105話 極秘クエスト
「あら~?」
セラはふと何かに気づき、窓の外へと目を向けた。
「どうしたセプティムス?」
そう尋ねたのは、歓楽街の王であり、アステール王国の第三王子でもあるバジル=アステリアス――に、なりすます、仮面を被った別の人物。
この事実を知っている者はごくわずかだ。そのうちの一人が、彼の私室で今こうして向き合っている白髪金眼の女性、セレーナ=セプティムスである。
「遠くの方で大きな黒い鳥が飛んでいるのが見えたので~。この辺りにはあんな生き物が生息しているんですね~。何ていう鳥なんですか~?」
「大きな黒い鳥……?はて、そんなものは見たことはないねッ」
声色からして、どうやらバジルは本当にその黒い鳥については認知していないらしい。
「そうですか~。ならどこか違うところから迷い込んだのかもしれませんね~」
イザクを含めた三人の中で、この東都での生活期間が最も長いバジルがわからないのであれば、問答は意味を成さないだろう。そう思ったセラは適当にこの話題を打ち切った。
「それよりもイザクの奴、遅くないかね。トイレに行くと言ってこの部屋を出てから十分は経っている。おかげで本題が入れないねッ!」
「ウンコじゃないですか~?」
「セプティムス。女性がそんな下品な単語を口にするものじゃないねッ!この塔に招いた花魁たちはもっと清楚に振る舞っているというのに。……ンん?花魁?まさかとは思うが……」
仮面で表情は分からないが、バジルはおそらく眉間に皺を寄せていることだろう。イザクとは旧知の仲だ。彼の性格や趣味嗜好はよく知っている。
そしてそれは、イザクの妻であるセラも同様だ。
両者ともに口を閉じたことで、バジルの私室が静まり返る。
すると、下の階から、楽し気な女性たちの喧騒が微かに聞こえてきた。招き入れた選りすぐりの遊女たちが宴会場で騒いでいるのだ。
「……若い女性にすぐ目移りしてしまう悪癖はどうあっても治りませんね~」
セラがポツリと呟いた。考え付いたことは一緒のようだ。
「あなたの魔法でどうにかできないんですか~?」
「いや、癖までは弄れないねッ!」
「……便利なようで、あまり役に立たないですね~」
「ンッフフフフ!手厳しいねッ!」
「あの人には少しお灸を据えに行かないと。この楽しそうな声が聞こえる部屋まで案内して頂けますか~」
セラはすくっと立ち上がった。にこやかな顔をしているが、どこか禍々しい空気を発している気がする。
「ま、まだそうだと決まったわけじゃない。もしかしたら本当にウンコかもしれない。……まあ十中八九、遊女たちにちょっかいをかけているだろうが、ねッ!」
二人の推測は半分正解で、半分不正解だった。
十数人の遊女たちが、ひと時の自由を愉しんでいる宴会場。
その出入り口の扉の隙間から、中の様子を覗き見している男が一人いた。
「おっほぉ~。天国ですかここはー」
なかなかお目に掛かれないような美女が一堂に会する夢のような光景。それを前に、間延びした声を漏らしているのはイザクだ。
トイレに用を足しに行ったのは本当だった。しかし、ふと聞こえてきた若い女性たちの声。男として気にならないわけがない。甘いお菓子の香りに惹かれる子供のように、ふらふらとした足取りで声を辿り、この宴会場の前に到着した。門番を務める二人の白服の制止を押しのけ、こうして覗き見を満喫しているわけだ。
「あの……、王よりこの部屋への男性の入室を固く禁じられておりまして。王のご友人といえど、お通しするわけには……」
門番を務める二人の白服の内の一人が、おずおずと口を開いた。
「なんだよー、部屋に入ってるわけじゃないからいいだろう?ただ見てるだけだって。それより、友人ってわけでもないから、そこんところ気を付けてくれ」
「はあ……」
完全な屁理屈をかまされたうえに、よくわからない忠告。
この男は絶対的な主であるバジルが招いた大事な客だ。強い口調で物申すわけにはいかない。白服たちは、目の前で行われる覗き行為を見過ごすことしかできず、悶々としていた。
そんな二人の胡乱気な視線など気にせず、イザクは遊女たちをじっくりと品定めする。
「ふむふむ。どの子も極上の美女ばかり……。ま、俺のセラには敵わないがなー。はっはっは」
テーブルの端から遊女たちをしていき、中央に居座る最も美しい女性に焦点が合う。
桃色の髪に狐のような獣耳、さらに赤い瞳を持った絢爛な遊女、クシナダ姫だ。
「ほう、アレが噂に聞くクシナダ姫か!なるほどお、これほどの美女は見たことが――」
言いかけて固まった。イザクの視線がミト=クシナダから逸れる。興味の対象が変わったのだ。普通なら、いつまでも眺めていたいと思わせる美貌を持つミトより興味を惹くような存在などあまりないだろう。
だがしかし、この時、イザクにとって予想外の人物がミトの隣にいた。
「何でアイツがここにいるんだ?」
がつがつと勢いよくご馳走を貪っているキヨメだ。
「うまいうまい!むむ!これもイケますね!」
「キヨメ、そんなに急いで食べるとのどに詰まりんすよ」
ミトは苦笑しつつ言うと、ふとフォークを手に持ったままゆっくりと立ち上がった。
「む。ミト殿、どちらへ?」
「ふふ。野暮な視線に晒されていては落ち着くこともままなりんせん。ちょっとばかり、ネズミを懲らしめに」
「……?」
キヨメが小首を傾げるとほぼ同時、ミトは出入り口の扉に向けて、フォークを指先だけで静かに投げつけた。
他の遊女たちに気づかれることもなく、イザクが覗き見する隙間、そのすぐ真横の扉に深々と突き刺さる。
「ッ⁉」
目を瞠り、条件反射で体を仰け反らせるイザク。
(おいおい!中の連中に気づかれないよう、完全に気配は消してたつもりなんだが!)
彼は冷や汗を垂らしながら扉から離れ、早足で歩き出す。
急に顔色を変えて帰っていくその背中を、白服たちは怪訝な顔で見送った。扉の裏側にフォークが突き刺さっていることにはまったく気づいていなかった。
この塔には本来、多数の白服たちがいる。だが現在、歓楽街で起きた二つの揉め事により、白服たちは出払っている。
そのため、イザクは誰ともすれ違うこともないまま塔内を突き進んでいた。
上階にあるバジルの私室に戻るため、階段を駆け上がろうとした瞬間、
「待ちなんし」
上方、階段の踊り場から声を掛けられた。イザクはビタりと動きを止める。
「堂々と覗きを働きつつも、そばの白服たちはそれを黙認。余程の立場の者でもない限り起こり得んこと。ぬし、一体何者?」
イザクが恐る恐る顔を上げた先にいたのは、つい先ほどまで宴会場にいたはずのミトだ。
「道に迷っただけの客人だよ。アンタと同じだ」
「客人?」
「そ、そんなことよりも、だ。今どうやって移動してきたんだ?誰ともすれ違った記憶はないんだが。瞬間移動?」
「瞬間移動などと、そのような大層なものじゃありんせん。ただ単に、ぬしが気づかなかっただけのこと」
ミトは柔らかな笑みを浮かべて返した。その腰にある刀にイザクは着目する。
「あぁそれ、三日月か。最速の固有魔法を発現させる妖刀。納得した」
「……公の場で魔法を使ったことはないのだけれど」
微笑から一転、眉根を寄せ、警戒を強めるミト。
自身の魔法は、【異界迷宮】でしか使用したことはない。【猟犬の秩序】のメンバーしか知り得ないことのはずだった。
「先代の使い手を知っているからな。三日月を含め、妖刀のいくつかはアイツの手に渡ったと聞いていたんだが……、ふむ、キヨメ然り、それらは既にその男の手元からは離れているらしい」
「キヨメのことまで……。あの子はハウンドの秘蔵っ子でありんすよ」
「いんや、今はウチのギルドのメンバーだ」
「……!」
その言葉で、ミトは目の前の男が誰なのかを理解した。
「気配の絶ち方、身に纏う空気、只者ではないと思っていんしたが、そう……、ぬしが!」
ついこの間、トウヤから聞かされていたとある男の外見とも一致している。だが、誰であるのかはわかるが、何者であるのかはわからない。
自分たちの知らない、『星導文書』にまつわる何らかの秘密を知っていると思われる人物。
「イザク=オールドバングか……!」
「はっはっは。こんな美女に名を知られているとは、嬉しいねぇ」
「ふふ、どうしてこんなところにいるのかは甚だ疑問を感じんすが、これは千載一遇の好機でありんすね」
「……あ?」
ミトはうっすらと笑みを湛え、腰の刀に手を掛ける。
「わっちを含め、ハウンドの隊長数名にはこんな極秘クエストが課せられていんす。イザク=オールドバングという男の捕縛、及び、その男が持つ情報の入手」
「……あー、それはそれは」
(よろしくない展開になってきたな)
イザクの頬を、再び汗が伝う。
どうにか戦いを避ける方法を考えようとするが、最早そんな猶予はない。
用を足して、なぜ真っ直ぐ戻らなかったのか。ほいほいと女性の声に引き寄せられてしまう自分の愚かさを呪った。
「見逃してもらうわけにはいかない……?」
ミトはかぶりを振って、熟練者特有の研ぎ澄まされた闘気をイザクへとぶつける。
「ギルドに所属されたことで手を出しにくかったのでありんすが、この歓楽街は生憎と無法地帯。さあ、ぬしが知っていること、洗いざらい吐いておくんなんし」
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『106話 夕闇の歓楽街』に続く
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