55話 アイリス=グッドホープ 前編
ある年、ある日の早朝。
物音で目が覚めた幼い少女は、寝惚け眼をこすりながら一階へと降りた。
玄関では、旅支度をした男が今まさに出発しようとする瞬間だった。
「お父さん」
少女の声を聞いた父は、ギクリとして振り返る。
「……アイリス、起きてきちゃったのか?」
「また【異界迷宮】に行くの……?」
「ああ。仕事だからね。仕方ないんだ」
そう言う父の顔は、旅行に出かける前の子供のようにウキウキを隠し切れないでいた。
父が冒険好きなのは彼女も母もわかりきっていることだ。父親としての面目を保とうとしているのか知らないが、下手に意地を張らなくてもよいのではないかとアイリスは思っていた。
だが、今日という日に限っては冒険に行かないで欲しかった。
「ねえ、今日私の誕生日……」
「えっ……⁉……あっ、あー、うん!もちろん覚えているとも。もう七歳か、早いなー!」
「……八歳だよ」
「…………」
「…………」
「なーんちゃって!お父さんの渾身のボケでした!引っ掛かった?」
「絶対ウソだ!」
はははー!と笑い飛ばす父は、額に脂汗を滲ませていた。
こんな父に今更とやかく言うつもりはなかったのだが、流石に誕生日まですっぽかされると思うとショックだった。
ムッとしたアイリスは、意地悪をしてやろうとついついこんな質問をしてしまった。
「お父さんは私とお仕事、どっちが大事なの?」
父が固まった。よし、効いたか?と返答を待っていると、
「……アイリス。お母さんの真似をするのはやめなさい」
真顔で答えをはぐらかされて、アイリスは憮然となった。
彼女にとっては別に、母の真似をしたつもりはないのだが父は何やら勘違いしたようだった。むしろ母も同じ質問をしていたと知って、アイリスの方が少しばかり嫌な気持ちになる。
黙って俯いていると、父はやれやれといった感じで、鼻で溜め息を吐いた。
「あのな、アイリスもお母さんも凄く凄く大事だ。なんたって家族なんだから」
でも、と言ってアイリスの肩に手を乗せる。
「一緒に冒険する仲間も、二人に負けないくらい大事なんだ。彼らには、お父さんが危ないときに何度も助けてもらってる。だからお父さんは、少しでも彼らの助けになりたいと思ってる。そうして何十年と築いてきた繋がりは、家族と同じくらい太くて強いものになるんだよ。まだ小さいアイリスには難しいかもしれないけど、わかって欲しい」
「……うん」
その仲間というのが、父にとってどれほど大切な存在であるかはよくわかった。だが、やはりアイリスとしては、もっと父と一緒の時間を過ごしたいというのが正直な思いだ。
そんな彼女の心情を察してか、父はニッと笑ってこう言った。
「……そうだ!お父さんが冒険者だからこその何か凄いプレゼントを持ってきてやろう!近所の子に自慢できるようなのを【異界迷宮】で見つけてくるから!な!」
「うん……!」
物で釣るというベタな方法ではあるが、やはりまだ八歳の子供。アイリスはまんまと父の口車に乗せられてしまった。
娘のご機嫌が直ったと見るや、彼は玄関の扉を開けた。
「遅くなるかもしれないけど、夜までには絶対に帰るから。――じゃあな、アイリス」
「それでね!それでね!お父さんが凄いプレゼントを見つけてきてくれるんだって!」
四角テーブルの席に着いたアイリスは、足をパタパタさせながら言った。
テーブルには丸焼きのチキンやグラタン、ミートボールなどアイリスの好物が並ぶ。
「まったくあの人は、出来るかどうかも分からない約束をして。アイリス、あんまり期待して待ってない方がいいよ」
「どうして?」
母がなぜか不機嫌そうに追加の料理を運んできた。テーブルの上が、より一層豪華になる。
「お父さんはね、全然大した冒険者じゃないからよ。アイリスと同じ様に【ドラゴンサモナー】の《才能》を持ってるけど竜種を操れないの。他に戦闘系の《才能》もないから役目はせいぜい荷物持ちじゃないかしら」
「……ふーん。でもすごく楽しそうだよ」
「それがあの人の困ったところなのよね。弱っちいくせに無茶しなければいいんだけど。は~、心配だわ。アイリスは絶対冒険者なんかになっちゃダメよ」
昔から母は冒険者という職業を嫌っていた。アイリスの叔父にあたる、実の兄を亡くしていたのだから当然だろう。
「あと三十分待ってもお父さんが帰ってこなかったら、先に夕食を食べちゃいましょう」
母がそう言って台所に戻っていく。それを見計らって、アイリスはテーブルの上のミートボールに手を伸ばそうとして、
「あつッ⁉」
不意に、右手の小指に焼き焦がすような痛みが襲った。
「あー!アンタ、つまみ食いしたね!」
アイリスの声を聞いた母が、慌てて戻ってくる。
「まだしてないよ⁉」
「意味わからないこと言ってないで、火傷したとこ見せてみなさい」
小指を見せるが、別段変わったところはない。
二人して眉をひそめる。
「あれ?何ともないね。痛みはある?」
「ううん。もうない」
「そう……。ならいいけど。もうつまみ食いしちゃダメよ」
「だからしてないって!」
アイリスはもう一度、自分の小指に視線を移す。
あの痛みは何だったのかと考えていたのは数秒で、すぐにお父さんが早く帰ってこないかなということで脳内が埋め尽くされた。
結局のところ、父は二度と帰ってはこなかった。
アイリスの誕生日から日付が変わって深夜二時頃、来客を報せる鈴が慌ただしく鳴り響いた。
やって来たのは、父と同じパーティの冒険者である男と、そのギルドマスターである老齢の男の二人。
彼らが言うには、【異界迷宮】内でその冒険者の男を庇って、父は死んでしまったらしい。
玄関先で冒険者の男が泣いて謝り、母が茫然とした顔で膝から崩れ落ちる。
アイリスは自分が悲しんでいるのかもわからなかった。ただ、気の強い母でもあんな風に取り乱して泣いたりするんだなとだけ思っていた。
すると、ギルドマスターのお爺さんがアイリスの元まで近づいて、こう囁いた。
「お父さんは亡くなる間際、君に竜種の契約権という凄いプレゼントを遺した。あー……少し、難しいか。魔法が発現すれば、君も竜種を呼べるようになる、と言えばわかるかな。夕方くらいに小指に痛みはなかったかい?それが、お父さんから君に権利が移った証拠なんだよ。生涯それを大切にしなさい」
その言葉の意味は、八歳になったばかりのアイリスには難しかった。しかし、一つだけ彼女にもわかったことがある。
小指に痛みが走ったあの時に、父は死んでしまったということだ。
それを理解した瞬間、ようやく、アイリスの目から涙が溢れ出た。
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『56話 アイリス=グッドホープ 後編』に続く
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