109話 イザクVSクシナダ姫
イザクは塔内を必死に走り回っていた。
「ぜーッ、ぜーッ。あー!しつッこいな!」
正確には、逃げ回っていたというべきだ。
足を止めることなく、肩越しに後ろを確認する。
そこに人影はない。
「そんなに必死に迫られると、ときめいちゃうね」
だがイザクは話し掛けた。誰の姿もないというのに。
直後、
「――奥方が悲しみんすよ」
イザクの死角、それも至近距離にミト=クシナダは姿を現した。目にも止まらぬ速度で回り込んだのだ。
彼女はそのまま躊躇なく斬りかかる。目的は捕縛であるため、もちろん峰打ちだ。
高速の一振り。ミトの姿を確認する暇はない。
「心配無用だ」
だからイザクは、振り返ることもなくその場で身をかがめた。
(これも避けるか)
表情を変えることなく、内心で舌を巻くミト。
イザクは彼女の腹部へ、振り向きざまに蹴りを繰り出す。
ミトもまた、後ろに大きく飛んで躱した。
ふわりと着地すると、互いに動きを止め、だだっ広い廊下の中央で向かい合う。
「アイツはなんだかんだ許してくれるから」
「男としては最低の台詞でありんすよ」
「自覚はあるさ」
そう呟いて、右手を前に突き出す。
「“天墜新星”、【引き寄せる星】」
「――!ぐッ……⁉」
自身の重みに耐えかね、その場で膝を着くミト。さらに襲い掛かる真上からの圧力で、這いつくばる体勢となる。
(加重魔法……!それも広範囲に!)
「実はついこの間も、こうして美女を這いつくばらせる羽目になったんだが、そういう性癖じゃないんだ。信じてくれ」
「ええ、信じんしょう……。わっちの見立てだと、逆の方が好きなんでありんしょう?」
「……どうだかな」
「ふふ、きっとそう……」
ミトは圧し潰されそうな重力に耐えながら、強がりのような笑みを浮かべる。そして、刀を握る手に力を込めた。
「――“清光を導け”【白月】」
魔法を唱えたミトの全身が淡い光に包まれる。
「させん」
咄嗟に【引き寄せる星】の効力を強めるイザク。辺りの床が一斉にひび割れるほどの重力がかかるが、ミトは無数の光の粒子となって姿を消した。
「チィッ!」
イザクが大きな舌打ちをした瞬間、彼の真横で強烈な閃光が発生する。
「――」
その光を認識するとほぼ同時、イザクの左頬に刀の峰が叩き込まれる。
「ぶォッ!」
ゴォォォン‼と凄まじい轟音が炸裂した。
イザクの体が一直線にぶっ飛び、壁へと激突したのだ。
「ぬ……う……ッ」
「やっとまともに当たりんした」
光の粒子が収束し、上半身から体を形成し始めていた。やがて下半身も形作り、元のミト=クシナダの姿へと戻っていった。
彼女は胸に手を添えながら、力なく壁にもたれかかるイザクに言う。
「光に重さはありんせん。重力魔法は、わっちとは相性最悪でありんしたなぁ」
イザクは揺れる視界のまま、ゆっくりと顔を上げる。
「……おい。当たりどころ悪けりゃ死んでるって」
「申し訳ありんせん。ついムキに」
「はっは……。素直に謝られちゃあ許すしかない」
「お心遣いに感謝を。さて、これ以上の抵抗は無駄だと身に染みたことでありんしょう。いい加減、大人しく掴まっておくんなんし」
イザクはニヤリと笑みを浮かべて、
「それは嫌だ。この場所じゃ、特にな」
「…………」
ミトの表情がみるみるつまらないものを見るように変わっていく。
「……結構。ならば、意識を刈り取るまで」
「アンタには無理だ」
「強く殴られて数秒前の記憶が飛んだのでありんすか?ぬしは反応すら出来なかったというのに」
「ちゃんと覚えてるさ。そのうえで何とかなると思ったんだ」
「減らず口を」
「はっは。いや、つーか……、この魔法で終わりだ。――“黒孔新星”、【崩壊する星】」
「ッ!」
イザクが不意打ち気味に魔法を唱えたことで、ミトは反射的に効力が続いている【白月】を使用した。再び彼女の体が光に包まれる。
発動までにコンマ数秒かかるものの、どんな魔法が放たれようとも回避には充分な猶予があるはずだ。
【白月】。自身の体を光に変える、回避・移動用の固有魔法。
一度その状態になってしまえば如何なる攻撃をも通さない。効果持続時間はわずかに0.1秒だが、それだけあれば標的の瞬殺はもちろん、戦場からの離脱も容易である。
(どんな魔法も、わっちの速度には追いつきんせん)
ミトはそう思ったところで、大きな違和感を抱いた。
「ッ⁉」
(え――。体が重い――⁉)
光の粒子への変化が始まらない。それどころか、何かに引っ張られるように体が重く感じた。
その原因は、何の前触れもなく目の前に出現した黒い球。
(な、何だこれは⁉)
黒い球から発せられる引力は次第に強くなっていく。その正体に勘づいたミトは、今日初めて顔色を変えた。
(ま、さか――。光すらも呑み込むぐちゃぐちゃな重力場の塊⁉アレに触れたらどうなる⁉ま、まずい――‼)
しかし逃れようにも逃れられない。そして彼女の頭に浮かび始めたのは『死』の一文字。
顔中に嫌な汗が滲む。黒い球はその汗すらも吸い寄せ、強力過ぎる重力で無に還す。
(ふざけるな!こんな――!発動させた時点で詰みではないか⁉駄目だッ、殺され――)
その瞬間、バリンッ‼と何かが割れる音がした。
「なッ!」
ミトは音の方を見て驚愕した。そこには今まさに、廊下の側面にある巨大な窓を突き破って、イザクが塔外に逃げようとしていたからだ。
イザクは呆気に取られるミトの方を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「はっはっは!じゃあな、姫様」
そう言い残し、彼は窓から飛び降りた。
黒い球はいつの間にか消え去り、ミトにかかっていた引力もなくなっていた。
残されたミトは、刹那の間に、暴れ狂う自身の心臓の音を聞きながら、何が起こったのかを分析する。
なぜ殺さなかった。いや、そこは問題じゃない。
弄ばれた。コケにされた。
それは彼女にとって耐えがたい屈辱だった。
ミトは血相を変えて声を荒げる。
「――ッ、待ちなんしッ‼」
イザクを追うべく、破られた窓枠へ片足を掛けて身を乗り出す。
が、眼下には既にイザクの姿は見当たらなかった。
「チッ、どこへ消えた……」
目を閉じ、耳を澄まして、捕捉を試みる。
「ん?」
イザクの足取りは掴めなかったが、代わりにこちらに飛来してくる何らかの物体を感知した。
目を開いたミトの視界に映ったのは、一羽の真っ黒な鳥。ミトが右手を差し出すと、その鳥は爪でミトの手を傷つけないようそっと舞い降りた。嘴で一通の手紙を咥えている。
「ナナハの八咫烏か。なぜここに」
ミトは呟いて、烏が運んできた手紙の内容を確認した。
「……!そうか。よりにもよってこのタイミングで……」
名残惜しいように窓から眼下を一瞥し、ミトはその場を後にした。
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『110話 最も危険な冒険者』に続く
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