た仕草で甘えてくる猫が許せなくなってきてしまう。 

 わたしは無造作に子猫を抱え上げた。

 突然のことに子猫は不思議そうに見上げてくる。それににこやかな笑顔で答えると、わたしは一気にドアを開け子猫を放り出した。

 間を置かずにドアを閉める。

 猫がなにか訴えるように鳴きだした。しかし、その時の私は陽介への怒りで、その猫に対してまで、すっかり無慈悲な気分になっていた。 

 あんなうっかりな死に方で、いきなり婚約者を放り出しやがって。

 悲しげな猫の声を無視するために、シャワーをざっと浴びた後にキンキンに冷やした芋焼酎を一気に呷った。

 予定通り、疲れた体にスピリッツが一気に染み渡る。あっという間にふわふわになってしまったわたしは、あわててベッドに飛び込み布団に抱き着くとそのまま意識を失った。


  


 翌朝は、しつこい電子音に何度も起こされた。時刻は昼の十二時。まさかこの時間まで寝てしまうとは思っていなかったが、念のためにと目覚ましの設定をしておいてよかった。 

 起きあがるとき、かすかな罪悪感と共に昨夜のことを思い出した。

 子猫はあれからどうしただろうか。

 鳴き声は聞こえない。おそらく、しばらく玄関の前で鳴いた後、扉が開かないと悟って、どこかへ行ったのだろう。これまでだってあの猫はわたし無しで生てきたのだ。昨夜追い出したからといって、いきなりどうにかなるわけもない。 

 気を取り直して、出かける支度を始めることにした。今日は二時に渋谷で待ち合わせをしている。

 熱いシャワーを浴び、髪を丁寧にブローし、クローゼットの中の洋服を引っ張り出してしばし悩み、選んだ服に合わせて小物を選び、メークのトーンをどうしようか考える。


 陽介と会うときには、ほとんどしたことのない儀式だ。

 なぜか突然そのことに思い至って、すこしばかりの疚しさにおそわれた。

 陽介とデートするときに服装について考えたことと言えば、バッティングセンターかもしれないからジーンズにしようかとか、一日こたつでビデオの予定だから楽なフレアスカートにしようとか……。

 なにしろデートで山手線の内側に向かうことなど、年に一度あるかないかだったのだから。

 わたしは大げさに溜息をつく。

 鏡の中には、薄化粧に見えるバッチリメークを決めベージュの口紅を引いた女が映っている。都会的なできる女風……なんだか嘘っぽい。 

 べつにいいじゃない。

 なにがだかわからないが、そう心の中で呟いて立ち上がる。 

 そろそろ出かけないと、約束の時間に遅れてしまいそうだった。そして、今日の待ち合わせの相手は、陽介と違って必ず五分前に現れる人なのだ。

 スニーカーではなくパンプスを履いて扉を開く。 

 突然。ストッキングの足を、なま暖かいものが擦って部屋の中に飛び込んでくる。

 振り向くと、ベッドの上に昨夜の子猫がいて、満足そうに一声鳴いた。




 数時間後、わたしはとりあえずで注文したスパークリングワインと、チーズの盛り合わせを前にひどく悩ましい気分でいた。  

篠田(しのだ)さん、もしかして体調が悪いんですか」

 さっきからにらめっこをしてた皿から顔を上げると、そこには陽介とはかなり違う整ったお顔がある。

 片岡(かたおか)さんは、ふさぎ込んでいる私を心配して悪友が紹介してくれた男性だ。

 何度かグループで飲みに行ったあと、誘われて二人で会うようになった。 

「え、ええ、ちょっと風邪気味みたいなんです」

 とりあえず、そういうことにしてしまおう。猫のことが気になってというよりはいくらかは失礼じゃない気がする。

 実は、猫が部屋に入ってきてしまった後、しばらくは外に出そうと追いかけ回した。でも人間が簡単に猫に追いつけるはずもない。待ち合わせにどうにも間に合いそうもなくなって、なんとかトイレに閉じこめただけで家を出てきてしまった。 

 おかげで、二人でいるというのに、家がどうなっているのかが気になってしかたがない。こんなことなら、事情を話してデートを延期してもらえばよかった。と思わないでもなかったのだが、遠慮があって言いづらい。

 でも、幸い、彼は気配りの人で。 

「じゃあ今日はもう帰りましょうか」

 向こうからそう言ってくれた。

 あまりに喜ぶのも悪い気がして、いかにも体が辛そうな風情をアピールしつつ肯きながら、心底ほっとする。

 さあ! 早く家に帰って猫と戦闘だ。 

 その日、はじめて自宅まで送ってもらうことになった。

 これまではずっと、悪いからと遠慮してきたのだが、具合が悪いと言ってしまった手前、断りづらかった。

 わたしの住むマンションは住宅街のど真ん中にある。静かで住むには良い環境だが夜になると人通りが絶えて少し怖い。駅を降りて、生け垣の間を歩いているとき、彼がしみじみと呟いた。

「あまり人通りがないんですね。この時間だからいいけど暗くなったら女性が一人じゃ危険だ。落ち着いた住宅街だからと安心してしまっていたけど、最初からちゃんと送ってればよかった」

 こういうところが本当に紳士だ。いつも部屋のこたつの中から手を振っていた陽介とは違う。

 たまには送ってよ。と甘えてみても、ええ~、めんどくさいよ。だったら泊まってっちゃえば良いじゃん。とか言われて。仕事があるのにふざけんじゃない。と、憤然として帰るか、本当に面倒で泊まっていくか。どちらになるのが落ちだったのだから。 

 そしてまた片岡に申し訳ないという気持ちがぽわんと浮かび上がってくる。  

「ごめんなさい。せっかく誘っていただいたのに。出かけるときは平気だと思ったんだけどやっぱりちょっと疲れていたみたいで。昨日、抜けられない用事があって出かけてたんです」

 その用事が、死んだ婚約者のお盆の墓参りだということまでは言わない。

 片岡は柔らかな笑みを浮かべて振り返る。 

「気にしないでください。むしろ、ちょっとほっとしてますから。今日の映画、あまり楽しんでもらえてなさそうだったから、セレクトを間違えたかな。と思って心配してたんです。……もしかしてヨーロッパ映画はあまり好きじゃないんですか?」

 想像通り、実はあまり好きじゃなかい。が、わたしも大人だ。にこやかな笑みを浮かべて彼を見上げる。

「そんなことないですよ。今日は疲れてたから入り込めなかっただけ。自分で選ぶときは、気楽に見られるエンターテイメント系のものにしちゃうから、ああいうのも、たまには新鮮でいいですね」

 糖衣にくるんで好みを伝える。やっぱり彼にはなかなかほんとうのことは言いにくい。

 片岡は二、三、ハリウッド製の映画の題名をあげて、次はそれにしましょうかと聞いてくる。必ずしも好みではなかったが、家族の危機だの愛のもつれだのをうだうだと一時間以上、異様なテンションで見せられるよりはよほどましそうなので同意した。

 それに、そのあたりの映画なら、会社で話のたねにもできる。 

そんなことをしているうちに、マンションの前にたどり着いた。最近は建物の中の廊下も物騒だから、というので片岡は部屋の前までついてきた。鍵を開ける間も傍らに立って見守っている。

別れの挨拶を言おうと振り向いたとき、彼としっかり目が合ってしまった。

「もしかして、僕が誘うのは迷惑ですか?」

 なぜか、ものすごく不安げな表情を浮かべてこちらを見つめている。

「いえ、とんでもない」

 あわてて否定すると、彼は小さく息を吐いて。

「よかった。今日は具合が悪そうだからつい強引に自宅までついてきてしまって。迷惑がられているんじゃないかと」

 ちょっとめんどくさい。と思ったけれど、ここは首を横に振るしか選択肢は無い。彼の表情が少し和らいだ。

「僕は……。将来のことも見据えたうえでお付き合いしていけたらと思っています。すぐに返事はもらえなくてかまいません。ただ、そのつもりでいると」

 えっ、ちょっと待って!  

 いや、まだそういうレベルじゃないよね。ただ、ちょっと友達に紹介されて一緒に飲んで、その後何度か二人で会ったけど、ただそれだけだよね。

 いくら真面目とはいえ、いきなり将来は早すぎないか、重すぎないか。

 そりゃあ顔はちょっと好みだよ。正直、陽介よりはよっぽど。顔がいいわりに軽くないのも好感触ではあったよ。それに何より、品が良くてやたらに踏み込んでこない距離感も心地よかったから。だから安心して……。

 だから……。

 心のどこかが冷えた気がした。

 安心してなんだというのだろう……。いったいわたしはこの目の前の男に何を期待していたのだろう。何だと思っていたんだろう。

 戸惑いに気が付いているのかどうか、固まってしまった私の頬に、骨ばった手が伸びてきて、ためらいがちに触れる。

 喉ぼとけが動くのが見えた。

 わたし好みの整った顔が、おずおずと近くに寄ってくる。

 あれっ、キスされるのかな。

 いや、さすがにもうそのくらいで騒くほどの可愛げはないけど……けど。でも ごめんなさい。そういうことだとは思っていなくて。

 どうしよう。

 その時、カリカリとドアを擦る音がした。

 あ、猫。

 思った瞬間、わたしは体ごとドアに向かっていた。

 やっぱりトイレから脱出してたんだあの猫。やばい。ドアは爪くらいじゃ大丈夫だろうが、壁に傷をつけられると敷金が帰ってこなくなる。

 頭の中が、ごくごく現実的でせこい心配でいっぱいなる。

 早く外に出さなきゃ。

 開けたドアから、茶トラはいきなり飛び出してきた。そして容赦ない勢いでジャンプして、飛びつく。私にではない、片岡にだ。

 ふかふかのお腹が、顔を直撃した。

 彼は、突然現れた怪しい物体を顔から引きはがすと、呆然とながめていた。

 その顔が、なぜか奇妙なふうにゆがむ。そして次の瞬間、くしゃみが廊下に響き渡った。

「し、篠田さん猫飼ってたんだ。知らなかった」

 捕まえた茶トラを、できるだけ遠くに追いやろうと手を伸ばしながら、彼はまたくしゃみを連発した。

 「あ、飼ってる訳じゃないんです。昨日、初めて見た猫なんですけど、なんでかあがりこんじゃって」

 説明しながら、つい笑いそうになってしまった。

 このくしゃみは花粉症のときのものとよく似ている。もしかして猫アレルギーなんだろうか。

「そうなんだ。ご、ごめん。僕も、ちょっと調子悪くなってきたんで。今日はもう帰る」

 さっきまで恋愛ドラマのような雰囲気をたたえていた綺麗な顔が、いまはくしゃりと歪んでひくひくしている。目が潤んで。鼻水まで垂れて。

 彼は危険物のように茶トラを私に押しつけると、すすすっと身を引いた。ぱたぱたと顔の周りや、衿周りを叩いているのは、付いてしまった毛を払うためだろうか。

 そうか、そつのない男だと思っていたが、猫がだめだったのか。 

「じゃあ、また電話する」

 笑顔で手を振ろうとするのだが、すっかり涙目になっている。

 去って行く後ろ姿があたふたしていて妙に可愛い。

 それを見守ってから振り向くと、茶トラは満足そうに前足を舐めていた。見事な活躍ぶりに追い出すつもりだったことを忘れて思わず抱き上げる。

「もしかして話を聞いてたの?」

 そう話しかけたのは、もちろん冗談だ。

 次の瞬間、思い切り頭を叩かれた。爪が頭に刺さる。

「いったぁい」

 叫ぶ私の腕から飛び降り、茶トラは部屋の中へ駆け込んでいく。

 頭をさわるとちょびっとだけど血が付いていた。顔じゃなかったので助かったけど、変なばい菌とか持ってたらどうしよう。

 泣きそうになりながら部屋に入った私は、そこに繰り広げられている光景に絶叫した。

「ちょっと、やめてぇ!」

 茶トラがパソコンの前でキーボードを叩いているのだ。電源を入れた記憶もないのに、画面はワードパッドになっている。猫にパソコンを壊されるというのは、あまりによく聞く話だ。

 しかし、そんな、ごくまっとうな恐怖は、なにやら書き付けられた画面をみた瞬間吹き飛んでいた。

 延々と続く見知らぬ文章の最後に、今まさに猫が打ち込んだらしき言葉が浮かび上がる。

「あの男は何なんだ」

 文章になっている。意味も通る。

 茶トラが振り返る。悲鳴も上げられず、私はへたへたと座り込んでいた。

 そのあと、猫が打ち込んだ文章を読んだ。わたしの留守中にせっせと打ち込んでいたらしい。

 書いてある内容によると、この子猫は陽介だった。

 車を運転し、事故を起こしたところでいったんは記憶はとぎれ、気が付いたらいきなり猫になっていたのだという。

 ただ、自分が死んでしまったことだけはなぜか分かったのだそうだ。そして、きっと悲しみにうちひしがれているだろう私をなぐさめるためにやってきたのだと。

 冗談みたいな話だが、たしかに文章の調子は陽介の口調をそのまま映したようなものだった。誤字が多いのも彼らしいような気がする。

 猫は、モニターに見入る私の肩に前脚を置いて一緒に覗き込んでいる。それもまた、陽介がよくやった動作だった。

 少し軽過ぎはしたが、目を閉じると後ろに彼がいるような気がしてくる。

 だが、目を開けて振り向いたとたん、襲ってきたのは脱力感だった。そこに居るのは、どう見ても愛らしい子猫だ。

「なにか文句があるのか」

 猫の手なので、打つのにけっこう時間がかかりいらいらするらしく、そのたびにミャアミャア鳴くのが笑える。

「いえ、別に」

 幸い、彼はこちらの言うことは理解できるらしいので、わたしがいちいち文章を打ち込む必要はない。

「実家に帰ればよかった。お前が寂しがっていると思ったから来たのに」

 うらめしそうな文章が画面に浮かび上がる。

 わたしは生温かな笑みを猫の陽介に向けた。

 実家になんて戻ったら、お兄さん達に手荒い歓迎を受けるくせに。

 彼は、男五人兄弟の四番目だ。そしてそのうち、次男と五男の二人はまだ家に居座っている。墓参りのときの様子を思い出しても、子猫の姿の彼が兄弟たちにどう扱われるかは簡単に想像できる。

 とはいえ、小母さんは家に戻って来て欲しかっただろうな。

「来てくれて良かった。ほんと寂しかったよ。どっかの誰かがうっかり死んじゃったりするから」

 猫は一瞬甘えた声をあげたが、急に低くうなり声をあげてパソコンに向かった。

「男と会ってた」

「ああ、片岡さん。柚子が紹介してくれたの」

伏見(ふしみ)がだって! そんなんろくなもんじゃないに決まってる」

 伏見柚子(ふしみゆずこ)は小学校の時からの友人で、陽介には彼女の人となりは話してあるし、何度かは会わせてもいる。確かにかなり癖のある人柄なので、普段なら彼の言い草を認めてあげてもいいのだけれど。でも。

 わたしは、小さな耳をつまみ、その穴に向かって、はっきりと告げた。 

「あのね。その柚子がね。本気で心配して、あの子の知る限り最上の物件だからって紹介してくれたの。なんでかわかる。わたしがいつまでたっても立ち直れなかったからよ。誰のせいか分かるわよね。大切な婚約者を置いて、うっかり死んじゃて。なのに、偉そうにそんなことを言うの? それともわたしに、この先ずっと、あなた以外の誰も好きにならずに、ずっと一人で生きていけっていうの?」

 彼の死んだ事故というのはほぼ完全なうっかりだった。

 夜の山道を走っていておそらく眠くなったのだろう。ハンドルを切り損ない、ガードレールをぶちやぶって崖下に落ちた。

 ただ一つの救いは、他人に被害が及ばなかったことだが、他人でない彼の両親はガードレールの補修費用にかなりの額を支払ったはずだ。

 あれ、保険は降りたんだろうか。

 猫も本人だけあって、自分のやらかしたことは分かっているのだろう。言葉に、いやキーボードにつまったようにしばし固まっていた。

 だが、やがて叩き付けるように打ち始める。興奮しすぎたのか、カバーが爪で破れ、キーボードにまで傷が付く。

 私は、彼をつまみ上げ、叱りつけた。

「新品なんだから傷つけないで」

 猫はつぶらな瞳で私を見上げ、悲しげにミャアと一声無く。この姿だと、真面目な話をされても馬鹿馬鹿しくてやっていられないが、かわりに本気で怒る気にもなれない。

 苦笑しながら、もう一度キーボードの上に下ろしてやると、彼はそろそろと前足で叩き始めた。

「新しい恋人ができるのはしかたない。でも、ああいう男はお前に合ってないんじゃないか」

「ふーん。じゃあ、どんな人なら納得してくれるのよ」

「もっと男らしくて誠実そうで」

 私は軽く溜息を吐いた。

「むさ苦しくて、おバカで不器用そうってこと? 誰かさんみたいに。でも、似てたら比べちゃうよ。そしたらかなうわけないじゃん。昨日今日であった人と、十年近く一緒だった誰かさんと」

 猫はいつの間にか向こうを向いて、しきりに顔を拭いている。どうやら照れているらしい。

 褒めてねえし。

 それなのに、いいところだけ聞いていい気分になっているあたりは、やはり彼だ。

 わたしはその頭に手を伸ばし、軽く爪を立てて掻いた。

 これは陽介。だけど猫。猫だけど陽介。

胸に落ちてきたとたん、急に目の奥が熱くなってきた。

 わたしはあわてて化粧を落としに洗面台に向かった。



 

 お盆休みはまだ四日ある。

 翌日は、昼間のうちにペットショップに向かい、最低限必要なものをそろえてきた。

 陽介は人間の食事が欲しそうだったが、体は猫だ。猫缶をいくつかと、妥協して刺身の盛り合わせを買って帰る。

 帰ってから思いついてネットで調べると、猫に甲殻類や貝や青魚は食べさせてはいけないらしい。盛り合わせの中からサーモンだけ皿に移してあげると、恨めしそうにこちらの皿をにらんだ。鯵はまだしも、甘エビとほたては陽介の大好物なのだ。一緒に回転ずしに行くと、その二種類は必ず取っていた。

 不満そうなのを猫なんだからと言い聞かせ、久しぶりに一緒にご飯を食べる。

 陽介は文句は言いたそうだったけれど、サーモンだけでは足りなかったようで猫缶もきっちりたいらげた。

 口の周りを拭いてあげると、嬉しそうに泣き声を上げる。完全に子猫だ。

 そのあと、トイレを設置したり。これも居間の隅に作ろうとして抵抗されたので、人間用のトイレの横にスペースを作る。

 夜は、一緒に寝ることにした。最初は微妙に抵抗も感じたが、なにしろ相手は猫だ。それに、もともとそういう関係でもあったのだし。

 とはいえ自分以外の生き物が隣に寝ているのは暑い。

 すぐには寝付けず、おなかの上にのっているもこもこした塊をどかして、少し窓を開けて風をいれようとしていたときに、ふと片岡の事を思い出した。

 あのまま帰してしまったのは失礼だったかな。

 でも、真面目な告白に応えられない以上、お別れするしかないだろう。少しだけもったいない気もするが仕方ない。彼のことは感じのいい人だとは思っていたけれど、ときめいたことは無かったのだから。

 寂しくて、恋人ごっこの相手をしてもらっていたようなものかもしれない。

 でも、今、それは必要ないのだから。

 傍らでは、転がされたのをものともせずに、茶トラが腹をさらけ出して安らかな寝息をたてている。そっと前足をとり肉球に触れてみた。くすぐったいのか眠ったまま身をよじる。

 そのだらしない寝姿に。これじゃあ野良はやってられないよね。苦笑が浮かぶ。

 陽介との付き合いは長かったし、二人の性格もあって、生きていた頃からなかば兄弟のようなものになってしまっていた。そのせいだろうか、この状況も、不思議とそれほどの抵抗は感じない。

 ただ、こうして子猫を抱いていると、恋人と言うよりは、母の気分になってしまう。

 自分も寝ようと横になりうとうとし出した頃。いきなり携帯の呼び出し音が鳴り響いた。

 時計は十一時。

 たしかに、一人暮らしの女のところに電話をしてくる時間としては、そう不作法な時間ではない。

 腕を伸ばして布団の中に携帯を引っ張り込む。

 片岡だった。

 ついつい傍らを伺った。茶トラの子猫は、鼾をたてて寝ている。

「はい。篠田です」

 それでも、つい声を潜める。

 電話の向こうで、片岡はなにもなかったように世間話をはじめた。今日いった店の感想や、映画の話から好きな音楽の話、それから今度名古屋に出張に行く話など。

 明らかに会話が上滑りしているのが分かる。たぶん何か言いたいことがあるんだよね。だったら早く切り出してくれないかな。というより、こちらからいうべきなんだろうか。

 と、困っていると、彼は急に黙り込み。そしてひどく深刻な声で。

「篠田さん。猫が好きだったの」

 なぜ猫でその口調? と思いながらも。

「いいえ、特にってわけじゃないですよ。あの子にはたまたま居つかれちゃって」

 電話の向こうで深い深い溜息の気配がした。妙に沈み込んでいる空気に、一応こちらからも話を促してみる。

「猫がどうかしたんですか?」 

「あ、いや、その……」

「そういえば、くしゃみひどかったですね。もしかして、猫アレルギーですか。だったらすみませんでした」

 電話の向こうの沈黙が、一層重くなった気がする。

「ごめん。怒ってない?」

 なぜ怒るのか分からなかったが、とりあえず否定した。でも、彼はなおも疑わしげに確認をとろうとする。

「なんでわたしが怒るんですか。この場合ならむしろ、いきなり猫に飛びつかれた片岡さんのほうが怒ってもいいような気がするんですけど」

「いや、まあ、それは……、ところで今度の土曜日は空いてる」

 納得したというよりは、話をそらそうとしているような口調だ。いったい何が気になっているのか見当も付かない。ただ、切り替わった話題が話題だったので、わたしもそれ以上彼の猫アレルギーのことにこだわれなくなってしまった。

 今度は、私が黙り込んでしまう番になったのだ。

「都合が悪いの」

「もう、逢うの止めませんか」

 いざ言葉に出すとなると少し悲しい。しかし帰ってきた言葉は。

「……どうして、僕が猫アレルギーだから」

 なんでやねん!

 口には出さなかったが心の中ではなぜか関西弁でツッコんでしまう。

 常識人だと信じ込んでいたのに、いったいどういう思考回路をしているのだ、この人は。

 でも、おかげで、口がなめらかになる。

「片岡さんは何も悪くないんです。ただ、猫を拾って気が付いたんです。私、一人が寂しくて、ただ誰かに隣にいて気を紛らわして欲しかっただけなんだって。だから、このまま甘えているのは違うなって……。それで」

 実に気まずい沈黙が下りる。

「結局僕は猫にはかなわないんだね……」

 え、いや、この人何言ってるんだ。

「あの。ほら。片岡さんならきっともっとステキな女性がいると思うから。じゃあ」

 私はそれだけ言ってしまうと答えを待たずに通話を切った。

 放心していると、寝ているとばかり思っていた陽介がわたしの足を掻いた。心配そうな……。たぶん、心配そうな表情で見上げている。

 いったいいつから私の言葉を聞いていたのだろう。

「別に陽介に義理立てしてるんじゃないからね。恋人が死んだ寂しさで、好きでもない人と付き合うなんて、あんまり相手に失礼だからやめただけ。陽介、猫だもの、どうせ、あと十年もすれば、またいなくなっちゃうんでしょう。本気で好きな人ができたら、おばさんに押しつけて、さっさと結婚するわよ」

 彼はキーボードを叩きに行く代わりに、私の腕の中に体を滑り込ませてきた。

 ミャア。

 鳴き声がなんだか困っているように聞こえた。けれどわたしはそのぬくもりだけで安心できた。

 やがて、眠りに落ちる。

 再び携帯がなったのは、なにやら幸福な夢を彷徨っているときだった。

 かんに障る電子音がしつこく鳴り響く。起きたくない。

 しかしいつまでたっても呼び出し音は止まらない。悪態を付きながら半身を起こし時間を確認すると、二時だ。たとえ一人暮らしであっても、仕事を持ってる人間のところに電話してくるにはあまりにも非常識な時間帯だった。たまたま明日は休みだけど、それを知っている人でこんな時間に電話をしてくる奴はいないはず。

 陽介も不機嫌そうに顔を擦っている。

 一瞬片岡かとも思ったが、たぶん彼ならかけ直すにしても明日にするだろう。

 耳に当てるとやたらハイテンションな声が響き渡る。

香里(かおり)、あんた。片岡さんふったんだって!」

 彼を紹介してくれた、悪友、伏見柚子の声だった。

「なんであんたが知ってんの」

 柚子の説明によると、片岡がすぐに友人の小野氏に電話して、その小野氏があわてて柚子に注進に及び。その話をきいた柚子が、片岡に事情を確認してからかけてきたのでこの時間になったのだそうだ。

 その間、三時間。普通に考えて、一通話一時間。いったいなにをそんなにしゃべっていたんだろう。

 ぼんやりそんなことを考えていると、耳に迫力のある声が突き刺さってきた。

「あんたね。何、もったいないことしてんの。この年になったら男との出会いは、一回一回が、かけがえのないものなの。片岡くんみたいに顔も良くて、人柄も悪くない人が独身でいるなんて、とんでもない幸運だったんだからね。いったい何が気に入らないのよ」

「理由は、聞いたんでしょ」

「あんなんじゃ。納得できるわけ無いじゃん」

 水掛け論になると、柚子は長い。話をそらすことにした。 

「そんなにお勧めなら、なんで柚子が捕まえないのよ」

 枕の横で茶トラがもぞもぞと動き出す。

「趣味の問題。わたし、覇気の無い男って駄目なの。片岡君て東京生まれ東京育ちのおぼっちゃんの典型で上昇志向全然ないじゃない。でも、そのてんあんたは覇気の有る無しは全く気にしないでしょ。なにしろ陽介と結婚しようと思ったくらいなんだから」

 悪口は聞こえるのか、陽介の耳がぴくぴくと動く。

 彼は、ふとんを飛び出すと、パソコンに飛びかかった。

 寝ぼけているらしいのが気になる。彼のせいで、真新しかったキーボードは傷だらけなのだ。思わず呼びかけた。

「ちょっと陽介。気を付けてよ」

 携帯の向こうで柚子が沈黙する。

 わたしは慌てて、説明した。

「猫なのよ。昨日拾った猫。なんだか顔が似てたから、ついつい陽介って」

「香里、あなた……そっ、そうよ。それよ」

 感極まった感じで声を震わせかけた柚子が、突然叫ぶ。

「猫拾ったとたんに片岡さんふったんだって」

「そうだけどなにか」

 柚子はしばしの沈黙の後、携帯を通してもわかるほどに大げさな溜息をついてみせる。

「最悪……片岡くんのトラウマのど真ん中だもん」

 妙に思い入れたっぷりに言い切った後、もったいぶった間をとってから続ける。

「小野に聞いたんだけどさ。片岡君、初恋が小学校の時だったんだけど、その女の子がめちゃくちゃ動物好きだったんですって。いたいけな片岡少年はなんとか彼女に気に入られようと頑張ってたんだけど、嫌いとかじゃなくてなにしろアレルギーでしょ。それも、猫ほどじゃなくても、他の動物でも。犬とかでも反応が出るらしいのよ。だから一切動物にさわれなくて」

 そういえば、片岡とのデートで人間以外の生き物のいるところに行ったことはなかったっけか、あ、水族館は行ったけどあれは直接触れない。

「でもほら、小学生の女の子なんて自分の尺度でしか物事測らないじゃない。お世話係なんかが全く出来ないことで、その子に嫌みをいわれたのよ。彼も必死に説明したらしいんだけど、そしたら、そのバカ女、そんな言い訳しないでちゃんと頑張りなよ。とかふざけたこと言いやがったらしくて」

 分からないでもなかった。ただでさえ動物好きな人はいい人だ。みたいな空気が世間にはある。動物に触れない片岡の肩身は狭かっただろう。それを好きな女の子に責められたらやっぱり応えないはずもない。だが、いくらなんでも小学校のそんなささいな……。と思っていると、柚子はさらに畳み掛けてきた。

「それ一度きりならまだよかったんだろうけど。中学の時に好きだった女の子が今度は捨て猫拾っては飼ってるって家の子でね。十匹くらい常時猫が家にいるから、その子の側に寄るとくしゃみが出ちゃう。それが原因で、なんとなく気まずくなって、結局告白も出来ずに終わったらしいわ。で、高校大学の間は平和だったんだけど……」

 柚子の話は続く。やがてキリのいいところでわたしは呟いていた。

「それ。なんとなく、片岡さんの女性の好みに偏りがあるのも原因のような気がするんだけど……」 

「でしょうね。動物好きを振りかざすやつって、自分を優しい良い子に見せたいわけじゃない。片岡君みたいにお人よしの男って騙されちゃうのよ」

 その子たちにも悪気があったわけじゃないんだから、そこまで言わなくても。と考えながら、わたしはふと思い出す。

 そうだ。柚子はアレルギーとかじゃなく。正真正銘動物嫌いだったんだっけ。しかも犬マニアの男と修羅場を演じて別れたのが去年の秋。そういえば、あの騒ぎの間は、陽介を失ったダメージどころじゃなかったな。

 あの時の柚子は、ひどいことを言われた分、相手のこともフェチだとか人より犬がいい変質者とか言いたい放題言っていたのだが。まあ、たぶん真面目で控えめな片岡少年の場合は相手を責めることもなく飲み込んできたんだろうな。

「あ~あ、香里にかぎって、そんなことで人に悲しい思いをさせるやつじゃないと思ってたのにな」

 だが……

 携帯を持つ手が震えてきている。

「ぶっ」

 可愛げのない笑い声をあげてしまった。

 同情はしている。ほんとうに気の毒だと思う。けれど笑えるものは笑える。

「ひどい女……」

 全く真情のこもらない声で柚子が呟いた。

 だしかに、ひどい。

 でも、好きな女の子に責められて涙目になっている半ズボンの片岡少年とか、学ラン姿で必死にくしゃみを押し殺そうとしている中学生の片岡くんの姿があまりにリアルに想像できてしまい、ついつい可笑しくなってしまう。

 そのことを告げると、柚子も吹き出した。

 普通ならそんなに笑うほどのことでもないのだとは思うのだが、その時は深夜の電話で二人ともハイになってしまっていたのだろう。

 柚子が笑い出したことで、わたしの発作は少し治まりかけていた。と、陽介の泣き声が聞こえた。パソコンの前に座ってこちらを見ている。どうやら、モニターを見ろと言いたいらしい。

 目を細めると、そこにはこう書いてあった。

「ほんとにいいのか」

 わたしは携帯を握りしめたまま、猫と見つめ合う。

「なによ。自分が無理やり帰したくせに」

 鼻で笑ってやると、彼はあわてたようにキーボードを叩く。

「あれは嫌がってると思ったから」

 私は携帯を持ったまま近づくと。パカンとどついた。

「なま、言ってんじゃないのよ。猫のくせに」

 しかし、なんとなくだが陽介の態度が突然変わった理由は分かる気がする。最初は端正でエリート風の片岡に反発していたものの、振られつづけた悲しい経歴を聞いているうちに親近感がわいてしまったのだ。たぶん。

 彼は、なぐられた頭をすりすりとなでている。

「ちょっとあんた。なに猫と話してんの」

 左手に握っていた携帯から、あせったような柚子の声が届く。

「ああ、ごめん。こいつが猫のくせに、いっちょ前のこと言うからつい」

 電話の向こうで嘆かわしげな溜息が聞こえる。

「ねえ。香里。陽介とは長い付き合いだから情がうつってるのは分かるわよ。でも冷静になって。彼って、そんなにいつまでもあなたの人生縛るほどのたいした男なの」

 なぜだろう、その言葉が笑いのツボにはまる。わたしはいきなり爆笑していた。

 電話の向こうから、柚子の心配そうな声が聞こえる。

「香里。ねえ香里。どうしたの。大丈夫なの」

 なぜこんなに笑えるのだろう。それほどおかしくは無いのに笑いが止まらない。いつの間にか傍らに来ていた陽介が私の頬を舐めあげる。そこはなぜか濡れていた。

 ざらざらとした舌が暖かい。けれどそれが人の手では無いことがどうにも寂しくて。

 そのことを柚子に伝えたかった。でも伝える自信が無くて、だから。

「だいじょうぶ。ちょっと笑いが止まらなくなっただけだから。あとね。片岡さんのこと。今さら気は変わらないけど、フォローならちゃんとするから必要なら言って。じゃあ、ごめん眠いから切るわ。バイバイ」

 陽介は頬を舐めるのを止めてわたしを見上げている。それから、軽く駆けるようにしてキーボードの前に戻った。

 わたしも彼の後について椅子に座る。

 陽介はしばらく画面を見ていたが、やがてぽつぽつと文字を打ち込み始めた。

『俺は、そんなに長くいられない気がするんだ』

「あたりまえでしょ。猫なんだから」

 顎を掻いてやると、彼は抵抗できずにゴロゴロと喉を鳴らした。 

 結局、その話はそのままになり、ごろごろしているうちに二人とも寝てしまった。

 


 

 それから数日、わたしはちょうどお盆休みをとっていたし、予定もない。

 今の状況が気にはなったけれど、かといって何のしようもないので、結局二人……いや、一人と一匹でだらだらと時間を過ごすことになった。

 その日も、彼用にミルクを、私用にコーヒーを用意して、二人でテレビの前に陣取り、未練がましく捨てられなかった陽介の好きだったドラマのビデオを一緒に見ていた。

 まるであの頃のいつもの休日のように。

 一本目が終わって、何気なくチャンネルを変えているとわたしのお気に入りの映画のワンシーンが目に飛び込んできた。

サッカーの大会なのに、なぜか特殊効果満載で空を駆け宙を舞う主人公チームが、一回戦の相手を大量得点で下したところだ。

 ケーブルテレビに入ってから、どのチャンネルで何をやっているかチェックしきれないので、こういうことはよくある。おもわず見入ってしまっていると、陽介がりモコンを持ったまま固まっているわたしの手を引っ掻いた。もちろん後が怖いので爪はだしていない。

「もう、うるさいなぁ」

「ミイミイミイミイ」

「さっきまで、陽介の趣味につきあってたんだからいいじゃない」

「ミイミイミイ」

「これ終わったら。また好きなの見せてあげるから。ほら、もう最後のほうなんだからあとちょっとだけだって」

 そのあと陽介がおとなしくなったのをいいことにまたテレビを見ていると。

「フギャー!」

 いきなり大声で鳴く。

「なによ」

 何度も見ている映画なので、しかたなくパソコンの画面を覗くとそこには、

『おまえ、何回『少林サッカー』見れば気が済むんだ』

 と書き込んであった。   

「陽介が『北の国から』見た回数よりは絶対少ない」

『シリーズものと単発比べるな。それにあれは日本のテレビ史上に残る傑作だ。』

「『少林サッカー』だって映画史上に残る傑作よ」

 思えば、こんなくだらない口げんかも久しぶりだった。

「俺にはあんなアホな映画を見てる時間はないんだ」

「なぁに言ってんのよ。猫だって大事に育てれば二十年近く生きるのよ。わたしの方が案外先に死ぬかもしれないじゃない」

「そうじゃなくて」

 突然、猫の手がぱたりと止まった。めずらしく彼の方が先に議論の不毛さに飽きたのか、それともキーボードと口で喧嘩をする不利にいやになったのか。どちらだろう。と思っていると。

 少しだけ振り返り、小さく鳴いてから、今度は考え考えゆっくりと打ち込み始めた。

「怖いんだ。急にこの体の中で気がついたみたいに、今度は急に消えてしまいそうで」

 たしかに、画面に浮かび上がる言葉と子猫の姿があまりに違和感があって、わたしの中にも小さな不安が浮かび上がる。

「それは不思議だけど。でも」

 子猫は自分の体を見回す。

「この体、誰のもんなんだろう。俺、何でここにいるんだろう」

 私は思わず子猫を抱きしめる。子猫はわたしの肩に頭をこすりつけてくる。小さすぎるぬくもりが悲しくて。わたしはその悲しみを刺激しないようにじっとしている。

 しばらくそうしていると、インターフォンが鳴った。

 どうせ新聞か宗教の勧誘だ。無視したが、しばらくしてまた鳴る。

「なにかご用ですか」

 せっかくしんみりしたのを邪魔されて、思い切り不機嫌な声で返答した。

「あ! お休みのところすみません」

 その声は本当に恐縮そうだった。暗い画面をよく見ると、写っているのは片岡の姿だ。

 私は一瞬自分の姿を見直す。洗いざらしのTシャツに杢グレーのスウェットのハーフパンツ。髪も朝、梳かしただけでブローもしていない。さらには色つきリップさえつけていない完璧なノーメーク。

 一瞬ためらって。

 でも、別れるなら、むしろこれを見せた方がいいのかもと思いなおす。

 ドアを開けると片岡は、普段彼と会うときとはまるで違う私の姿に一瞬目をしばたいたが、特に動揺した様もみせず、頭を下げた。ちょっとだけ拍子抜けする。

「少しだけ話をさせてもらえませんか」

 たしかにさすがにこの前の電話だけで終わらせるのは失礼だったかもしれないとは思っていた。しかし、話となるとこの部屋でということになるのだろうか。それはいろいろな意味で抵抗があった。

「でも……」

「すぐ先の国道沿いにファミレスがありますよね。あそこででも。そんなに時間は取りません」

 陽介が存在を主張するように一声鳴く。それからいきなり片岡に飛びついた。

 くしゃみがあたりに響き渡る。

「す、すみません。この子をなんとか」

 必死に訴える片岡から陽介を引きはがそうと手をのばすより前に、ひらりと彼は飛び降りる。そして、くいくい。と招き猫のように手を動かした。

「ああ、そうか」

「なにか」

 片岡の疑問をわたしは曖昧に笑ってごまかす。

 たぶん陽介は、いざとなれば猫アレルギーの片岡を撃退するのは簡単なんだから、自分のいるこの部屋で片をつけろ。と言っているのだろう。

 ただ、陽介には言いづらいが、そういう意味では、あまり心配していなかった。

 ためらっていたのは、陽介には平気で見せているこの散らかった部屋を片岡に見られることなのだ……。ごめん。

 とはいえ、ここで陽介を置いていったらすねてしまうだろう。それに、もうこのスウェット姿を見られたのだ。部屋が散らかっているのを見られてもそう状況はかわらない。いや、いっそそれも見せてしまったほうが見放してもらいやすいかもしれない。

「この子を置いていきたくないんで。あがってもらえますか」

 片岡はちょっと驚いたようにわたしを見たが、すぐに地味に頷いた。

 陽介は、少しだけ距離を置いてしっかりと片岡についてくる。ローテーブルの前に彼らを座らせて、麦茶を用意しているとなんだか妙な気分になってきた。

 ひょっとしてわたし、もててるんだろうか。今。

 猫と猫アレルギーの人と。

 氷を入れた麦茶を持っていくと片岡は何か訴えるように私を見る。

「はい?」

「ええと、スペクタクルってこういう……の……」

「あ……」

 彼の視線の先には消し忘れたままのテレビが『少林サッカー』を映していた。くりくりに頭をまるめ、キーパーの位置に陣取るヒロインが、敵の超強力なシュートを少林寺の技を使い見事に受け止めているところだ。

「ええ。まあ、そうです」

 もうやけだ。

「チャウ・シンチーは私の神です。もともとはジャッキー・チェンが大好きで、ええ、もちろん香港時代のほうがばかばかしくて好きなんです。日本映画だったら『逆境ナイン』とかも好きだなぁ」

「言ってくれればよかったのに」

 片岡は疲れたように笑った。なんだか申し訳ないような気分がして、あわてて言い訳をする。

「でも、面白かったですよ。普段、自分が全く選ばない映画を見るのって」

「普段と違って面白いか……。結局、そういうことだったんだね」

 それが、映画だけのことを言っているのではないことくらいわたしにも分かる。

「ごめんなさい」

「あやまらないでいいよ。最初はみんなそんなものだろうから。何度か会っても、それ以上になれなかったんだから仕方ない……」

 それから、片岡は思いを決したように、その言葉を口にした。

「やっぱり僕はお友達どまりなのかな」

 あまりに図星で言葉が出ない。

 そうだからこうして部屋にあげてしまったわけだし、それ以前に本気でつきあうつもりもないのにずるずるとデートを重ねていたわけだし。

 片岡は返事を求めてはいなかったようで、品よく麦茶を飲んでいる。

 陽介はその横顔をじっと見つめている。

「でも柚子も言ってました。片岡さんみたいな良い人はなかなかいないって、きっとすぐに素敵な相手が見つかりますよ」

 と、片岡がコップを置いて、溜息をついた。

「だめなんだ」

 首をかしげて陽介が見上げている。

「高校は男子校だったし、大学も学部は経済でまわりにほとんど女の子が居なかったし……」

 どうやら柚子の言う、平和だった高校大学時代というのは、それなりにうまくやっていたわけではなくて、全く女に縁がなかっただけらしい。

「そのせいなのか自意識過剰だとは分かっていても。女性と一緒にいると緊張しちゃってうまく話せないんだ。でも、なぜだろう。篠田さんとだと結構楽に話せた。どういったらいいのかな、少しくらい失敗しても許してもらえそうな気がしたというか。でも……それは甘えてたのかもしれないね」

 首を横に振りながら、わたしはかなり失礼なことを考えていた。

 わたしといるときで、くつろいでいた方なら、他の女性と一緒にいるときは、どれだけ堅苦しい人なんだろう。……と。

 とはいえ、ある種女を見る目があるのは認めないわけにはいかない。たしかにわたしは寛容さになら自信があった。そうでなければ、陽介とつきあえるわけなどないのだから。

「この猫が陽介君だよね」

 片岡は子猫を見下ろしていた。

 そして、おそるおそるという感じで手を伸ばす。陽介は、飛びすさって身構えた。

 しばらく二人。見た目は一人と一匹はじっと目を見合わせていた。

 その時、わたしはちょっとした疑問を抱いた。陽介にしがみつかれてこそいないものの、この部屋の中は猫の毛だらけのはずだ。それなのにさっきから、彼は全くくしゃみをしていない。

「そういえば、猫アレルギーですよね。大丈夫なんですか?」

 片岡はこちらを振り向くと、少し照れたように笑った。

「今日は症状抑える薬飲んできたから」

 それを聞く陽介の目がきらりと光る。そしていきなり片岡のそばにすり寄ると、胸元に頭をこすりつけだした。

「うわっ」

 片岡は叫んで顔を押さえた。

「ご、ごめんいつもよりは大丈夫なんだけど、さすがにこれだと」

 陽介の仕打ちになんとか耐えようとしているのだが、くしゃみと共に涙と鼻水が飛び出してきて、あわててポケットの中からティッシュを引っ張り出す。

「陽介、やりすぎ」

 わたしは手を伸ばして彼を引きはがす。

 片岡は、内ポケットからもティッシュを取り出して必死に顔を押さえている。固くて隙がないとばかり思っていた男が、猫に遊ばれて涙目でくしゃみしている姿はなかなか愛らしい。胸の奥がきゅんとした。

 やばい。なんなんだ。この感情は。

 そういえば大学の頃。厳しいと評判の教授の授業で間抜けに声色を使って代返したあげく、発覚して教室から追い出され、すごすごと出ていく陽介を見送ったときもこんなときめきを感じたのだ。

 彼とのつきあいは、そのあとノートを貸してあげたのが始まりだった。

 それだけじゃない。さかのぼれば、中学の体育の時間。他のスポーツはさほど苦手ではないのに、なぜか水泳だけはできない隆幸君が、意地で犬かきで二十五メートルを泳ぎ切り、必死の形相で水からあがってくる姿に恋をしてしまったこともあった。小学校の調理実習で、卵ってこうやって割るんだぜ。とかっこをつけて片手で割ろうとして握りつぶしてしまい、目玉焼きが殻だらけのまだら焼きになり、班のメンバーの非難を一身にあびていた宏くんにときめいたこともあった。

 わたしはすっかり脱力していた。

 こうしてみると、なんて分かり易く、かつ困った趣味なんだろう……。毎度ライバル少ないわけだ。

 わたしはいつの間にか陽介を抱えたまま自分の物思いに沈んでしまっていたようだ。

 視線を感じて顔を上げる。

「本当に大切だったんだね。陽介さんて人のこと」

 ティッシュで鼻を押さえ、目をぐずぐずにしながらのこのセリフだ。見れば、彼の手元には、ポケットティッシュの空き袋らしいビニールや鼻をかんだティッシュの山が握りしめられている。

 吹き出しそうになって、ごまかすためにあわてて立ち上がり、ゴミ箱とティッシュの箱を彼の横に置く。

「あの、ポケットティッシュなくなってしまうと大変でしょうからそちらから使って下さい」

 片岡はほんとうにほっとしたように笑った。

 その時にはもう、わたしはどうしようもなく彼を引き留めたくなっている自分に気づいていた。

 だが、わたしの腕の中には陽介がいる。寂しがっている私のために、猫に生まれ変わってまで、戻ってきてくれた陽介が。 

 どちらも離したくない。それがその時のわたしは本音だった。けれど、その願望を素直に表すには、わたしはあまりに小心な小市民すぎた。

 陽介なんて猫なのに……。思っても、物堅い両親にしつけられてしまった古風な道徳観念はどうにもならない。

 ならばできることは、せめて片岡にこれ以上トラウマの種を増やさないことだけ。

「信じてもらえないかもしれません。でも、この子、ほんとうに陽介の生まれ変わりなんです。だからわたしこの子だけは離せなくて」 

 片岡はぎょっとしたように子猫を見る。彼は私のとなりにちょこんと座り込んでいた。

 もちろん真に受けるはずも無いことは承知の上だ。

 ただ、死んだ恋人の思い出にとらわれて、抜け出せない女の戯言に聞こえればそれでいい。わたしを嫌わないままで、わたしが彼の猫アレルギーを責めていないことを理解して去っていってくれれば。

 彼ならきっといつかいい人を見つけられるだろう。なにしろ見た目はかなり良い方なのだ。もう少し年を重ねて固さもとれてくればきっといい男になる。いや、もしかしたら、すぐにでも物好きな女が見つかるかもしれない。

 でも、猫の陽介を守ってやれるのは私だけだ。

 そっとわたしは陽介に目で語りかける。

 と、なにか嫌な感じがした。

「陽介」

 子猫はめんどくさそうに小首をかしげる。

 その仕草の端々に、いつもなら隠しようもなく覗く人間くささが抜け落ちていた。

「陽介」

 あわてて抱き上げた腕の中、子猫はまるで知らない人にいきなり捕まえられて驚いたかのように暴れる。

 「いたっ」

 暴れた拍子に爪で引っ掛かれ、竦んだところで腕の中からすり抜けていってしまう。

 手の甲に走る赤い筋を無視して、もう一度捕まえようとしたが、あっさりと身をかわされた。そしてそのまま開いていた窓から飛び出していく。

「何してるの。どこへいくつもりなの」

 玄関に回っていては彼を見失ってしまいそうだ。追って窓から飛び出そうとするわたしに焦ったような声がかけられる。

「篠田さん!」

「すみません。ちょっと待っててください」

 言い捨てて、わたしはスリッパのまま窓から飛び出した。幸いここは一階だ。そして、さらに幸いだったのは、猫になっても陽介が運動音痴なことだった。

 塀の隙間を抜け、門を飛び越えて道路に飛び出したが、通常の猫ではありえないところで足を滑らせ、躓く。道を駆けていく早さまでもが、人間のわたしがかろうじて見失わずに済む速度だ。

 さすがに戸惑いを感じた。ひょっとして、わざと私を待ちながら走っているのだろうか。

 しかし、塀を乗り越えようとして、思いっきり足を滑らせ、どってりと地面に落ちるのを見て、どうやら素かもしれないと思いなおす。

 久しぶりの自分の体を持て余しているのだろうか。

 とはいえ、苦しい。

 いくら学生時代にバレー部だったとはいえ、最近は通勤以外ろくに運動していない体に、動物との追いかけっこはハードすぎる。

 いつまで続くんだろう。そう思っていた私の視線の先で、子猫は塀を超え、古い農家の敷地の中に走り込んだ。だだっ広い庭の一部とはいえ、住居侵入だ。一瞬だけ躊躇ったが、周りを見回して人がいないことを確認すると、えいやっと塀を乗り越えた。

 猫の姿が消えた方角を目指して、林がそのまま残っているような庭に分け入っていく。道路から少しばかり中に入った古い樫の根元で、陽介はこちらを向いてわたしを待っていた。

 あの表情は陽介だ。ホッとしたものの、彼はわたしの姿を認めると、低く鳴いた。

 ただその一声にわたしは悟らされる。

 夢の時間は終わりなのだ。

 陽介は時間はないと最初から言っていた。そしてたぶんわたしも……。でも、認めたくなかった。だって予感なんてはずれるものなんだから。

 だって信じてたのに。

「やだ。いかないで、ずっと一緒にいるって約束したじゃん」

 差し出した手に柔らかな毛並みが触れる。その少しほこりっぽい暖かな手触りにわたしは泣きそうになる。そのまま彼を抱きしめた。

 なめらかに毛並みに包まれた固くしなやかな筋肉。それはけして陽介のものではない。

 頬に毛並みが触れ、爪がTシャツに引っかかる。

 それでもいい。もうずっとこうしていよう。絶対に離さない。わたしは彼を抱きしめる手に力を込める。

 と、湿った風が吹いた。夕立の前のような奇妙な風だ。

 陽介は首を伸ばし、ひどく悲しそうな鳴き声を上げた。わたしは急に不安になる。次の瞬間。彼の体はするりと腕の中をすり抜けた。

 樫の巨木にとりつき、小さな凹凸を足がかりに見事な身のこなしで駆け上がっていく。

 少し仰ぎ見る辺りにある太い枝に落ち着くと、いったん脚を止めてわたしを見た。

 よ・う・す・け。

 唇を動かしても声が出ない。

 彼はさらにほれぼれとするようなしなやかな動きを見せて、樫の木を登っていく。空へ近いところへと。

 その体を支えられる限界だろう位置までたどり着くと、ようやく立ち止まった。

 何かを呼ぶような、細く引くような鳴き声が辺りに響き渡る。応えるように猫の声があちらこちらから返って来た。

 犬でなら、時折聞いたことがあるが、猫が鳴き交わすのを聞くのは初めてだった。 

 いきなり全ての風が止まった。

 なにかを待つように陽介は首を伸ばし空に向かう。

 すべてを吹き払うような激しい風がその場を通り抜けた。枝からはぎ取られた木の葉は宙に舞い。わたしの体もあおられて倒れそうになる。

 茶色の縞を持つ小さな体も葉と共に樫の木から引き離され宙を舞う。

 しかし、その風は一瞬で行き過ぎ、もとの緩やかな風が戻ってきた。だが、その風では子猫の体を空中に支えることは出来ない。

 薄茶色の毛玉は真っ逆さまに落下してきた。

 喉の奥から悲鳴がせり上がる。

 わたしは両手を構え、なんとか彼を受け取ろうと構えた。運がよかったのだろう、陽介は激しい衝撃と共に私の腕に叩きつけられた。膝をつきながら、なんとか受け止める。腕が痛い。だが、それどころではなかった。

「陽介。陽介」

 子猫は呼びかけに応えず、ぐったりと目を閉じている。

「陽介!」 

 叫びながら小さな体をまさぐる。心臓は鼓動を刻み続けていた。しかし、安心することは出来なかった。たとえ今まだ息はあっても、このまま目覚めることなく消えていってしまうのかもしれない。

 わたしは必死に丸くなった背をなでる。

 と、かすかに彼が身じろぎをした。

 喜びの声をあげてわたしは彼を見守る。ただその背をなでる手に願いを込めながら。

 子猫はようやく目を開けて。小さな声で鳴いた。

「陽介。大丈夫?」

 問いかける言葉が聞こえなかったように、彼は自分の手を舐める。

 違和感があった。

「よう……すけ」

 しかし、茶トラは応えない。ただ無心に自分の手を舐め、顔をこすっている。

 そしてわたしは悟った。

 そこにいるのが、陽介ではなくて、正真正銘の子猫だと。

 茶トラの体は戻って来たけれど、小さな体の中でわたしに寄り添ってくれていた陽介はもういない。

 体中が切れそうに苦しくなって、わたしはその場にしゃがみ込む。

 次の瞬間。腕のなかで子猫は身をよじった。しなやかな体はあっさりと人間の縛めから逃れ、戻ってきたとばかり思っていた茶トラの体さえもが腕の中から逃げ出した。

「待って。よ--」

 陽介。と、もう呼ぶことは出来なかった。その逡巡と戸惑いの間に茶トラの姿は茂みの中へ消える。

 必死で後を追った。けれど本物の猫に人が追いつけるはずはない。

 呼ぶ名を持たないわたしは、それでもしばらく子猫を探し回った。しかし走っているうちに、気づいてしまったのだ。陽介でなくなってしまったあの茶トラを、わたしの側にしばりつけてどうなるのだろう。

 やがてわたしはとぼとぼとマンションに戻った。

 しかし部屋のドアの前で意外なものを耳にした。

 子猫の鳴き声。

 ドアノブを握る手がうまく動かない。

 と、その時にもう一つ音がした。

 派手なくしゃみ。

扉を開けると、キッチンに子猫と片岡が一緒にいた。

 その光景になぜか、さっきまで感じていたどうしようもない悲哀感が抜け落ちてしまい、わたしはぼんやりと立ちつくす。

 こちらに気づいた片岡は、反応が無いのにあわてたのか早口でしゃべり出した。

「よかった。陽介くん先に戻って来てたよ。なかなか戻ってこないから心配してたんだ」

 わたしは子猫を抱き上げた。

「よかったね。見つかって」

 穏やかな声だった。その柔らかな口調がなにかを呼び覚ます。

「陽介じゃないんです」

「えっ」

 とまどったように聞き返された。

「この子、もう陽介じゃないんです」

 言ったとたん。突然今まで影さえ見せなかった涙が溢れ出してきた。

 陽介が死んだときにさえできなかったほど無防備にしゃくりあげて、鼻水を垂らして、わたしは子どものように泣きじゃくっていた。

 そのときわたしが軽く一時間以上も泣き続けていただろうか。肩をたたく手と、ときおり聞こえてくるくしゃみの音が少しづつわたしを落ち着かせてくれた。

 そして律儀なことに片岡は、わたしが泣きやむと、くしゃみをいくつか置きみやげにあっさりと帰っていった。

 



 どんぐりが逝ったのは、十一年目の春。つい去年のことだ。

 ちなみにどんぐりというのは、陽介だった猫の名前だ。

 だが、陽介がいなくなったのだとして、今のどんぐりはどこからきたのだろう。陽介の中で眠っていたのだろうか。それとも、記憶を失った陽介なのだろうか。

 ときどき、どんぐりがパソコンの前にいたりすると、胸がどきどきしたが、茶トラは二度と人の言葉を紡ぎ出すことはなかった。

 それでも、長男の修哉(しゅうや)などは、すっかりどんぐりになついていて、夫に叱られたときなど、猫を抱いて部屋にこもってしまう。もっとも、そうしていれば、猫アレルギーの父親が近寄りたがらないのを分かってやっていたふしもある。

 どんぐりのほうでもひょっとして、彼のことを弟だとでも思っているんじゃないかと感じることもあった。

 どんぐりがいなくなり。夫はといえば、最初こそ、これでくしゃみと鼻水に悩まされることもないとほっとした表情をみせていたが、しだいに寂しくなったようで、ときおり彼女の置きみやげの毛のせいなのか、くしゃみを連発したあとなど、ひどく懐かしそうな顔をする。

 そう、馬鹿にした話なのだが、どんぐりはメスだった。だが人間の男性だった記憶がどこかに残っていたからなのか、ついに赤ん坊を生むことはなく。それは修哉にとっては寂しいことだったようだが、これ以上夫のアレルギーを悪化させるわけにもいかないことを思うと、これで良かったのだとも思う。

 それに、修哉もどんぐりがいなくなったことを、いつまでも悲しんでばかりいるわけにもいかなくなったのだ。 

 真っ赤な顔で泣いている弟に、修哉は

「どんぐり、ひさしぶり」

 そう話しかけた。

「ちょっと、待ちなさい。いくら可愛がってた猫でも、弟にそれはないでしょう」

 わたしが呆れていると、彼はきょとんとした顔で答えた。

「だってどんぐりだよ。こいつ」

 一言で否定し去ろうとして、わたしはしばし言葉を失う。

 あのとき、どんぐりはたしかに陽介だった。ならば、この子がどんぐりでいけないわけがなぜあるのだ。

 でも、もしかして、どんぐりが記憶を失った陽介だとすれば、この子は陽介の生まれ変わりということになって。

 父親には言うなと口止めしたほうがいいだろうか。そう思って修哉をみると、彼は一生懸命弟をあやしている。

 まあいいか。     

 夫は、あれは寂しかった私の紡ぎ出したファンタジーなのだと思っているのだから。





〇北の国から 

 1981年に連続ドラマ、2002年までに8本のスペシャルが放送された倉本聰脚本による当時の国民的人気ドラマ。北海道富良野の大自然の中で暮らす一家を描いて素直な大人の涙と感動を絞った。

 モノマネのネタにも使われ、特に「子供がまだ食ってるでしょうがぁ!!」のフレーズなどが有名。


〇少林サッカー 

 チャウシンチー監督によるアクションコメディ映画。少林寺拳法の達人の主人公がやさぐれていた兄弟弟子たちと一緒にサッカーチームを組み、超人的な技を繰り広げて勝利をもぎ取っていく。サッカー映画なのに特撮シーンが多い。そして最後に振り切ったヒロインが実に美しい。

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